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飯田・りんご並木と裏界線(その1)

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 風越山という泰然とした山の麓、いずれも天竜川に注ぐ、松川、野底川というふたつの支流を南北の境とする、比較的広い高台に飯田の街はあります。南は三河地方、西は木曽、北は信濃の国・善光寺へ向かう交通の要衝にあり、江戸時代には幕府の直轄領・天領として栄えた伊那谷の中心地。この周辺ではかなり多くの個性的な文化、伝承芸能が生まれ育ってきています。

 飯田の街路もなかなか個性的。その代表的なものが「りんご並木」と「裏界線」です。公園の機能も併せ持った表通りである「りんご並木」と、表通りの間を繋ぐように部分的に顔を出す裏路地としての「裏界線」。とくに、この細い隠れた裏路地に「裏界線」という神秘的な名前をつけて生活道路として利用して来た飯田の街のセンス、個人的にとても好きだったりします。

 今日はその「裏界線」の様子をお伝えします。

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 近年、中心市街地の活性化を目指して、飯田の人々はこの街の歴史や魅力を積極的に語り始めました。裏界線も一部が改修整備され、歴史物語を宿した市民の空間として見なおされてきています。

 1947年春に発生し市街地のほとんどを焼きつくした「飯田大火」の復興の中から裏界線は生まれました。大火のときに避難路や消防活動のための通路が無く消火活動に支障をきたしたという反省から、一軒一軒の家々が1メートルずつ家の裏手の敷地を提供し合ってこの通路を設置したのです。
 おもに隣接した家屋の延焼を防ぐ目的で設けられたようですが、そこは表通りを歩く人の目には触れない道で、勝手口から出て往来するときや、裏手の街区へ手早く抜けるときに通るような道です。めったに人は歩いていない窓のない裏壁の続く道で、本当に隠れた空間なのです。

 裏界線は場所によっていろいろな表情を見せます。整備されたところもあれば雑然と放置されたところもあります。植木やプランターで飾られているところ、自転車やバイクが置いてあったり、家や工場の裏口があったり……。

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 まっすぐに区切られた街区の中央をまっすぐに抜けるので、反対側の出口をふり返るとトンネルの出口のような不思議な光が射し込んでいたりします。ちょっとSF的、異次元空間的だったりするかもしれません。

 なかなか魅力的です。
 土蔵のナマコ壁もあちこちに見られます。

 タテタカコが2005年2月にリリースしたアルバムには「裏界線」というタイトルがついています。その前年夏にリリースしたアルバム「そら」が、映画「誰も知らない」のヒットとともに音楽ファンの間に広まりつつあったこの年、飯田市内で数回に渡って行なわれたタテタカコのイベントには地元・飯田や長野県内よりもむしろ全国から人が集まり、タテタカコのホームページに掲載された飯田の街の概説を片手に裏界線を巡り歩く姿が見られるという現象が起きました。コンテンツによって街のイメージが頒布され人が集まる、という好例かもしれません。

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アルバム「裏界線」のジャケットが撮影された地点

 「裏界線」という言葉には不思議な魅力があります。「裏」「界」「線」、3つの文字はそれぞれに、日常にあるような非日常にあるような、人々の隠れた心や精神を示すような、宇宙の穴のような神秘的な魅力があるのです。
 そして、あるときふと踏み入れたその場所は、裏道、抜け道であり、表通りからはほとんど見えない空間。裏壁や土蔵が続き、家によっては勝手口もあって生活道具や鉢植えが雑然と置かれていたりする。崩れて途絶えているところもあれば、家が失くなって暴かれてしまったようなところもあれば、草ぼうぼうに埋もれた場所もあります。

 どこもみんな何の変哲もないただの路地ですが、そこには大きな災害を経て生まれ、街じゅうに共有されたアイディアのエネルギーが溜まっています。転がっている石ころひとつにも、そんなエネルギーが宿っているような気がします。人々の営みが溜まった場所。それが街の魅力を生むのだとすると、裏界線はまさにそのための装置になるのではないかと思うのです。

 飯田・りんご並木と裏界線、明日はりんご並木の様子をお伝えします。

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【Ngene掲載:2008年10月25日】【路地月間!⑤】

裏界線ホームページ

飯田・りんご並木と裏界線(その2)

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 りんご並木。
 飯田の街の象徴です。裏界線と同じく1947年の「飯田大火」が契機になってできた街路です。現在はリンゴの並木が中央分離帯にあるというだけではなく、街路全体が公園のような機能を有する歩行者優先の道路になっています。

