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「事の神送り」を追いかける(その2)

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 ◆◇◆

 越久保の落着いた静かな夜が明けました。
 今日も快晴。
 上久堅は標高750メートル。本来は極寒の2月8日のはずですが、夜の空気は冷え冷えとしていたものの、雪もなく朝から暖かな日曜日です。昼の間に暖まった越久保センターの木造家屋は、朝までまったくストーブもコタツも使わずにぐっすり寝心地満点でした。

 早朝6時。
 前夜事念仏をした子供たちが集まって来ます。紙でできた大旗と小旗、2本の旗が出発を待っています。この旗は10日ほど前からみんなで越久保センターに集まって作ったもの。新聞紙を芯に白い紙を貼り付けてあるので、紙製といえども随分厚みがあってしっかり丈夫そうです。竹の支柱を通す部分は太い糸で縫い付けてあります。「南無阿弥陀仏」の六文字を書く部分に貼ってある4色の色紙がなんともいえない原初的な魅力を感じます。

 越久保の8日の行事は「風の神送り」といいます。ここの神送りは他の地区と連携せずに単独で行なわれるタイプのもので、祭列の様相もだいぶ違っています。地理的な要因でしょうか。他の地区が概ね南北に並んで上久堅を縦断する道に貫かれているのに対して、越久保だけが風張から分岐して小川路峠に向かう秋葉路の途上、越久保より先は山中に入るため地理的には独立しています。秋葉路から派生した経済的な事情も他の地区とは少し違っていたと思います。いろいろな時代の社会の趨勢とそれぞれの地域が抱える事情、人々の創意によって祭りの流儀はいろいろに変化するものです。

 午前7時、太鼓と鉦が打ち鳴らされ、子供たちの元気な声が聞こえ始めました。「風の神送り」出発です。

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 越久保センターを出た祭列は「神送りの歌」を詠いながら秋葉路を登って行きます。相変わらず早足です。

 「送り神を送れよ、何神(なにがみ)送れよ、かぜの神を送れよ、どこまで送れよ、法現坂(ほうげんざか)まで送れよ」

 東の山々からまだ太陽は上がって来ていません。天竜川東岸、竜東はどこも朝陽の光が射し始めるのが遅い。伊那山脈の西側の斜面、背後に高い山を背負っているので、特に冬は陽射しを感じるようになるのがとても遅いのです。

 集落を登りきったはずれにある橋の上で、子供たちは2本の旗を倒して道路を区切ります。二手に分かれた子供たちが相手の頭を叩いて勝敗を競う「頭たたき」という遊びをするのです。これも越久保だけの独特な風習。法現坂に到着するまで、ここ、集落の一番上にある橋と、真ん中にある大西屋商店の前と、一番下にある法現坂(最後に送り神を捨てる場所)と、3カ所で「頭たたき」をします。

 頭を抑えることで勝敗を決めるのです。当然、体の大きな上級生の方が有利です。相当すばしっこくても、体の大きな上級生にはなかなか勝てません。それでも、小さな子は必死になって飛び上がったり、後ろへ回り込もうとしたり、一生懸命戦います。女の子も負けん気強そうです。
 特に厳密な、あるいは判りやすい共通ルールがあるわけではなさそうです。両軍の大将が指名した1対1で戦うこともあれば、微妙に1対2のこともあれば、最後には残っている何人かが入り交じって戦っています。
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 果敢に上級生に挑戦するちびっこい下級生。その挑戦をニコニコあしらいながら、最後にはおもむろに頭を抑える上級生。橋の欄干に上がって戦おうとしている下級生が危なっかしいところに立つと「そこ危ないから下りろ」と注意します。女の子も対等に上級生に挑みかかります。勢い余ってひどく転んだ女の子に上級生が駆け寄って様子を見たりします。
 ものすごくシンプルな遊びの中から、子供たちは集団でものごとを進めて行くときの大きな理を感じ取っているように思えます。

 ひとしきり「頭たたき」で遊んで、「風の神送り」は秋葉路を引き返し下り始めました。太鼓と鉦と歌声が元気良く足早に谷間を移動して行きます。

 秋葉路を少し下ったところで、街道沿いに流れる川を対岸の集落へ渡ります。前夜の「事念仏」と同じ順路。「事念仏」のように枝路の末端まで入って行くことはありませんが、ほぼ越久保全体を一周する周回コースです。

 対岸の山々に朝陽があたって明るく輝いています。自分たちのいる場所はまだ陽射しがなく寒々としています。太陽が高度を上げるにつれて朝陽の線が徐々に近寄って来る。これが伊那山脈を背にした伊那谷竜東地区の朝の特徴です。

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 越久保の集落を歩いていると立派な門構えや大きな蔵のある家が随分多いことに気付きます。大がかりな築山や池を設えた広い庭も多く、集落に空き家が目立つ一方で、この地域がかつて経済的に豊かだったことを窺わせます。どの家も古びて行く建物を丁寧に手入れしながら長い年月を暮らして来ている様子です。

 急峻な地形と痩せた土壌のために農耕が困難だったこの地域は、秋葉路を往来する人や物、流通によって潤っていたのです。「馬宿」と「仲買」。越久保の集落には随所に「馬宿」の跡や「仲買」に由来する屋号などが見られます。

 江戸時代前期、農家の人々が副業で馬を使った運送業を始めました。古来有数の馬の産地だった信州は、荷主から送り先まで直接農家の人々が馬に乗せて運ぶ仕事が盛んになり、「仲馬(中馬:ちゅうま)」とか「馬稼ぎ」という呼び名で専業化が進んで行ったのです。

 この馬による輸送を支えていたのが「馬宿」。越久保の秋葉路は、遠山郷・上村の秋葉街道本線と飯田城下・八幡神社門前までを繋ぐ道です。秋葉講、善光寺詣でや物資輸送の往来で賑わう街道の、ちょうど中間地点にある越久保に「馬宿」が集まり、生活物資の中継点として「仲買」が隆盛したのはとても自然なことだったわけです。

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庭とおばあちゃん

 この庭は越久保の中ほど、秋葉路沿いにある「油屋」という屋号のお宅です。背後の山々を借景にしたなかなか見事な庭です。もともとコウゾを栽培して紙を作っていた家なのですが、油の仲買に転じて油屋という屋号になったそうです。この地域の産業の変遷が窺えます。
 今はこの大きなお屋敷におばあちゃんが独りで住んでいます。深く腰の曲がった高齢のおばあちゃん、この起伏に富んだ庭を元気にぴょんぴょん飛び回ります。丁寧に庭や家屋を手入れしていますが、おばあちゃん独りではやはり限界もあって、あちこちに手の届かない部分が出ているようです。

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 「風の神送り」はどんどん進みます。早足です。
 この先のカーブにも随分大きな家が見えます。薪ストーブの煙が上がっています。薪の燃えるいい匂いがします。もともと住んでいた人が随分前に転出して長らく空き家だったのですが、去年、京都から若い方が移り住んだそうです。祭列の音を聞きつけて飼い犬と一緒に道まで出て来られた、なかなかセンスの良さそうな方ですが、近所の方々とももう顔馴染みのようです。

 山の方から下りて来た周回路が秋葉路に再び合流する越久保地区の中央部。「大西屋商店」というお店の前の交差点で「頭たたき」の第2ラウンドです。
 最初のときよりも更にエキサイトした戦いが繰り広げられます。つんのめって勢い良く転んで半回転した女の子が、しばらく痛そうにうずくまります。大丈夫かな。
 見物する大人たちの数もだいぶ増えています。そういえば、頭取の背負う太鼓に挿された「お宝」五色の幣束の本数も、よく見ると、随分増えて賑やかです。

 残念なのは、車が来たら遊びを中断して旗をどかさなければならないこと。道路の占有届けを出していないから当り前のことなのかもしれませんが、単なる子供の遊びだとしたらこのくらいで良いのかもしれませんが、けど、できれば、年に一度のこんな祭りのときには、たまたま車で通りかかったらそこに停めて「頭たたき」が終わるまで見物するような、そんなのんびりした社会になったら幸せな世の中かもしれません。

 ◆◇◆

 そして、祭列はさらに街道の坂道を下り法現坂に差し掛かります。ここが越久保の下はずれ、風張(かざはり)との境です。「風の神送り」の終着点がここ。最後の「頭たたき」をして、送り神を捨てます。

 送り神を捨てるのは法現坂の脇の坂道を上がって行った土手の奥、畑や竹薮の奥に伸びる尾根の突端。
 「頭たたき」を終え、整列して「送り神の歌」を詠ってから、一列になってS字カーブの坂道を上がって行きます。太鼓に挿された五色の幣束が快晴の真っ青な空に映えて、祭列の後ろ姿がなんともいえず美しい。