 歩道と車道を分けるのではなく混合させて歩行者優先にしています。公園道路というかんじの珍しい性質の街路です。なかなかユニークなアイディアですね。中央にあるリンゴの並木帯を縫うように大きくS字型に蛇行する水路を通して、ところどころ水場に下りられる場所が設えてあります。ところどころに石橋が架かって、橋のたもとには行灯が4基、夕方になると明かりを灯します。辻々にいろいろな形の座る場所、足を止める装置を配置してあります。水の流れと行灯の光と眺める場所。感性に響かせる勘所を押さえた街のデザインですね。

 飯田大火が発生したのは1947年の春。桜満開の日曜日。干天続きで乾燥しきった春の風に煽られてあっというまに広がった火の手が東西南北に伸びる城下町の狭い通りを縦横無尽に暴れ回り、なすすべなく市街地の大半が焼失したのでした。焼失戸数3,577、被災者数17,800人。
 完膚なきまでに焼き尽くされた被災経験から、市街地を4分割する防火帯が設けられることになりました。万一大火災が発生しても、火元となった四分の一の街区で延焼を食い止めるためです。
 街の中央で交差する2本の防火帯のうち南北に走る緑地帯に、大火の6年後からリンゴが植樹され始めました。それは街の復興を願う中学生たちの提案によって始まったものでした。

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「りんご並木、並木通りの全景」
 中央にグリーンベルトの敷かれた片側2車線の広い通りです。前方、南方向に見えるのがりんご並木。ここから背後には、毎年春に見事な桜のトンネルになる桜並木が街の北はずれにある大宮神社まで伸びています。
 飯田大火のあった1947年はまだ敗戦直後、GHQに統治されていた時期です。大火の様子を撮影したGHQによる映像も現存しています。飯田のような山間の小都市で、敗戦直後にグリーンベルトのある広い道路が建設されたというのは、GHQによってもたらされたアイディアなのかもしれません。

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 ここから少し、りんご並木周辺の様子を眺めてみます。

「通り町」
 りんご並木に交差して東西に伸びる防火帯が通り町。そういうわけで、この通りはGHQによって設計されたという説が濃厚です。
 飯田ではこのほかに、並木通りを北へ上がって行ったところにある「ロータリー」と呼ばれている周回交差点。これもGHQによって造られたそうです。これはヨーロッパの街でよく見かける「ラウンドアバウト」と同じ構造の交差点です。

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「三連蔵」
 通り町とりんご並木の交差点にある三連蔵。大火による焼失を免れて残った3つの蔵を改築して、バー、豆屋さん、カフェ、りんご並木の資料館やギャラリーとして使われています。中庭はオープンテラスになっていて、イベントやワークショップなども行なわれる一角。
 寒い冬の天気の良い日に、このテラスで良く冷えた地酒なんか飲みながらぼぉ~っとしていたら、きっと気持ち良いですね。なかなかステキな一角なのです。

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「飯田最古の道標」
 市街地の南西の一帯、箕瀬という横町へ入る大横町と知久町の交差点にある道標。「南は三州方面へ、北は善光寺及び甲州へ、西は大平を越えて木曽に通ずる」という刻字。いわば飯田の街の起点です。

 りんご並木に戻ります。

 りんご並木の手入れを終えて帰る飯田東中学校の生徒さんたちです。毎日放課後、いくつかのグループに分かれて世話をしてから帰ります。

 大火からの復興を願って1953年に植樹が始まって以来、先輩から後輩へ受け継がれながらずっと東中の生徒がりんご並木の手入れをして来ています。
 植樹から2年後、初めて結実した49個のリンゴはそのほとんどが盗難にあい、収穫できたのは5個でした。全国から寄せられる激励の手紙に励まされ、収穫量が次第に増えて行くに連れて「りんご並木」の名前も広がって行き、幾多の困難を乗り越えながら50年あまり、今では地域ぐるみの財産になってきています。

 りんご並木にはいろいろ魅力的な装置が設置されています。水路や池で遊んだり、芝生の上で休んだり、座る場所もあちこちに、あれこれいろいろな形のものがあるし、石積みの舞台もあります。
 ここにもう少し、人々が行ってみようと思う動機になるものがセットできたら、この街路はとても魅力的なものになるに違いありません。知的な好奇心に結びつくような何かが足りないと感じます。ここにあるセンスの良い工夫や起伏に富んだ歴史を伝えるための魅力的な物語。