 送り神を捨てる最後の経路、絶対に後ろを振り向いてはいけません。
 ところが、土手の坂道を登りきった墓地の前で祭列が止まってしまいました。誰かが後ろを振り向いたということです。一列に止まったまま、「うら向いたのは誰だ?」頭取が後ろから詰問しています。「正直に言え!」。
 重い旗を担いで詠いながら歩き続けたゴール直前です。もうへとへとになってしまった下級生は白状する元気がありません。道の奥を向いたまま、みんな困った顔で立っています。
 頭取も容赦しません。暫く待って誰も手を挙げないので、「もういい!やり直すぞ!」と、さっさと坂を戻ってしまいます。ここも振り向いてはいけません。足下の悪い道で旗を担いで、後ずさりを始めた下級生たちはたちまち立ち往生してしまいます。

 膠着状態。
 頭取たちは坂の下へ戻ったまま黙っています。下級生たちはひとことも発しないまま立ち尽くしています。厳しいです。

 暫くたって、「ここだけはうら向いて下りて来い」という伝令が伝わりました。ほっとした2本の旗がようやく動き始めます。法現坂に逆戻りです。

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 法現坂の広々とした草地の土手。
 ここがまた、なんとも見晴らしの良い陽当たり良好な別天地。
 大向こうに木曽の連山、木曽駒ヶ岳の白い切先、伊那谷の北のはずれから蛇行する天竜川が天竜峡の渓谷に流れ込む南の端まで、阿智、清内路、阿南、新野、神の宿る山々が折り重なって、その向こうに恵那山がでんっと鎮座しているのが一望できます。土手の頂上には「お辞儀松」と枝垂桜の古木がこの壮大な光景を愛でるように風雅に枝を振っています。
 きっと、越久保一の名所。自然の景観の力は偉大です。この土手にすわって遠くまで広がる伊那谷を、戦国の歴史を潜ませた「神の峯」を、手元に囲まれた天空の里・上久堅の風景を眺めていると、なんだか愛着が湧いて、ここのことをもっと知りたくなるのです。けして安穏とした歴史風土ではないここのことを。

 「風の神送り」終了予定時間を一時間近く越えていました。見守っていた大人たちも用事の入る時間で、三々五々祭列から離れて行きます。

 法現坂に戻ってまたひとしきり頭取の説教を受けた子供たちの祭列が、再び土手を上って来ました。最後の力を振り絞って、元気よく詠いながら、真剣な表情で後ろを振り向かないように、足早に墓地の前を通り過ぎます。
 墓地の前を、土手のさらに奥へ、北のはずれの雑木林の中へ分け入って行きます。送り神を捨てる場所です。
 乱雑に雑木が茂った林の中で祭列が2列に並びます。尾根の先端の狭い荒れ地。その先は竹や倒木で更に雑然とした急斜面の谷です。

 ここで念仏を7回繰り返します。
 「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨、南無阿弥陀仏(ナンマイダー)、ナンマイダー」

 集めて来た幣束や、一生懸命担いで運んだ2本の旗を谷間に捨てます。

 そして最後に、頭取が1本選り分けておいた幣束で大旗の一番下の文字を突き刺して、神送りの行事の一部始終が終わりました。
 子供たちは送り神を捨てた谷間に背を向けて一目散に駆け出します。

 絶対に後ろを振り向かないように。

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 「今年はやばかったですよ」
 帰り途、厳しかった今年の頭取が安堵の表情でつぶやきました。
 「何が?」と訊くと、「後ろ見るやつがこんなにいる年はない」とのこと。そう考えることが当たり前、みたいな様子でさらりとそう答えるのです。
 務めが終わった開放感と全員でひとつのことを成し遂げた達成感をみんなで共有しながらの楽しい帰り途。楽しさの中にもそんな精神の高揚があるのですね。

 この行事でなされることは、単に「行事が終わればそれでOK」という段取りではないのです。この越久保という地区の、ここで暮らす子供たち、ここで暮らす人々の、毎日の暮らしの土台を創造するための鍛錬みたいなもの。ここの暮らしにしっかり根づいた誇り高い仕来りなのです。

 タガのはずれた利己経済のために不幸な過ちを繰返す現代社会。勝ち負けばかりを云々して、自分が良ければあとはどうなっても良い、誇りを失なってしまった日本の社会の劣化を止めるために、こういった古来の文化から得られるヒントはたくさんあるような気がします。

 予定を1時間半超過してようやく終わった「風の神送り」。
 すごい祭りでした。

 そしてすぐに、千代(ちよ)の芋平(いもだいら)から出発して半日かけて上久堅を縦断する「事の神送り」が始まります。これまたすごく楽しい祭りです。

 続きは(その3)で。

 ~つづく~
【Ngene掲載:2009年2月13日】

「事の神送り」を追いかける(その1)は、こちら

「事の神送り」を追いかける(その3)

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 飯田市千代。
 伊那山脈の懐深く、伊那谷、竜東地域の最深部に位置する山里です。伊那谷の南端、天竜川の河岸段丘が狭窄した地点、時又や天竜峡あたりから西の山へ分け入った一番奥にある地域です。

 2月8日、「事の神送り」が千代の北部、芋平(いもだいら)と野池(のいけ)というふたつの集落から始まります。各地で行なわれるコトヨウカ行事の中でも珍しい、複数の集落を繋いで行なわれる神送りです。
 芋平から東廻り、そして野池から西廻り、神送りはそれぞれ別のコースを辿って北上し、戦国時代、武田軍と渡り合ったこの地の領主・知久頼元(ちくよりもと)の居城があった神之峰(かんのみね)の北麓で合流します。

 芋平、野池、この隣り合ったふたつの集落は、ともに諏訪神社二の宮として中世以来の歴史を持つ野池神社の氏子集落。古くは南山郷と呼ばれた地域で、中世の農山村の社会構造を探るいろいろな手掛り、山間地の習俗、古い文化財や豊富な民俗行事を今でも濃密に伝承している地区です。

 そんな独特な地区から始まる「事の神送り」。いろいろな観点で興味が尽きません。
 特に芋平からは強烈な愛嬌のあるワラ細工のご神体と特徴的な造作のドーム状のミコシが送り出され、それを上久堅の各集落の人々が受け継いで送って行くのです。とても楽しそう!ということで今回は「芋平発東廻り」の「事の神送り」を追いかけるのです。
 フォーラム南信州(※前述)のチームは、早朝から追いかけていた越久保の「風の神送り」(※参照)が長引いたため、予定の時間より少し遅れ気味で集合場所の芋平集会所に到着。

 芋平集会所は、地形に沿って複雑に曲がりくねった山道の奥にありました。広い庭があって、庭の外縁にはずらりと神様が並んでいます。ここは神様の多い土地です。山の神、屋敷神、馬頭観音、お不動様、蚕玉神、風の神、いろいろな石碑や石像が里のあちこちに祀ってあります。
 庭の土は黄白色の粗い砂礫状、竜東山間地特有の柔らかい土です。周囲は森。すぐ隣りに大きな池があります。このあたりは意外と水が豊富らしく、芋平と野池の間にある「野池神社」を中心に、大きな池がそこかしこに見られます。野池神社の境内にも大きな池があって、そこは昔から旱魃があっても涸れたことがないそうです。

 そういうわけで、2月8日、朝10時。本日も快晴。芋平の集会所で「事の神送り」の準備が始まりました。

 集会所には芋平の人々が大勢集まっています。おじいちゃんもおばあちゃんも、若い世代も子供たちも集まっています。芋平の集落は現在23世帯。小さな集落なのですが、そのわりに随分賑やかです。ここの人々はみんな総出で祭りをするのですね。とても結束の強い集落なのです。
 山村地域というのは若年層の流出が必ず問題になります。こういう行事を見ても高齢者が目立つことが多いと思いますが、ここはそうではありません。実際、芋平は地元に定着する若い人たちの人数が多いそうです。
 なぜなのでしょうか。
 もちろん、たった一日の行事を一緒にしただけでは何もわかりませんが、数時間一緒にいただけでも明らかに感じたのは、芋平の人々は自分のところの生活文化に高い誇りを持っているということです。そして、どの世代もアツい。どうやら芋平はとても個性の強い独自の流儀をいっぱい持っているようです。

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 藁細工のご神体作りが進みます。
 オトコガミサマとオンナガミサマ。藁を縛ったり折返したりしながら、だんだん体ができて行きます。写真手前にあるのは女性器と男性器、……随分立派です。
 別の部屋では大旗を作っています。
 旗は2流。赤い紙を中に挟んで白い紙を貼り継いだ地に「千早振る二月八日は吉日ぞ、事の神を送りこそする」と墨で書きます。赤い紙には魔除けの意味があるそうです。

 庭ではミコシ。
 太い藁束を繋いで直径50センチくらいの輪を作ります。割竹をアーチ状にしならせて骨組みを作り、檜の枝をかぶせていきます。緑色のドーム状のミコシができます。そのドームの頭頂部に幣束を立てたり赤と白の紙飾りを垂らしたりします。
 庭の端には、芋平の家々から持寄られた笹竹(送り竹)が集まっています。家の厄神をつけて送り出すための送り竹です。この送り竹で家中すべての部屋を祓ってから、各自ここに持寄るのだそうです。「馬」という文字を書いた短冊がたくさん付いてます。短冊に書く文字や絵柄は各地区さまざま。芋平では「馬」や「申午」「風の神」と墨書きしたり、猿と午の木版図を刷った短冊が多いようです。白い紙包みは「おひねり」。家の人の盆の窪の毛を抜き、爪を切り、洗米と一緒に入れてあります。不思議な取り合わせですね。

 ◆◇◆

 完成したご神体とミコシがこれ。なかなかすてきな出来上がりです。

 オトコガミサマとオンナガミサマは、完成後少しの間こうやってミコシの前に飾られていますが、ほどなくミコシの中に納められます。
 昔はカミサマをこんなふうに公開することはなかったそうです。人のいないところで極秘に作られ、ミコシができあがると人目を避けてすかさず中に入れられたそうです。作り方も秘伝で、ミコシの中を覗くことも禁止されていたということ。
 こんな愛嬌のある形をしていますが、そんなふうに秘匿されて畏怖の念が加わると、このふたり、ミコシの下から見上げたときにブルルッと怖さを感じるかもしれません。

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 すべての準備が整いました。
 ミコシの前に集まって太鼓と鉦に合わせて念仏が繰返されます。
 集会所の脇にある池の方で、ぱあん!という空鉄砲の乾いた音が響きました。
 「事の神送り」の出発です。

 芋平集会所から北へ、上久堅・蛇沼との境を目指して祭列は緩やかな山道を下って行きます。太鼓と鉦、幣束、旗、ミコシの順番に並んで進みます。その後ろに思い思いに送り竹を持った人々が続き、最後にもう1対の旗と幣束を持った人がいます。
 太鼓と鉦に合わせて祭列はゆっくりと進みます。

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 ◆◇◆

 芋平には「よこね田んぼ」という棚田群があります。芋平集会所の北向きの坂道を下ったあたりの窪地にあります。「日本の棚田百選」に選ばれているなかなか見事な棚田群。
 田んぼの数は110枚。南北に細長い窪地の南西向きの斜面に営々と築き上げられてきた叡智と努力の結晶。美しいです。
 田植えの時期、あるいは黄金色の収穫の時期に眺めてみたい風景です。夏の蛙の声もすてきかもしれません。
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 「よこね田んぼ」がある場所は芋平なのですが、田んぼの持ち主は芋平の人々だけではないそうです。野池の人の持っている田んぼも多く、隣りの谷筋の荻坪(おぎつぼ)や北隣の上久堅にも持ち主がいるようです。
 山間地にはよくある形だと思いますが、耕作に適した土地をみんなで分け合って利用する方法です。いわば水田団地、農業団地でしょうか。山林も「共有林」という考え方があって、村の人が総出で手入れしながら林業を営みます。かつては春の植林、夏の下草刈りなど、総出で行なう年中行事としての山仕事がありました。
 現在のような産業経済の構造の中で、農業や林業に携わる人が不足しているといわれる現在の社会でこの方法は今どうなっているのか、あらためて取材をしてみたいと思います。こういった古来の人々の営みは、残すべき過去の遺産ではなく21世紀に利用可能なアイディアの源泉である可能性が高いかもしれません。

 「よこね田んぼ」の傍らを通り過ぎて曲がりくねった道を下り、祭列は上久堅蛇沼との境までやって来ました。大旗、幣束、ミコシ、送り竹、路肩の土手にすべてを置いて念仏を唱えます。
 ばあん!という空鉄砲の音がふたたび芋平の尾根の向こうで鳴り響くと、それを合図に芋平の人々はみんな一斉に来た途を戻ります。
 絶対に後ろを振り返らないように戻ります。
 路傍に置かれた祭列の道具は、次に蛇沼の人々が運びに来るまで放置されます。

 ◆◇◆

 行事が終わると、芋平の集会所では慰労会が始まります。

 おとなも子供も、芋平の人々がみんな集まって、にぎにぎしく楽しい慰労会。フォーラム南信州の参加者も一緒に混ぜていただいています。芋平の長老や区長さん、地域の行事を牽引している方々が代わる代わるやって来て、芋平のいろいろな楽しい祭りについて、魅力的な民族文化について、誇り高い精神風土について語ってくれます。楽しい人たちです。
 たぶん、この宴は夕方までのんびり続くのですね。終わるまで、陽当たりの良い集会所で、芋平の人々とゆったりいろいろな話がしたいと思いました。

 ◆◇◆

 けれど、今日のテーマは「事の神送り」を追いかける。
 追いかけなければなりません。
 芋平集会所で小一時間ご馳走になって大急ぎで蛇沼へ、さっき「事の神」を置いて来た村境へ向かいます。

 午後1時。芋平境には蛇沼の人々が集結していました。

 区長さんが挨拶をして、みなさん銘々に祭列の道具を取り上げます。
 この日は蛇沼の人たちだけではなく、東京からバスでやって来た数十名の方々が蛇沼の行列に参加しました。上久堅の地域づくりに取組んでいる「愉快な仲間たち」が企画した「南信州ふんどしの旅」という旅に「事の神送り」参加が組み込まれたものです。
 そこにフォーラム南信州の一行も加わって、なかなか賑やかに、祭列は平栗境を目指して北上します。大人たちに交じって小さな子供たちも送り竹を運びます。
 2月8日という日が決まっている行事なので休日ばかりとは限りません。平日になった場合は学校があるので子供たちは参加しないことになります。時間勤務の会社員なども参加はできません。今年はちょうど日曜日に当たったのと、「愉快な仲間たち」「フォーラム南信州」の企画が重なって10年ぶりくらいの賑やかさらしいです。
 とても大切な祭りです。「今日は祭りだからお前ら学校休んでもいい!」と、学校も親も平気で言えるような世の中になったらいいですね。
 たぶん、この社会にちょっとした価値観の変換が起きれば可能なことです。

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 大旗を持って先頭を切るのは区長さん。その後ろに太鼓と鉦、幣束、そしてミコシ、その後ろに送り竹の列。並び順はいろいろです。

 蛇沼は、もともと蛇沢、沼塩というふたつの地区が合併してできた地区です。そのためか、出発点の芋平境から終着点の平栗境、細久屋峠までとても距離が長いのです。祭列はいくつかの集落を越えて行きます。
 路傍のお地蔵様も見物しています。ほんとにこの地域はあちこちに石像や石碑があります。

 最後の集落を抜けて長い急坂を登り、平栗境の細久屋峠に到着。大きくカーブした峠道の端にすべての道具を置いて、蛇沼の「事の神送り」は終了です。
 終着地点で希望者はミコシの下をくぐります。大勢の、しかも東京からわざわざ訪れた参加者がいるのでなかなか終わりません。思い思いにくぐります。時折、オトコガミサマとオンナガミサマを見上げて笑顔がこぼれます。小さなコップでお神酒が振る舞われたりしています。

 ひとしきり賑やかに集った後、「南信州ふんどしの旅」の面々はバスに乗って帰途に着き、蛇沼の人々も坂を下りて帰って行きます。
 絶対に後ろを振り向かないように。

 「事の神送り」は、このあと順次、平栗、落倉(おとしぐら)、小野子(おのこ)、3つの地区をリレーして行って、夕方には堂平との境に到着。そこの道端で一晩寝かされます。

 長い歴史の間に、それぞれの地区にいろいろな状況の変遷があったと思います。社会構造、産業や経済の変化、行政の事情、今もさらに激しい変化に晒されているはずです。消費経済が極度に浸食した社会では、市場原理はこういった末梢にある山間地ほどきつく作用します。いろいろな状況の中で、複数の地区が別々に、けれど連携して営々と続けられて来た珍しい行事「事の神送り」。

 それぞれの事情を伺わせながら北のはずれまで続く祭列の様子は(その4)に続きます。

 ~つづく~
【Ngene掲載:2009年2月16日】

「事の神送り」を追いかける(その2)はこちら

「事の神送り」を追いかける(その4)