 りんご並木と裏界線。個性的な飯田の街路。人形劇や屋台獅子、周辺の山岳地帯に豊富に現存する伝承芸能、祭。かつて豊かに自立していた地域経済に支えられた個性的な文化が蓄積し、特筆すべき優れた現代美術作家を多く輩出し、民俗学、文学、哲学、いろいろな学問が撩乱し、多くの魅力的ないとなみを累々と重ねて来た街なのです。古来からの人の営みから生まれたエネルギーが、街のあちこちに、路地の辻々に溜まっているのを感じます。
 できれば、このエネルギーの流れを分断しないように、風景や空気や水の流れを分断しないように、新しい街のかたちができていって欲しいと思います。
 いい街です。

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【Ngene掲載:2008年9月26日】【路地月間!⑥】

りんご並木ホームページ

木曽福島・山の宿場街

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 「木曽路はすべて山の中である、あるところは岨つたいを行く崖の道であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。」

 島崎藤村の「夜明け前」冒頭の一節です。高校生の頃、大正期から昭和初期あたりの日本文学が持つ特有の仄暗いムードにかぶれていた僕は、この一節によって木曽谷に憧れ、小学生の頃に登った御岳山で感じた荘厳な大地のエネルギーの記憶も相まって、高揚した気分に駆られ、突如学校をサボって木曽谷踏破のひとり旅に出かけたことがありました。
 江戸幕府によって制定された中仙道と、江戸時代中期に始まった御岳信仰、深い山々から産出される木材由来の産業や木曽馬市場、中央本線の開通によって、昭和中期まで木曽谷はきわめて豊かに栄えていました。
 日本列島を縦断する山岳信仰の回廊。木曽谷は地球の大きなエネルギーを直に感じる魅力的なところです。

 木曽谷の中心地である木曽福島。重要な関所が置かれた中仙道の宿場町として、全国でも有数の霊場・御岳山の登山口として、古くからたくさんの人々が往来しました。その賑わいは近世まで続き、山林由来の従来の産業に加えて観光を基軸にした商業も隆盛を極めたのです。木曽福島の駅に降り立つと、まだその隆盛期の熱気が仄かに残っているようなかんじがします。

 木曽福島の街路は、元来、その特徴的な地形や歴史によってとても個性のある景観を有しています。それに加え、近年、この街は自分たちの個性を踏まえた街づくりを積極的に推進してきているのです。古くからそこにある土地の個性と、その個性をきちんと踏襲した新しい人々の工夫が重なると、街にはとても人間的で美しい風景が生まれます。

 そんな木曽福島の街の中を歩き回ってみました。

 まずは、なんといっても「崖家造り」。行人橋という、街の南のはずれにある橋から数百メートルに渡って、崖から張り出すようにして家が並んでいます。すごいですね。
 陣屋町として発展した谷底の街。幅40メートルという平地の少ない街道沿いの川端ぎりぎりまで屋敷割された結果、ここに住む人々は崖から川の上に床を張り出すように家を建てて行ったのです。狭い土地をできるだけ広々と使おうとした昔の木曽人たちの知恵です。この街特有の景観。
 いきなり路地そのものではない、その裏側の話題から始まりましたが、路地に繋がる景観ということでお許しを。

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 路地に戻ります。
 左側に並んでいる建物が表から見た崖家造りの家並です。こちら側の入口は建物の2階。崖家造りの家はここから階段で降りた、道の高さよりも下に1階部分があります。つまり地下1階のような関係ですが地下ではありません。本当に崖の断面に脹らむように建てられているのですね。

 この通りは木曽川沿いに南北へ走る旧国道19号線。本町という昭和初期の風情があちこちに残る商業地域です。もともと中仙道福島宿の中心だった街道筋ということで、かつては旅籠や本陣が建ち並んでいたはずですが、中仙道が国道19号線になり商業が発展していく途上で、昭和初期に古い建物が軒並み取り壊されて今の街並になったのだと思います。

 崖屋づくりの家並みが切れたあたりに、なんともホンワカした一角を発見。

 ここは「木曽川親水公園」というちょっとした一角。ここから河原へ降りられるようになっていて、のんびりと座る場所があって、足湯があります。こういうホッとする場所を作ってあるっていいですね。
 で、ここにある懐かしい形のポスト。昭和24年に登場した「郵便差出箱1号丸型ポスト」です。木曽福島の街にはあちこちにこの形のポストが残っていて、それぞれ愛称をつけて大切に使っています。ちなみに、このポストの名前は「巴ちゃん」。