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 千代北部の小さな集落・芋平から北上、上久堅の各集落を駅伝のように繋いで行く「事の神送り」。
 2月8日を中心とする3日間に複数の集落が連携して開催する行事なのですが、けして行事全体がまとまりを持って行なわれているわけではありません。基本的に、それぞれの集落ごとにばらばらに営まれる行事なのです。
 たとえば、芋平で行なわれる祭りの準備を他の集落の人々が観に行くことはありません。芋平の人々が、自分たちの作ったカミサマやミコシの顛末を追って上久堅の野辺を歩くこともありません。どの集落も、南隣りの集落が置いて行ったカミサマたちを拾って北隣りの集落まで送る。集落境にカミサマたちを置いたら、けして後ろを振り向かないで家に帰る。そんなふうにてんでばらばらに行なわれる行事なのです。けれどそれは、自分たちのことだけ考えていたのでは絶対に成り立たない行事でもあるのです。

 2月8日、朝11時に芋平を出発した「事の神送り」、午後2時前に蛇沼と平栗の境・細久屋峠に到着(※参照)

 午後2時、峠道の端で小休止していたカミサマたちを平栗の人々が拾いに来ました。
 峠から長い坂道を平栗の里へ向かって下りて行きます。

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 平栗は郵便局もあったり、比較的多くの家が集まった集落。里へ下りると、待ち構えていた近所の人々が次々とミコシをくぐりに来ます。くぐっておくと病気をしない、という縁起ものなのです。

 平栗でも、戦前は子供たちが主体になってこの行事を行なっていたようです。男女、年齢も関係なく、みんなが集まる祭りだったようです。やがて子供たちが学校のために参加できなくなり、大人たちだけで行なわれる行事になってしまったとのこと。この日は日曜日でしたが、あまり子供の姿はありません。
 平栗が神送りをするのがおよそ午後2時から。ひとつ前の蛇沼もそうでしたが、学校に行く時間帯に差し掛かる集落では、子供がこの行事に参加する習慣自体が減衰して行ってしまったのかもしれません。

 上久堅、天空の里です。
 峠を越えるたびに木曽山脈の壮大な光景が飛び込んで来ます。気持ちのよい風景です。春先、鶯が鳴き始める頃にこのコースを歩いてみたら、かなり気持ち良さそうです。

 平栗の北隣りは落倉(おとしぐら)。集落境ではもう落倉の人たちが待ち構えていました。なので、ここでは道端に置いて去るのではなく、落倉の人々に渡します。
 和気あいあい、平栗の人々と挨拶しながらカミサマたちを受取った落倉の人々、既にみなさん揃っていたらしく、そのまま出発です。予定よりだいぶ早い出発ですが。

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 落倉でもかつては子供たちの行事で、学校からみんなが帰って来るのを待って出発したそうです。「カゼガミオクリ」と呼ばれ、一番風邪が流行る時期なので風邪除けの行事と言われていたらしい。
 今日も大勢の人が参加していますが、子供たちの姿はちらほら。あ、ワンちゃんを連れて参加している方もいます。こういうの、いいですね。ワンちゃんも、振り向いてはいけません。

 祭列が進むうちに送り竹はどんどん増えて行きます。途中の各集落で祭列の参加者が持寄るのはもちろん、途上の道端に出されている送り竹は漏れなく拾って行かなければなりません。

 落倉も平栗と同じく沿線に住宅の多い地区。地形は比較的平坦だったりします。地図を見ると、芋平から富田境までのちょうど途半ばくらい。祭列は淡々と進みます。

 「事の神送り」のコースは、南の端から北の端まで全線くねくねと曲がりくねっています。もともと丘陵や沢、尾根や等高線に沿って、起伏の多い地形の中に自然にできた道なのではないかと思います。ロング・アンド・ワインディングロードです。
 集落を抜けると畑や野原が続き、峠道は突き抜けるような見晴らしの良さ。爽快です。途方に暮れるような難所もなく、適度な斜度のアップ・アンド・ダウン。てくてく一歩一歩あるいて行くのが気持ちのよい道程です。

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 上久堅の風景には特徴があります。土の色は明るく、複雑な起伏に美しい曲線を描く土手、畑や田んぼが畝を重ね、ひとかたまりずつ群生する林、斜面のリンゴ畑、路傍や丘の上には間近にお墓やお地蔵様、石碑や石像の一群、遠景に青い山脈が見えて空が近い。

 もともと上久堅周辺の地質は風化した花崗岩だそうです。そのため、昔の上久堅は地滑りが起きやすく、貧栄養土壌で植物、作物が生育しにくい土地、戦前まで周辺の丘や山には木が生えていなかったということなのです。
 そんな土地も、戦後、植林が行なわれるようになり様相は変わりました。民主化の一環として進められた農地改革も要因になっているかもしれません。人々の努力によって植林が進み、現在のように森や林が増え、もともとある地形を利用しながら土手が築かれ、水路が引かれ、農耕のための土地が広がって行ったのです。土手は崩壊を防ぐ丈の長い草に被われました。上久堅の風景の特徴、林の様子、土手の形状や色彩などは、そんな先人たちの知恵が素因になっているのですね、きっと。厳しい環境条件を克服して来た美しさです。こういう営みの積み重ねを本来は文化と呼びます。

 「事の神送り」は落倉と小野子(おのこ)の集落境に到着。「中沢橋」というバス停の標識が立っている土手にカミサマたちを置きます。送り竹はずいぶん増えました。残りの道程、大変そうです。

 祭列を終えた落倉のみんさんは、ミコシをくぐったり、久しぶりに出会った人と挨拶をしたり、いつもの井戸端会議だったり、ひとしきり集ってから三々五々、ばらばらと帰途に着きました。
 けして後ろを振り向いては……あれ?、いや、なんか、そうでもなさそうです。
 後で聞いたところによると、落倉では特に振り向くなという言伝えはないらしいのですが。

 ともあれ、落倉の「事の神送り」は予定よりずいぶん早い時間に終わってしまいました。次は8日の最終区間、小野子ですが、小野子の人々が集まってくるまでにはまだ暫く間があります。フォーラム南信州の参加者は、伴走してくれている飯田市のマイクロバスに乗ってしばらく休憩。だいぶ歩き疲れて来ていたので嬉しい休憩です。

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 こんな風情のある土手の景色を眺めながら休憩です。
 野原にぽつんと立っている桜の古木と、ほどよい距離で佇む墓石。
 品の良い美しさですね。
 春、桜の咲く頃には黒澤明の「夢」のような世界になるにちがいありません。

 マイクロバスが停まっている道沿いの家のご婦人が、暖かい焙じ茶のいっぱい入ったポットと切り分けたリンゴをたくさん差し入れてくれました。紙コップまで一緒に。突然のことです。誰が頼んだわけでもなく、様子を察してこういうことをしてくれるのです。こんなにたくさんのリンゴを皮をむいて切り分けて。暖かい心、ものすごく嬉しいおもてなしです。

 ◆◇◆

 さて、事前に調べていた時間からさらにもう少し待って、小野子の人々が集まり始めました。どうやら、子供たちが学校から帰って来るのを待っていたようです。

 そういうわけで、この区間の主力は子供たちです。先頭の幣束、大旗、ミコシを担ぐのも全員子供。どうやら、鉦を叩いているのも女の子です。大人たちも大勢参加して、8日の「事の神送り」最終区間は賑やかに進みます。
 昨日から感じていることなのですが、子供たちが先頭に立つと祭列のスピードが上がります。大人の場合は、太鼓と鉦に合わせて「たらん…、たらん…、」というテンポで進むのですが、子供のペースだとさっさと進みます。神送りの歌や念仏のテンポも大人と子供ではだいぶ違います。

 そして、絶景の最終コーナー、長い坂道を下り終わって「事の神送り」は8日の終着地点に到着。長い長い一日の神送りが終了です。
 明日の午後、堂平(どうだいら)の人々が拾いに来るまで、カミサマたちは坂の下の路傍で一晩お休みするのです。カミサマたちが置かれているのは背後から夕陽のあたる林の一隅、東向きの土手です。朝陽が最初に当たります。なかなか寝心地の良さそうな所です。
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 この日の行事はこれで終了。
 フォーラム南信州の参加者も今夜は一旦家に帰ります。
 この週末、随分長い距離を歩きました。足首がへとへとです。

 ◆◇◆

 翌9日は午後3時、堂平(どうだいら)の「事の神送り」から始まります。
 堂平というのは、上久堅の中心・風張(かざはり)の南隣り、戦国時代にこの地を治めた知久頼元(ちくよりもと)の居城・神之峰(かんのみね)の東麓一帯で、全体的に周辺の地区より低い土地、少し深い窪地になっているところです。

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 なので、小野子から堂平に向かってはずっと緩やかな坂を下ります。
 堂平では子供が参加していません。月曜日に当たったという事情もあると思いますが、祭列に参加したお年寄りの話では、堂平では子供がとても少なくなってしまっているということなのです。しかも、地区の人々が総出で行事を行なっているのではなく、一年おきに東の地区と西の地区で分担しているということなのです。世帯数が少なく、みなさんご高齢の地区のようなのですが、やはり、毎年行事を行なうのは大変なことかもしれません。

 上久堅小学校の児童数は現在52名。この地域の人口流出はかなり深刻のようです。人口の流動は、時代によって、社会の趨勢に従って、いろいろなかたちで推移するものだと思います。その時代、社会が持ちえた技術や知識によって、人々の住む場所は、いろいろな場所に移動して来ました。
 21世紀、人類は、いろいろなことを解決する能力を身につけて来ています。この時代に生むことのできる新しいアイディアで、いろいろな地域のことを考えて行ったら、人が生きて文化を重ねて来た経緯のある場所であれば、必ず楽しく活きて行く方法があるはずなのです。そのときに一番大切なものが個性。地域の個性、地域の存在意義だと思います。

 堂平の中央部を過ぎると、道は上り坂に転じ、最後の急坂を登りきったところが、終着点。風張にある上久堅の自治振興センターです。センター前の田んぼの端に、大旗や送り竹を突き刺しておきます。送り竹の量がかなり多くなっています。相当重いはずです。この後が大変そうです。

 ◆◇◆

 「事の神送り」。
 楽しくて、いろいろな観点で興味深い行事です。歴史や習俗、社会的な意義を複雑に、濃密に、内包しています。上久堅という、けして平易ではない自然環境、社会環境の中で暮らしてきた人々。この人々の労苦や知恵の蓄積こそが、この地域を前進させるエネルギーになるはずなのです。そればかりか、劣化の一途をたどる日本の社会から、次々に脱落して行く、誇りや精神性、全体性を回復させるヒントが、ここから発見されるかもしれません。大切な祭りです。

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 夕方、背後の丘の上にある小学校から子供たちが下りて来ます。下校時間です。
 やがて、家にランドセルを置いた子供たち、風張、上平の人々がここへ集まります。

 「事の神送り」最後の区間が出発します。
 ここは子供たちが主力のようです。先頭に女の子たちが5人、市子(いちこ)みたいないいかんじの存在感です。後ろにミコシを担ぐ男の子、太鼓と鉦は上級生、その後ろにも中学生くらいの子供たちが続き、後ろ半分が送り竹を持った大人たち。もうここまで来ると送り竹も相当な量です。ひとり数本ずつがんばって、それでも抱えきれない分は軽トラックの荷台に載せて運ぶようです。

 夕暮れ近く、冬枯れの上久堅の独特な風景の中を祭列が進みます。
 風張の高台から上平(かみだいら)に下りて玉川寺の前を北の方へ進みます。
 風情のある道です。
 ……夏に提灯を持った行列があったらものすごく幽玄で美しいかも。涼しい風と蛙の声と提灯のあかり、念仏の音。

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 これも上久堅独特の風景です。
 井土手(いどて)。
 水源の遠い上久堅の耕作地に水を引くために作られた水路です。等高線のようなカーブを描いてゆっくりと畑の上を流れ、土手の向こうへ回り込んで行きます。
 昔の人が膨大な労苦をかけて構築した水路。農耕という実用のために作られたものですが、そこにある地形とちゃんと感性で対話しながら造られているので、その造形はとても美しいのです。のべつまくなしに穴を掘って切り崩してズドンと道を通しちゃうような美的水準の低い現代の建造物とはわけが違います。
 今は治水が進んでこの水路の重要性は低くなっているそうですが、これは是非残して行って欲しい風雅な景色です。ところどころに水車が回ってたりなんかしたらものすごく詩的ですね。
 ……けど、いるんだよね、いまだに。「こんなもの邪魔だ!」って言ってぶっつぶしちゃう低能な輩。

 夕闇が濃くなって来ました。
 いよいよ最後の場面が近づいて来ます。柏原(かしゃばら)の通りに出た所で他の神送りの行列と合流。野池から出発した西回りの「事の神送り」でしょうか。あるいは、中宮から来た神送りか。この道をまっすぐ進むと、その先がいよいよ最後に祭列のすべての道具を捨てる富田境です。
 柏原の集落、原平(はらだいら)の集会所の阿弥陀堂前では鉦や太鼓を持った子供たちが集合しています。神送りのコース上最終集落の原平では、ほかの神送りが通るのを見届けたところで念仏を唱えて出発するそうです。クライマックスに向かっていろいろな神送りが集結しつつある、わくわくする雰囲気です。

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 住宅街を抜けて最後の坂を上りきったところに「山本勘助物見の松」という名所があります。喬木村富田との境にある峠道の脇にあります。
 知久氏攻略の武田軍は策謀家・山本勘助に率いられて喬木村富田から柏原に侵入したのですが、そのときに勘助がここの一本松によじ登って南正面に見える神之峰の様子を遠望したといういわくの場所。
 この「勘助物見の松」の先に、延々と送って来た「事の神」を捨てる谷間・北の原があるのです。

 ◆◇◆

 そして、いよいよ再終幕。

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 それぞれの組ごとに子供たちが念仏を唱え、大旗、幣束、ミコシや送り竹を谷間に投げ捨てます。芋平で作られたあの愛嬌のあるカミサマたちもミコシごと谷底へ転げ落ちます。その後、整列して更に何回か念仏を唱え、鉦を叩いて来たバチも投げ捨てます。すべて捨てます。

 芋平から始まって、蛇沼、平栗、落倉、小野子、堂平、風張、上平と送られて来た東廻り。野池から始まって、田力、荻坪、大屋敷、尾科、下平の西回り。そして、原平と中宮の神送り。4つの組が代わる代わる念仏を済ませるころには、あたりはすっかり暗くなっています。少し暮れ残っていた夕空も、もう完全に夜の闇。
 そして、すべての仕来りが終わったところで、無言のまま、最後の祭列に参加した人たちは一斉に峠を越えて上久堅へ帰って行きます。

 絶対に後ろを振り向かないように。

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 ずいぶん長いレポートになってしまいました。
 けれど、この濃密な文化を宿した天空の里の個性・「事の神送り」を、とにかく一度全部書き出しておきたいと思いました。

 文中で何度も触れましたが、民俗学的に、社会的にこれだけいろいろな素因を豊富に含んだ祭りは特筆に値するものだと思います。おそらく何らかの無形文化財として採択されていてもおかしくはない価値の高いものなのです。

 数年前、この行事の徹底的な調査を敢行した飯田市美術博物館の桜井弘人さんを中心に文化財として推薦する動きがあったようですが、当事者・上久堅のみなさんがそれを望まず実現しなかった経緯があります。
 けれど、行事を執り行なう子供たちの真剣さ、古来の独自な流儀を誇りを持って受け継ごうとしている、それを年中の生活の中で活かそうとしている小さな集落の人々の熱意は、何らかの方法で日本の社会の記憶にしっかりと記しておくべきだと思います。

 ほかにもたくさんあろう未だ見ぬ尊い文化もふくめて。

 ~おわり~
【Ngene掲載:2009年2月16日】

「事の神送り」を追いかける(その3)はこちら

「夜ごとに神々の集う」~霜月の遠山郷を訪ねました~

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 霜月・12月の遠山郷には、日本全国(いや、世界?)のあちらこちらから、八百万の神々が集まって来ます。特に中旬、12月10日から16日の一週間は毎日毎晩、この谷のどこかで、湯立神楽が行なわれるのです。なんだか、神様たちのゴールデンウィーク!みたいな賑やかさ。
 その10日夜、木沢の正八幡神社で本祭が行なわれる夜に、遠山郷を訪ねてみました。北から入って、木沢まで、一つひとつの集落を巡り歩いてみると、この谷では、本当に、そこかしこで神を感じます。神、つまり自然の摂理と一体になって、寄り添うように生きてきた谷。自然と、万象と、すべてのものごとと一体になった人間の社会が、かつての日本にはあったことを、この谷間の里ではとてもリアルに感じます。