 蛇行する木曽川に沿ってできた街道なので、街の中程で大きく右にカーブします。なんとも魅力的な裏路地が右から左から合流してきています。

 それぞれの路地には「伊勢町小路」「巾の上小路」「馬宿小路」「権現小路」など、物語を感じる名前がついています。これらの小路の多くが急な坂道に繋がり、丘の上にある街、幾筋もの小路が迷路のように入組み、江戸時代の宿場街の風景が現存している「上の段」という界隈に上がります。

 ここから木曽川上流の方が「上町」。「かんまち」と呼びます。福島関所はこの北はずれにあります。往時の姿を忠実に復元した関所資料館があります。けっこう広々とした敷地で楽しい場所です。
 関所の隣りには関所番を勤めた「高瀬家」があります。高瀬家は島崎藤村の自然主義文学の到達点ともいえる小説「家」の舞台となった旧家。この周辺は「藤村ゆかりの地」。上町交差点にある福島関所の駐車場から「初恋の小径(藤村の代表的な詩の題名が由来)」というつづら折りの坂道を上った高台にあります。木曽福島の街を見晴らす広い庭に母屋や土蔵がある大きな家。土蔵が資料館になっています。島崎藤村、高瀬家、山村家、この地の歴史や輩出した人物をきちんと敬愛する気持ちを宿した美しい場所です。

 ここですごい人物を発見。
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 世界的な昆虫学者の永井信二さん。上町の交差点にある「GOKIGENYA」というお好み焼き屋さんのご主人です。「世界のクワガタムシ大図鑑」など、甲虫類関連の図鑑の著作が何冊もあり、ツノゼミ、ビワハゴロモなど世界中で200種類以上の新種、新亜種の昆虫の記述を物している超著名人。皇室の人が昆虫周辺の生物を研究する時は永井さんに教えを請いに来る、というくらいのすごい人なのです。
 こんな人が街の交差点の近くでお好み焼き屋さんをやっているのです。店で時折催されるクワガタオフ会は、あちこちから人が集まって11時間におよぶマラソンオフ会になるようです。木曽福島、面白い街です。

 あ!忘れてはいけません。
 「七笑酒造」。
 本町の真ん中、支所前交差点のほど近くにあります。

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◆◇◆

福島宿・上の段

 坂道を上って、鉤の手に曲がった街路を抜けると、突然タイムスリップしたような街に出くわします。
 「上の段」。
 往時の福島宿の街はずれにあたる界隈で、木曽川沿いの急峻な河岸段丘の上にあります。福島宿の当時の姿が残っている唯一の街路です。普通の速さで歩いたら1、2分で抜けてしまうほんのちょっとの一区間ですが、建物の残し方、道やいろいろな街路装置の配置がうまくできていて、この街の美的センス、感性の生きた、とても印象深い街並になっています。

 あ、ここにも郵便差出箱1号丸型ポストがありますね。
 このポストの名前は「せいめいくん」です。

「松島亭」

 この通りの中心はなんといってもこの「竃炙ビストロ・松島亭」だと思います。旧家・松島家の邸宅をリノベートして3年前にオープンしたお店です。この通りには江戸時代の大きな建物を再利用した数軒のお店や民宿が並びます。この「松島亭」を真ん中に、「BAR松島」「和庵・肥田亭」「民宿・くるみ家」など、間に歴史的な街路装置を配置しながら、背後の山々を借景に、この場所にしっくりと上品に溶け込んでいます。

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 ここは、木曾義仲から数えて19代目にあたる木曾氏最後の殿様・木曾義昌の居城「上之段城」が置かれた場所でもあります。関所の宿場街であると同時に上之段城の郭内としても多くの道が整備され、とても入組んだ構造になっています。街のあちこちに水が湧いていて、辻々に井戸が設えてあります。

 この街は水の流れを大切にしています。江戸時代に木曽川から引かれた「上の段用水」。街のあちこちにいろいろな水場が設けられています。

 ビストロ・松島亭の脇の路地「寺門前小路」に流れる水路もそのひとつですが、この小路を整備する際に、それまで水路を塞いでいた蓋ををはがして街の中で水の流れが感じられるように作り替えたものです。水路の途中にわざわざ小さな水車が仕掛けてあったりします。水路が表通りにぶつかる場所には、水を汲み上げて溜まりに落とす木箱が置いてあります。滔々と豊かに流れる水の音と景観。生活に根ざした自然な風情で作られています。
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 この寺門前小路は、数ある福島宿の小路の中でもひときわ大切にされているかんじがします。
 小路の奥にある大通寺。門構えの立派な、なかなか裕福なお寺のようですが、この境内には武田信玄の娘・真理姫が供養されてるのです。