 遠山郷は長野県の最南端、南アルプスの傍ら、フォッサマグナ・中央構造線の真上を南北に走る深い谷間の里です。谷底を流れる清流・遠山川に沿って谷間を往く秋葉街道は、秋葉信仰以前、秋葉という名前が冠されるよりずっと前からの街道。先史時代からの古道です。遠州の塩を信州にもたらし、諏訪の黒曜石を東海道まで運ぶ、重要な経済の道だったのですが、それと同時に、管理された東海道を避けて通る人々、国家からの逃亡者、旅芸人などが盛んに往来した、信仰、神事や芸能の道でもあったのです。

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 12月10日。よく晴れた、月あかりの明るい夜でした。時折、遠山川から立ちのぼる霧が、山肌を駆け上がり、雲に変わって稜線を流れて行きます。中空に、まんまるい月。満天の星は、月明かりの中でもきれいに見えます。遠山川の流れが滔々と谷間に響き、遠くで鹿の鳴き声。かすかに神楽の太鼓が聴こえるような気がします。
 川霧が立って、谷間の奥に溜まると、山襞に沿って上がって行く。静かに動く墨絵のような情景が、月明かりで荘厳に照らし出されます。霧の向こうから、神楽の音に乗って、神様の行列が現れて来そうです。なんだか「千と千尋の神隠し」の冒頭シーンに現れる神様満員御礼の舟が、谷の奥から出て来そうな。映画「千と千尋の神隠し」は、遠山の霜月祭に強く影響を受けたということですが、確かに、この谷間の風景や空気の中には、神を感じる何かがあります。

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 遠山郷は、北から「上村」「木沢」「和田」の3つの地区に分かれます。北から遠山郷に入ると、まず上村の「程野」という部落があります。矢筈トンネルを抜け、曲がりくねった山道を下ったところに、最初に現れる集落。ここでは、秋葉街道のすぐ脇にある程野正八幡神社が、霜月神楽の舞台。この週・霜月ゴールデンウィークの半ば、12月14日に本祭が行なわれます。

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 月明かりに浮かぶ程野正八幡神社。
 神社の側にある集会場に、なにやら大勢の人が集まっていて、中から笛や太鼓の音が漏れて来ています。本祭りは4日後。神社の境内はまだ何も用意されていませんが、早くも祭の雰囲気が流れてきます。
 程野から秋葉街道を南下すると「中郷」。この部落の霜月祭も正八幡神社で行なわれます。遠山川西岸の斜面を少し上がって行った、お茶畑の真ん中にある、こぢんまりした林に囲まれた神社です。中郷の本祭は少し早く、12月6日に終わっていて、集落は、しんと静まり返っていましたが、月明かりに浮かぶ茶畑の中の神社は、それはそれは美しいものでした。ちょっと暗すぎて写真にできなかったのが残念。

 このあたりから西の山中へ上がって行ったところに「下栗」があります。「赤石銘茶」の産地である遠山の中でも、もっとも茶畑が多い地区です。そして、茶畑で桶を転がすと谷底まで拾いに行かなければならない、と表現される急斜面が、下栗の景観的な特徴。急斜面に畝を打った茶畑と集落、つづら折りの山道、手の届きそうな眼前に広がる南アルプスのパノラマは、「日本のチロル」と呼ばれる絶景。いや、特にスイスに準えなくても、かなり感動的な息をのむ絶景です。
 その下栗では、程野の前日、12月13日に、拾五社大明神で本祭が行なわれます。拾五社大明神は、ものすごい急斜面の中腹にある神社で、竈の形状も式次第も独特、面の数も他の神社の倍近く登場するお祭りなのです。一度は行きたい下栗の本祭。

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 そして、上村地区の中心地は「上町」です。中郷からさらに下った上村の南部にあります。
 この上町正八幡神社では、12月11日に本祭が行なわれます。訪れた10日の夜は宵祭り。神社の境内には明々と灯がともり、人々が集まって社殿の中で本祭の準備をしたり、宵祭りの行事を進めています。宵祭りというのは初めて目にしましたが、随分と静かに進むのですね。

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 遠山郷の中でも、この上村は、もっとも霜月祭の継承に力を入れています。上村中学校の文化祭「しゃくなげ祭」では、上町、程野、下栗、中郷、各部落の生徒たちによる「郷土の舞」が毎年披露されていて、祭を受け継ごうとする生徒たちの、強い意欲が引き継がれています。休みを利用して練習を重ねたり、地区の古老に、かつての祭の話を聞きに行ったり、その真剣な姿勢は、凛々しくもあり、楽しそうでもあり、とても魅力的。最近は、本祭でも中学生の舞が披露されるまでに、発展しています。この晩の宵祭にも、中学生が大人に交じって参加していました。残念なことに、今年度いっぱいで上村中学校は廃校になるのですが、30年以上続けられて来たこの有意義な活動は、来年度から遠山中学校に統合されても、また別のかたちで継承されて行くはずです。(「遠山郷・上村中学校のこと」参照

 さて、上村からひとしきり南へ走ると木沢地区に入ります。現在、木沢では、概ね4つの神社で霜月祭が行なわれています。
 まずは、上村との境にある、八日市場と中立、隣接する2部落、八日市場の日月神社と中立の稲荷神社で一年交互に、いわば霜月祭の幕開けとなる12月1日に、本祭が行なわれています。いずれも街道をはずれた山中にあって、鬱蒼とした森に抱かれた、素朴な佇まいの神社です。
 そして、その南隣りの「上島」の白山神社で12月6日、いちばん南の「小道木」にある熊野神社で12月7日、それぞれ本祭が開催されます。ここにある白山神社と熊野神社は、どちらも、普通の神社の雰囲気とは明らかに違います。鳥居があって、石段があって、神を祀る社殿がある、という造りのものではなく、むしろ里の人々が集って籠るための場所といった風情。いわば、神社の原型に近い形なのではないでしょうか。とてもプリミティヴなエネルギーを溜め込んだ場所です。

 そしてこの日、12月10日の最終目的地がここ、木沢地区の中心地である木沢正八幡神社です。

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木沢正八幡神社の霜月祭の様子は「霜月まつり」参照

 霜月祭は、その地区や部落によって、神社によって、それぞれ独自の流儀で行なわれます。舞のかたちも、笛の旋律や太鼓のリズムも、式次第も、霜月神楽という大同の下、それぞれみんな違った形を有しています。面や神様もいろいろで、すべての霜月祭を見ないと、八百万の神様たちのことはわかって来ない。その神々との関わりは、とても豊かで面白く、この谷間の里の個性的な景観、エネルギーの高い山岳地帯特有の雰囲気と相まって、近代以降の驕り昂った世界観を凌駕する価値、魅力を感じるのです。自然と人間との間にある、自由で誇り高い存在理由。戦後の日本の社会が失ってしまった大切な存在理由が、この谷間の祭にはあるのです。

 さて、遠山郷の最南部の地区は、「和田」。ここは遠山郷でいちばん栄えた宿場街であり、この地の豪族・遠山氏の居城があった地区です。ここでの祭の様子は上村や木沢とちょっと違うと言われています。おそらく和田には、上村や木沢の霜月祭が持っているような素朴でプリミティヴな性質よりも、宿場の祭特有の賑わい、明朗快活な気質があるように感じます。
 現在、和田では諏訪神社と八重河内の正八幡神社のみ、霜月祭が残っていて、それぞれ、12月13日と15日に本祭が行なわれることになっています。

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 そんなわけで、今年の霜月祭の日程を並べてみると、こんなかんじです。

 12月1日(月) 八日市場・日月神社(木沢)<隔年開催:中立・稲荷神社(木沢)>
 12月6日(土) 中郷・正八幡神社(上村)、上島・白山神社(木沢)
 12月7日(日) 小道木・熊野神社(木沢)
 12月10日(水) 木沢・正八幡神社(木沢)
 12月11日(木) 上町・正八幡神社(上村)
 12月13日(土) 和田・諏訪神社(和田)、下栗・拾五社大明神(上村)
 12月14日(日) 程野・八幡神社(上村)
 12月15日(月) 八重河内・正八幡神社(和田)

 霜月祭が開催される地域、神社の数は年々減って来ています。この祭の継承についてはいろいろな考え方があり、それぞれの地域で独自に工夫しながら、いろいろな変遷を辿っています。

※現日程の情報はこちら
「霜月まつりの神社と日程」

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 社会の中で、祭が隆盛したり衰退したり、それはいろいろあると思います。どちらが良いか、という問題ではないように思います。大切なのは、その地域の個性、その地域の流儀を持ち続けられること。個性や流儀はその地域の存在意義に結実します。願わくば、その地域の存在意義を失うことの無いよう、そこに住む人々、そこに集う人々による、その人々のための祭、そして祭を取巻く一年間の生活があって欲しい。そのことに愛着を持ち、訪れることに誇りを感じることのできる人々がそこを訪れ、そこに住む人々と自由闊達に交流することのできる祭であって欲しい。国家や消費経済の枠組みではない、人間を本位にした祭や生活が、自由な誇り高い文化として生き続けて行って欲しいのです。