 戦国時代のことです。上之段城主・木曾義昌は武田信玄の度重なる侵攻を受けて抗しきれず降伏。木曾氏は源氏の嫡流の名族であるため信玄は和睦を計り、義昌に自分の娘の真理姫を嫁がせ、替わりに義昌の妹・岩姫や主だった家臣を人質として甲斐へ赴かせ抑止力としました。政略結婚ですね。
 木曾義昌はやがて徳川家康の関東移封の際に下総国(千葉県)へ移され、精神的にも経済的にも逼迫して彼の地で没します。木曾氏はそのまま途絶えてしまうのですが、その後、真理姫は木曽へ帰り、義昌の家臣であった村上氏を頼ってこの地で一生を終えました。
 その後、同じく義昌の家臣であり木曾氏断絶後に木曽の代官となった山村氏が、上之段城跡に大通寺を建立し、真理姫の霊を弔ったのです。
 なんか、少しかなしい話です。年表には載っていない大きな歴史の物語がこの路地にはあるのですね。

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 路傍の「100円市」です。たぶん、近所の方たちが代わるがわる持ち寄って、ここで採れた農作物を売る場所なのです。店舗や人が集まる場所だけではなく、普通の家の庭先にも行灯が置いてあって、木桶に何気なくススキが生けてあったりします。いいですね。

◆◇◆

 木曽福島には、自然な日常生活の中にきちんと機能する街ができつつあります。
 歴史、文化、様々に変化してきた社会、自然、産業、人物、出来事、そして地理的な要因を丁寧におさえたコンセプトを建て、住む人や訪れる人の感性に響く街の装置を配置し、人に対する敬愛の念を表明し、規模は小さいけれど自分たちの個性を大切にした魅力的な街づくりが進んでいるようです。

 作り方も適切です。
 経済や行政、政策との関係をきちんと認識した方法で街づくりを推進しているのです。街のあらゆる素因を冷静に解析し、愛情を持ち、街づくりの肝要なところをよく知っている人たちが街を創っているかんじがします。

 そんな人たちが創る街の路地はとても居心地の良い場所になります。変な、面白い物がごろっと置いてあったり、立札や道標や、路傍のちょっとしたところに知的な好奇心をくすぐられたり、「なるほど」と頷いてしまったりする、歩いていると自分の中でいろいろなことが起きる場所なのです。とても魅力的です。

 山岳地域の奥深く、現代の消費文明や利便性からは遠く隔てられた、人口流出や地域存続の問題と常に直面している木曽谷で、お金ではなく人間の感性が基になった魅力的な街ができあがりつつあります。
 このまま、このまま、もっと面白い街になって行って欲しいものです。

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【Ngene掲載:2008年10月7日】【路地月間!④】

和田・御射山祭・山の宿場街に夏祭のにぎわい(1)

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 信州の南端にある遠山郷のさらに南部、まっすぐ南下すると10数キロで兵越峠(ひょうごえとうげ)を越えて静岡県水窪(みさくぼ)に達する山間部に和田はあります。古くは秋葉街道の宿場町。和田宿はさしずめ信濃国の南の玄関口ということだったのでしょう。

 遠山の谷は大鹿村に繋がる日本最大の断層・中央構造線に沿って遠山川の浸食が生み出した深い深い谷間です。大鹿村から入る地蔵峠を北端に、上村、木沢、和田、3つの集落に分かれ、南端が兵越峠、青崩峠(あおくずれとうげ)。古く平安時代から同じ形で続いている湯立神楽・霜月まつりが全域で行なわれる神々の谷間でもあります。上村も木沢も、そしてこの和田でも、道ばたにある一抱えほどの石に注連縄が張られ紙四手が下げられていたり、風雨に削られた小さな道祖神の傍らに供物や花が絶えなかったり、いまだに八百万の神々を敬愛しながら生きている谷間なんだと思います。

 ただ漠然と、あるいは手当り次第に路傍の石に縄を張っているわけではありません。その石に縄を張る理由がちゃんとあるのです。その理由は、何度かその道を往来するうちになんとなく感じられるようになってきます。
 街道はもともと地脈に沿って人々が往来しているうちに自然と出来上がったものだと思います。地球には地脈があり、地脈は地形を象り、土壌や植生に影響し、生物を動かし、風景や大地の流れを作ります。人は古来、その地脈を感性によって検知することができました。その感性に従って自然に創り出したのがかつての街並だったりするのだと思います。

 「地脈」という観点で街並を眺めて行くと、それに沿って作られた街とそうでない街の違いを感じることがあります。たとえば東京はなぜ醜いのか、同じ人の手によって構築されたのにヨーロッパの街並はなぜ美しいのか。今までは「美的センス」の違いということで捉えていましたが、それ以前に感性、地球の発するものを感じ取る感性があるかないか、ということが問題なのではないかと思えて来ます。

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 たぶん、路傍の石に毎日花が手向けられるこの谷間は、人間が本来持っている感性をごく自然に備えた人々が地球を感じながら暮らしているのだと思います。

 複雑に折り重なった山襞はおいしい水を作ります。伊那山脈から伏流して遠山の谷間に湧き出して来る水は冷たくてきれいでミネラルたっぷりです。この谷間では街道筋のあちこちに水場があって豊富に水が湧いています。農業用水は遠山川から引かれ宿場街の中を豊かな水路が巡ります。この水路は今でも昔からの方法で「井水世話人」という一年毎の持回りで村人によって管理されています。

 和田宿の中ほど、東側の急斜面を登ったところに山寺があります。和田宿の裏山のような存在である盛平山の屏風みたいに競り上がった突端の高台にある寺、龍淵寺です。山門へ登る不揃いな石段はとんでもなく急です。バランスを崩さないように気をつけていないと下まで一気に転げ落ちてしまいそうです。
 このお寺、南はずれにある諏訪神社とともにたぶん和田宿の信仰の柱なのです。お寺の息子さん、副住職の盛(もり)宣隆さんがとても元気で、たぶん村の行事の中心人物。境内は古いながらもしっかり手入れされた、たぶん結構裕福なかんじのお寺なのです。檀家さんにしっかり支えられているのでしょうね。

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 この龍淵寺の境内から湧き出る水が「まつもと城下町湧水群」などとともに「平成の名水百選」に選ばれました。「観音霊水」という名前です。盛平山の地下に蓄えられた水量の豊富さを思わせる勢いで滔々と湧き出しています。

 「観音霊水」の湧出している地点、龍淵寺の境内に隣接した敷地はかつて和田城があった場所です。和田宿を一望できる見晴らしの良い高台。戦国時代にこの地を治めた豪族・遠山氏の居城があったのです。大阪冬の陣、夏の陣の頃、遠山郷のほか、大河原と鹿塩(つまり大鹿)、福与、部奈から上伊那の赤穂までを領地にするほど隆盛を誇ったという遠山氏は、戦国時代の終焉とともに離散滅亡。この地は幕府の直轄領となり和田城は廃止されました。

 お城はやがて潰れてなくなり、17世紀中頃、この高台は朱印地として幕府から龍淵寺へ下付され田圃になりました。
 「観音霊水」はもともとこの田圃に引かれた農業用水だったそうです。ミネラル分たっぷりの硬水、味のはっきりしたおいしい水です。こんなおいしい水を田圃に引いていたとは、きっとものすごく美味しいお米が採れていたに違いありません。

 十数年前、その田圃に和田城が復元されて郷土資料館になったとき、副住職の盛さんはここに水くみ場を作りました。おいしい水をみんなに飲んでもらおう、ということです。さらに数年前、水質調査によって「カルシウム、マグネシウムが豊富な日本では珍しい硬水」という分析結果が出たことで認知が深まり大人気に。今では毎日あちこちからいろいろな人が水を汲みに来ます。

 盛さんをはじめ和田の人々は、この谷間に流れてきた歴史も含めてこの水を大切にしています。遠山氏の居城として和田城がここにあった頃から永々と湧出し続けている、ずっと村人によって守られて来た水です。平成の名水百選に選ばれたことが一過性のイベントで潰えないようにこの水をこの土地の魅力として維持して行くのです。水源である盛平山の環境保全や植林も推進しています。
 「井水世話人」という独自の方法を誇りを持って続けている和田の人々です。大丈夫、たぶん。

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 8月最後の週末。和田宿がにわかに活気づきます。
 御射山祭です。

 諏訪大社に起源を持つこの祭は信州各地に散らばる諏訪神社で等しく行なわれている夏祭のひとつなのですが、祭礼そのものに「御射山祭」という名称が残っていることがなんだか面白そうなのです。
 古来、神事・御射山祭は諏訪大社上社の境外摂社である原村の御射山神社で行なわれていました。諏訪信仰を広める要素のひとつでもあって、各地に御社山、御斎山、三才山などの地名が残っています。
 原村なのです。つまり、遠山から地蔵峠を越えて大鹿へ、分杭峠を越えて高遠へ、さらに杖突峠を越えて甲州街道へ抜けたところにあるのが原村の御射山神社なのです。そのままだったら単なる諏訪神社の夏祭であるこの祭に、何か個性的な魅力を備えさせる要素のひとつがこの「御射山」という名前です。