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【Ngene掲載:2008年12月18日】

遠山郷・上村中学校のこと

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 遠山郷。
 南北に細長い谷間、遠山郷の北の入口が上村です。東の山間地には下栗(しもぐり)、『日本のチロル』と呼ばれる急傾斜の集落があり、西の伊那山脈を越えると伊那谷南部、飯田へ通じます。複雑な山襞に沿って蛇行する秋葉街道を北から下ると、最初に信号のある交差点のあたりが、上村の中心地。この交差点に面して、上村の小学校と中学校の正門があります。正門を背に、交差点の反対側の道を入ると、かつての宿場街である上町(かみまち)。風情のある、構えの古い家屋や商店が並びます。郵便局や自治振興センターなどの公共施設も、すべてこの周辺。宿場街の北はずれには、上町正八幡宮。独特の風貌と、眼に見えない不思議なエネルギーを発している、霜月祭の神社です。

 「霜月祭」という遠山郷の誇りを、上村中学校は学校ぐるみ、地域ぐるみで守り続けています。霜月祭保存会、保護者、教職員が一体となって、霜月神楽の継承学習を30年近く続けているのです。しかも、霜月神楽の舞の形だけを保存継承しているのではありません。生徒たちは休みの日を利用して、お年寄りから村の歴史、祭りの歴史を学び、舞の練習を重ね、その意義、精神性をしっかりと身につけながら、霜月祭を受け継いできているのです。これは、民俗芸能を過去の遺産と位置づけた、伝統保存の方法とは違います。地域が活きて行くために、地域が前進するために利用可能な、未来につながる資産として、霜月祭を認識した方法です。

 上村中学校の文化祭『しゃくなげ祭』では、1979年以降、毎年『郷土の舞』というプログラムが設けられていて、上町、中郷(なかごう)、程野(ほどの)、下栗(しもぐり)、四地区それぞれの生徒たちによって、各地区に伝わる舞が披露されてきました。
 近年では、『しゃくなげ祭』だけでなく霜月祭本祭でも舞うことを許され、12月には各地区ごとに本祭に参加して、舞を披露しています。これは、霜月祭の流儀からしても、とても画期的なことだと思うのですが、単なる継承活動に対する理解協力ではない、もっと大きな、未来へ向けてのコミュニケーションを感じます。
 一度見ればわかることですが、上村中学校の舞は本祭への参加を許されるほどに質が高く真剣なものなのです。
 惹き込まれます。この『郷土の舞』の魅力は、30年、そして更に充実したこの10数年の継承活動がいかに価値の高い活動だったか、ということを表しているのです。

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写真提供:田中清一教諭

 その上村中学校が、今年春、廃校になります。
 今週、最後の卒業式、終業式、そして閉校式が行なわれました。
 霜月祭への取組みを担当する最後の教員となった田中清一先生のお話に沿って、上村中学校のこの取組みの意義について考えてみようと思います。

 田中先生は長野県松本市出身。教員になった初期から、市街地の大きな学校よりも、僻地と呼ばれる地域の小さな学校での勤務を希望していたそうです。
 ところが、初任地は長野県佐久市。市街地の学校でした。初任者研修で、僻地教育の実践発表として上村中学校の事例に触れたことがあるそうです。それですぐに上村中学校への赴任を希望したわけではないのですが、いわゆる『山の学校』への憧れがますます高まり、なんとなく「上村がいいな」と、この頃から思い始めたようです。

 『山の学校』への勤務希望を出して、次の任地が飯田市旭が丘中学校。かつての伊賀良(いがら)中学校と山本中学校が統合してできた、人口増加地域のマンモス校です。『山の学校』を希望したのに、なんでこんなでかい学校なんだ!
 それが10年前のことでした。このとき初めて、南信地域に足を踏み入れたのだそうです。

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 社会科が専門教科だった田中先生は、飯田下伊那の学校から集まる社会科教員の会合で、当時、上村中学校に赴任して、霜月祭の活動に取組んでいた、丸山貢弘さんの話を聞いて、俄然上村中学校に興味を持ったそうです。
 元来祭り好きで、子供の頃から地元の祭りによく顔を出し、神社仏閣、道祖神を巡る少年だった田中先生。僻地教育に対する認識と霜月祭への興味が高まって、その頃から上村中学校への赴任を希望し始めたそうです。

 社会科の先生になったのは、やはり社会学的なことに興味があったからなのです。田中先生は、もともと人間と社会の在り方についての認識と、基礎的なアイディアを持っていて、日本の国土利用の矛盾、人口偏在の弊害、過剰な経済偏重などに問題を感じていました。そしてさらに、そこに起因しているネガティヴな事象の解決方法、いまだに日本の社会が持ち得ていない、ここから前進するための方法を編み出すヒントが、日本古来の文化の中にあるということを予感しているのです。

 30年前から霜月祭に取組み始めた上村中学校。上村中学校に赴任する教職員は必ず霜月祭に関わります。そして、前述の丸山先生赴任以降、およそ10数年前から、その関わりは更に緊密になっていて、赴任すると必ず、自分の笛を持ち、神楽の旋律を吹き、『郷土の舞』や霜月祭に参加するのがあたりまえ。最近では、太鼓も叩くし、神楽を舞うこともできる。これが、上村中の教職員の間に、伝統としてずっと受け継がれてきたのです。

 教職員がひとつの学校に赴任している期間は、およそ2年か3年。何人かの先生たちが少しずつ時期をだぶらせながら、入れ替わり立ち替わり、学校は運営されて行くのです。ということは、丸山先生以降、順次上村中学校に赴任する何人もの先生達が、その伝統を途切れさせずに、それどころか更に盛り上げながら、受け継いで来たのです。
 これは奇跡的なことに思えます。いわば上意下達の人事異動で、10年以上に渡って、学校の教科とは関係のない、伝承芸能のことを受け継ごうとする先生達が続いた、ということなのです。

 田中先生いわく、『山の学校』を希望して赴任する先生というのは、何かを持っているようです。
 『山の学校』という、のんびりしたノスタルジックな響きに比して、やはり勤務は大変です。通勤ひとつとっても、距離、環境、条件、市街地の学校と比べてとても厳しい。利便性が低く、物資は少ない。そんな学校に行こうという先生は、やはり、何かを持っている人材なのです。上村中学校の中を歩いてみると、どの教室へ行っても、どの先生も、しっかり、興味深い教材を準備して、とても有意義で個性的な空気を感じます。表現は難しいのですが、大きな力、先生としての職業的な体力というか、先生である以前の人間的な力というか……。
 それは、指導力とは別の、人間の力。先生としての指導力だけではない基礎的な人間の力。そして、その人間の力が生み出す行動の動機。人間や社会がどうあるべきかという全体性も踏まえた、それぞれの教育の力です。それは、創造性を伴なっていないと成立しない能力です。

 教育の現場だけでなく、今の社会では、この人間の力が価値観から欠落してしまっています。全体性や創造性を伴なわない、細分化された技術だけが問われ、社会全体、人間全体を創造し、前進させて行くという観念が欠落してしまっているのです。古来、人間や社会に新しい局面を提供して来た全体性、創造性という観念が。
 この欠落状態は、社会の前進を阻んでいるだけでなく、劣化を招くことにもなっています。自分だけ良ければいい、騙してでも勝ち残ればそれでOK、という世の中。自分達がなんのために存在するのかという、人間存在の根幹、本質を見失った社会を作っているのです。社会全体が良くならなければ、自分の立地は危うくなる、ということを考えない。これは、実は日本の社会が、いま一番最初に修正しなければならない基本概念だと思います。

 創意にあふれた魅力的な教室。わくわくします。おそらく、歴代ここに赴任する先生達はみんな、そんな何かを持って、教育の現場に立つ人たちだったのではないでしょうか。上村を経験した先生達は、今でも時折集まるそうです。同じ使命を帯びた人たちでないと共有できない空気が、きっと、ここにはあったのだろうと思われます。そこに集まった人たちのアイディアから生まれ、そこに集まった人たちを育て、そこの個性を育み、そこの存在意義を作る空気。そんなものが、上村中学校には醸成されていたのです。