 ここには物語がありそうです。

 ~つづく~

【Ngene掲載:2008年8月27日】

和田・御射山祭・山の宿場街に夏祭のにぎわい(2)

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 御射山祭は諏訪大社の大きなお祭りで、やはり8月の終わりのこの時期に行なわれます。中世、戦国時代は八ヶ岳山麓、霧ヶ峰から原村、富士見町一帯で毎年行なわれていた大行事らしく、このあたりにはこの祭に関係する神社や地名が多く残っています。
 平安時代の文献に最初にその記述が表れるこの夏の祭礼は、3日間、いくつかの社殿を移動しながら行なわれる大がかりな狩猟神事が起源。室町時代から鎌倉時代にかけては特に、全国から人が集まるビッグイベントで、幕府の下命によって信濃国の豪族が毎年持回りで運営していたそうです。大変でしたね。

 山の中にある神社では、巻狩、草鹿射、相撲などの狩猟や武芸を奉納し、里にある神社ではお練り行列を繰り広げます。参列者はススキの穂で葺いた仮屋・穂屋で寝食しながらすごしたようです。なんだか、夏の野外フェスみたいです。
 鎌倉時代の全盛期は将軍をはじめ幕府の要人、北条家、武将が全国から集まってその穂屋に宿を取り、民衆も大勢集まり、身分を問わず楽しんだということなのです。なにやら、信州の信仰や祭礼にはこんなタイプの、フラワー・ムーブメント的なレイヴ・パーティーのような風習が多いですね。
 霧ヶ峰にある旧御射山神社脇の斜面には、この穂屋を設営した土壇が残っています。きれいに造成された土壇がいくつも、おそらく20区画近い土壇が今でも斜面に確認できます。

 この界隈からまっすぐ南下して伊那山脈を分け入り、中央構造線に沿っていくつかの峠を越えて来ると、その南端がここ、遠山郷、和田になるのです。「御射山祭」の名前がこの南端の宿場街に残っているのも、この伊那山脈を巡る神聖な物語の痕跡かもしれません。

 前日から祭の準備に取りかかった和田の人たちは、遅い午後、ひととおりの準備を終えてそれぞれの会所で酒食します。楽しそうです。街道に三々五々、人々が顔を出し、集まり、和田宿はだんだん賑やかになって行きます。
 どの家にも軒先には古風な提灯が下がります。これがまた良いのです。なんでしょう、デザインがちゃんと風土や文化を踏襲しているから、この風景の中で自然に映えるのかもしれません。

 ◆◇◆

 遅い午後、どこかで神輿の動き始めた気配がします。遠くでわずかに声が聞こえたり、会所にいた人たちがいつのまにか姿を消していたり、ほっこりと谷間の街道筋に流れている空気の中にじんわりと始まった気配が伝わってくるのです。
 浴衣や甚平を着た子供たち、縁台の老人、久しぶりに帰省した家族、若者たち、おじいちゃんもおばあちゃんもみんな街道に出始めます。とある軒先で、おそらく数十年ぶりに再会したおじいちゃんたちが自分の卒業した年を伝えて同窓生であることを確かめ合っています。

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 和田宿のまんなか、何軒かのテキ屋の屋台が並んだ路上で南を向くと、万国旗の巡らされた街道の先に迫るような稜線が見えます。この稜線の落ちたあたり、和田の集落を南に出はずれたところに諏訪神社の森があります。どうやら御射山祭のお練り行列はこの諏訪神社から始まるようです。

 酒食を終えて会所を出た各町内会の神輿も、保育園や小学校の子供神輿も、商工会や企業、青年会も、すべての神輿やお練り行列が夕刻までに諏訪神社に集まりました。これは祭の作法としてとても楽しいやり方だと思うのですが、意外なことに、800年におよぶ長い歴史の中で今年が初めてのことらしいです。

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 この諏訪神社はもちろん、12月には霜月まつりが行なわれる神社です。社殿の土間のまんなかには湯立てのための竃が掘られています。立派な社殿です。和田の建築物は北隣りの木沢と比べて大きく立派なものが多いように思います。

 提灯や行灯に火が灯り始めた夕方6時すぎ、神社の裏手で合図の花火が威勢よく打上げられました。子供神輿から順番に諏訪神社を出発します。およそ20基の神輿が秋葉街道を北上して和田宿に入り、賑やかに人を集めながら、辻々で休憩してもてなしを受けながら、宿場街の中を練り歩いて行きます。

 しんがりを「観音霊水」の大きな行灯が務めます。軽トラックになかなか風情のある色合いの歌舞伎絵行灯を乗せて、接触不良でときおり音の途切れるラジカセから祭り囃子を流しながらお練り行列の後を追います。昔はちゃんと笛や太鼓の人が随行したのでしょうか。

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 今年の御射山祭はお練りの行列が宿場街に到着した頃から雨が降り始めてしまいました。
 行列は雨のぱらつく街道筋を練り歩きます。あちこちで元気よくきおいを練りながら、宵闇の深まる和田宿を北へ向かいます。

 終着点は和田の北のはずれにある遠山中学校。街道を練り歩いて抜けて来た行列も、行列と一緒に少しずつ歩いて来た観衆も、だんだん校庭に集まって来ます。遠山の谷はすっかり暗くなって雨足が強まっています。全部の行列が校庭に到着した午後7時すぎ、雨を衝いて3基の大三国が火を噴きます。おそらくこの夜いちばん雨足の強まった時間帯でした。お練りの終わりと大花火大会の始まりを告げる仕掛花火が天に向かって噴き上げます。

 7時半、花火が谷間に轟き始めました。お練り行列を終えた人々が遠山中学校を出て和田宿の中心へと街道を戻ります。みんなずぶぬれです。

 花火は遠山川の河原、和田地区のまんなかあたりの河原で打ち上げられています。
 複雑な山襞から跳ね返ってくる音は低音から高音までまんべんなく、腹にドスンと来る太い残響が谷間の空気をうねらせます。
 雨は少し弱まっています。次から次へ尺玉があがり、スターマインが轟音を轟かせ、そのたびに谷間を駆け巡る野太い残響が体を振るわせるのです。この感覚、なかなかたまりません。

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 夜はさんざん花火を打ち上げて、翌日2日目の昼、宿場街の中央にある広場の新しい舞台でいろいろなアトラクションを披露して御射山祭は終わります。

 ふだんは静かな、山から降りて来る空気の音に耳を澄ます和田の集落。にわかに人のエネルギーが集まって高まって弾ける夏祭りは、一年の暮らしの中にちょっとした脹らみを拵えて、この山村の人々の営みに個性と表情を与えているように思います。

 同じ遠山郷でもこの和田地区の雰囲気は陽性を感じます。祭の在り方や、観音霊水や復元和田城の作り方や使い方、地域のいろいろな資源に対する取組み方が、少しずつ元気で明朗なのです。これは、かつて遠山郷の中心地となる宿場町だったことから生まれた気質なのでしょうか。
 たとえば、お隣の木沢地区はもっと控え目で、いろいろな出来事にストイックに取組みます。旧木沢小学校の残し方や、村の魅力として取り上げるものの種類や、霜月まつりの処し方、ひとつひとつがそれぞれの本質に近づくことを目指していて、地味だろうがわかりにくかろうがそのやり方の中で現代の新しい方法を探っています。

 同じ霜月まつりを守り続けているふたつの地区で、距離にしておそらく2kmと離れていないこのふたつの地区ではっきりと気質が違うのです。さらに上村に行ったらまた違う気質があるに違いありません。
 それぞればらばらな個性を持った地区が、神の宿る大自然を由来とするひとつの文化をそれぞれの方法で育てて行く。それぞれの方法を否定し合うことなく自分たちの方法を誇りながら、重層的な価値観や判断基準を持ってそれぞれの方法で高めて行く。そこに通底している理念は一緒。

 そんな高い次元での交流やアイディアの環流が日常的に起きて行ったら個性的で豊かな地域が実現することは間違いありません。古来から他所の文化の往来を歓迎し、外の文化を融合させながら誇りを持って自分たちの流儀を続けて来たこの遠山郷の高い寛容性は、今までの枠組みを破棄して豊かな社会を作ろうとするときに必ず役に立つのです。

 遠山郷の夏祭りをぶらぶらしながら、そんな精神的、文化的な豊かさが、ゆくゆくは現代社会を支配している消費経済的、物質的な豊かさに取って代わるといいな、と思ったりもしたのでした。

【Ngene掲載:2008年8月29日】
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宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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