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 上村中学校の先生達は保護者のみなさんを名字ではなく名前で呼ぶそうです。「鎌倉さん」とか「松下さん」ではなく「博登志さん」や「京子さん」というふうに呼ぶのです。ここの流儀に従って自然に名前で呼ぶのです。自然にお父さん、お母さん、地域の人たちと交わることのできる先生が多いらしいのです。
 たぶん、人間や土地の力が強いこういった山間地では、そういうことを自然にできる感覚が重要です。それは何も特別なものではありません。人間と人間が出会い、暮らして行くときには本来あたりまえに必要とされる感覚、自然にそこにある環境に溶け込む能力です。
 そして、地域に溶け込むということは、そこに住んでいるとか、通っているとか、そういうことだけが問われるのではありません。そこで暮らしている人々の心に繋がっているかどうか、ということが問題だと田中先生は言います。その地域の暮らしを全うしようとすることばかりが重要なのではなく、暮らしてなくても、そこの魅力も辛いことも知っていて、想像力を最大限に駆使して、そこにある暮らしのことを敬愛できるかどうか、ということなのです。

 ◇◆◇

 山間地の暮らしは不便です。市場原理だけで解釈したら消滅するしかないくらい、山深い遠山郷の暮らしは不便です。けれど、不便とされている現象は、すべてが悲観的なことでしょうか、あるいは、利便性って何でしょうか。便利なことはいいことです。けれど、今の日本にある利便性のどれだけが、僕達のためになっているのでしょうか。
 便利なことは有益で、人々は全員それを目指す、ということを信じて殺到してきた日本の社会も、快感原則の先に、更なる精神的な充実を目指す人間の本性のことに、そろそろ気づいても良いころ。有益な便利さと有害な便利さ、回避するべき不便と魅力のある不便も、本当は違いがわかるようになっているはずだと思うのですが。

 人口が減少すると制度上の規則で学校がなくなったり村がなくなったりしますが、それは行政上の変化なのであって、その地域の存在意義を計るものではありません。上村は平成10年に飯田市と合併しました。そのとき上村の人口は630人。現在は600人を切りました。上村中学校の生徒数は11人でこの春廃校になりますが、上村小学校は現在20人。このまま行くといずれ、小学校がこの地域で存続できなくなるときがやって来ます。地域の拠り所のひとつである学校が消滅したとき、この地域の核になるものは何なのか。
 こういった山間地の暮らしのありようを、これからどうしていくのか、日本の社会は、そのための方法を創って行かなければなりません。今まで市場原理一辺倒で馬車馬のように進んで来たために、こういった現象に関する対処方法が、あまり考えられていないのです。過剰な経済偏重のために、財務的価値以外の価値観について理解できる能力もありません。日本の社会はもう一度、自分達のために、自分達が豊かに暮らして行くための能力や感覚を取り戻さなければならないとこるにいるのです。

 「温故知新」。
 ヒントは歴史にある。現代社会で埋もれてしまった伝統的な生き方、知恵がヒントになる筈です。かつての日本の社会、生き方、知恵は、日本の国土、風土から発生した、自分達が豊かに生きて行くための方法でした。
 田中先生が上村に来てから、総合学習という時間で、子供達が村の人達に話を聞くことを始めました。「這い回る学習」だそうです。上村じゅうを歩き回って、祭りや村の歴史について聞き取り調査をするのです。最初のうちは、祭りの歴史や風俗について学術的な話、観光パンフレットに解説されているような、誰に訊いても通り一遍の話が出るだけでした。
 「なんだか面白くない」。
 「子供達が学ぶべき本質的なことではない」と感じた田中先生は設問の方向を変えます。村の人々に「あなたにとってお祭りってなんですか?」という質問を向けるようにしてみました。そうしたら、面白い話がどんどん出て来るのです。おじいさんたちの昔語り。ひとりひとりの極めて個人的な物語、ひとりひとりの主観に立ったいろいろな物語、愛情のこもった物語がどんどん出て来ます。そのひとつひとつ、ひとりひとりの物語を繋げて積み重ねて行くと、とても豊かな上村の物語ができてくるのです。上村中の子供達は上村のお年寄り達にいろいろな話を聞きました。昔の物語を聞き、祭りの話を聞き、森や林、山の話、一年間の暮らしの話、人生の話を、上村を誇りに思っている人たちの話を聞きました。

 そうすると子供達は、「おじいちゃんたちの話を聞いているうちに、上村のことをどうでもいいなんて思えなくなった」「不便で何もないところだと思っていたけれど、必ず帰って来たいと思うようになった」という気持ちを結ぶようになったのです。
 「下栗はずっと下栗であってほしい」。
 とても重要なことです。
 「上村の魅力は?」
 「上村を本気で好きだと言える人が上村にいることです」
 それが、その地域の存在理由です。地域の存在理由。地域にとってまず必要なのはその存在理由です。その存在理由はそこにいる人々が、人々の基礎的な認識が作るのです。それがなければ、どんな施策を講じても地域の活性化などありえません。

 ◇◆◇

 何が大切なこと、本質なのかということに辿り着いた上村中学校の存在理由は、それを導き出したこの学校の先生達の文化。それが、上村中学校の豊かな空気感を醸成しています。文化とは、いろいろな人々が醸し出すその場所の空気と、その空気感を関知して集まって来るいろいろな人々の新しい空気が反応し合って、個性的な、有意義な智慧として結実したもののことを言います。
 社会の趨勢に従って、その場所に住む人数は多くなったり少なくなったりしますが、少なくなったからといって、その場所の存在理由や文化が失なわれるわけではありません。たとえ誰も住まなくなったとしても、その場所の文化は、その場所を記憶する人々によって受け継がれ、その人々が正しい認識力を持っていれば、表現方法は変わったとしても、その本質にある人間として大切な部分は、ちゃんと残って行くのです。

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 さて、そんなユニークで価値の高い文化を醸成した上村中学校も、終わりになってしまいました。来月からは、遠山中学校に統合されます。上村中学校の先生達と生徒達、そして保護者や保存会の人たちが一緒になって作り上げて来た、素晴らしいムーヴメント『郷土の舞』はどうなってしまうのでしょうか。

 昨年11月8日、最後の『しゃくなげ祭』が行なわれました。「春が来たらこの学校はなくなってしまう」という最後の学校祭です。そこに、次の春から一緒になる遠山中学校の生徒さん達が招待されました。遠山中学校は、上村以外の遠山郷、木沢(きざわ)と和田という地区の子供達が通っています。その生徒さんたちがみんな『しゃくなげ祭』に参加しました。そのとき『郷土の舞』をみた遠山中学校の生徒さんたちが、全員、「かっこいい!」と感じたというのです。それはそうです。僕達が見ても魅力的だと思う『郷土の舞』、人を魅了する本物です。何年もかけて歴代の教職員や生徒たちが積み上げて来た、本物の表現なのです。もともと、そのDNAを持っている遠山郷の子供達が「かっこいい」と感じないはずはありません。上村とは反対側の南の地区、和田。近年、ここの子供達は、小学校まではお祭りに参加しても、中学校に行ったらやらなくなっていたらしいです。ところが、昨年暮れの霜月祭には、何人かの子供達が舞の練習に参加するようになったのです。

 これが、誇り高い文化の姿です。
 誰かが決まりを作ってやるのではなく、誇りを持って、ひたすら切磋琢磨した人たちの本物の表現、エネルギーが人を惹き付け、その発露に触れた人々の間に憧れを誘発し、人を動かし、融合し、新しい局面を生みながら、前進して行くのです。それが文化、社会を前進させる技術なのです。

 日本の農山村は人口減少傾向にあります。それを「過疎」という言葉で表現して「どうしたらいいかわからない」ことになっています。たぶん、いつまでも「過疎」という方向でものごとを考えていたら日本の社会が豊かになるときはやって来ないと思います。「過疎」という概念自体、市場原理に則った、消去法的な考え方だからです。新しいアイディアを見つけ出さなければならないときに、消去法的な考え方は何も生みません。インダストリアルな時代は終わったのです。つまり、新しい時代を作らなければならないのです。既存のアイディアで乗り切れるはずはありません。新しいアイディアを生まなくてはならないのです。

 新しいアイディアは、どうやったら生むことができるのか。

 上村中学校はなくなります。けれど、ここで生まれた知恵はきっと、この遠山郷でちゃんと活き続けて行くのです。社会がどういう状態になろうと生き続ける人間社会の知恵。これが、人間が生きている意味、人間社会がそこに存在する理由なのです。
 今月、まさに今週、幕を閉じた上村中学校で今まであったことと、統合先の遠山中学校でこれから起きて行くであろうこと。これを知ることが、今の社会にとってとても大切なことなのだと思います。

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【Ngene掲載:2009年3月21日】
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宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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