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皆神山の麓の田んぼで…

 松代。
 皆神山のふもとにある小川家の田んぼでは、5月に植えた稲がすくすくと育っています。

 このあたり一帯に広がる小川家の田んぼのうち、元気に稲の育つ青々としたこの一枚はナノグラフィカの高井綾子さんが手伝っている田んぼです。そして、小川家というのはネオンホールの店長である小川哲郎くんの家です。持ち主は哲郎くんのおじいちゃん、今はお父さんが田んぼのあるじ、お世話をしています。

 5月下旬のある日、植え終わった田んぼの様子を見に行くという高井さんと哲郎くんを追いかけて行ってみたのがこの写真。
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 あたりはまだ田植えが始まったばかり。もちろん終ったところもあるのですが、水を入れ始めたばかりの田んぼもまだあちこちにありました。

 田植えはほとんど初めてという高井さんですが、なかなかの早乙女ぶりです。
 この日は、一通り植え終わった田んぼを見回りして植え足したり直したりする日ということでした。黙々と……?にこにこゆるゆると作業は進みます。そういえば、この日の夕食はおじいちゃん家の縁側でカエルの声をききながら、ということでした。
 いいなぁ。

 田んぼにはいろいろな生き物が生活しています。
 最大派閥のカエルたち、トンボ、ヤゴ、アメンボ、ミズスマシ、メダカ、タニシ、ザリガニ、などなど。水の入った田んぼは栄養たっぷりなので、方々からみんなが集まって来るのです。

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 手足がそろったばかりの豆ガエルたちが、周囲の道路や畦にあふれています。夥しい数の豆ガエルたちが、まだうまく動かせない手足を一生懸命使って、飛んだり跳ねたり、這い回ったりしています。ほんとにおびただしい数です。当然、車や人に踏みつぶされてしまう不幸なヤツも少なからず。

 みんなで哲郎くんと高井さんの田んぼを眺めています。
 「蛙の学校」という歌はありませんが、学校みたいです。学校に集まって、みんなで勉強したり飛び跳ねたり、楽しそうにいろいろやってるような……。

 ◆◇◆

 食料自給率の危機的な状況が叫ばれていますが、おそらくそれよりももっと根源的な部分で、今の社会から何かを感じた人々が「農」に取組み始めています。本気で深いところまで、たとえば自然農法や地球環境のことまで踏み込む人から、今の仕事やライフスタイルを保ちながらできる範囲で取組む人まで、グラデーションはいろいろありますが、確かに「農」に携わり始めています。

 「農」はかつて生活の基盤にありました。現在のように産業として分割された形ではなく、さまざまな分野の人々の生活の基盤にあったのです。
 古く、戦国時代、武士はふだん農業を営んでいました。
 そして、職人も、商人も、ものを作ったり商いをする傍らに必ず畑や田んぼがあり、ニワトリや牛がいたのです。これは、そんなに昔の話ではありません。アジア太平洋戦争くらいまで、日本の社会にはそういう形で「農」が存在し、みんなに共有されていたのです。

 日本は気候が温暖で山岳地形が多く降雨も適量。耕作面積が稼ぎにくい地形を、地球としっかり対話しながら開墾し、美しい棚田の風景とともに豊かな社会の形を作って来ていたのでした。

 自分の手で作り、収穫した糧で毎日の生活をしっかり暮らす。

 それが、豊かで人間的な社会のありさまだと思います。別に「自分だけで自給自足をするんだ」というような原則的なことではありません。この社会の形のことです。農業が経済的な産業構造の中からいくばくかを生活の基盤の部分にシフトして、経済外活動がもっと盛んな緩やかで人間本位の社会の姿に戻ること。
 資本主義にとっては邪魔な部分かもしれないけれど、そうなって行ったら社会は、人々の生活は幸せになってゆくのだと思います。だからきっと、創造的な若い人々を中心に「農業をしながら自分のやりたいことをする」という人が増えてきているのです。
 
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 皆神山のふもとの小川家の田んぼ。高井さんと哲郎くんが田植えをしたこの田んぼを、ひとまず今年一年間、追いかけてみようと思います。

【Ngene掲載:2009年7月15日】
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中国高校生訪日団・善光寺参拝

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 6月26日、中国の高校生達が善光寺を参拝しました。中国高校生訪日団です。
 これは、両国の政府が日中友好協会(中国側は中日友好協会)に委託する形で数年前から行なわれている高校生交流事業。今年度は中国から4回に分けて850人の高校生が日本を訪れます。反対に、日本からは春と秋の2回に分けて200人の高校生が中国を訪れることになっているようです。

 6月24日に成田空港に降りた一行は、いろいろな行事をこなしながら東京に2泊。3日目に長野を訪れたわけです。
 朝、新幹線で長野に到着。歓迎式やオリエンテーションを経て、午後は企業参観と善光寺参拝。長野市の信濃毎日新聞社とみすずコーポレーションを2グループに分かれて見学した後、大門周辺に再集結しました。

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 今回訪日した高校生は、河北省、河南省、そして山西省の高校から選抜された成績優秀な生徒さんたちということです。中国の高校は6年制なので、年齢的には日本の中学生と高校生にあたります。
 パティオ大門の前や表参道の中ほど、計4台のバスから降りてきた一行はみんな明るくて、よくニコニコ笑います。てんでにデジカメやビデオカメラを持って、周囲の珍しいものを撮ったり記念撮影したりしています。
 善光寺へ向かうまでの間そこかしこで思い思いにすごしている彼らの様子は、なんだか純朴で大陸的、のびやかな微笑ましいものでした。

 彼らの住んでいる地域は中国の比較的中心地域にあたります。河北省は北京市と天津市をぐるりと取り囲み、その西側に山西省、南側に河南省があります。ひょっとしたら、日本でいうと関東地方から北関東、東海、甲信地方あたりのかんじだったりするのでしょうか。もっとも、国土が広大すぎて比較のしようもないと思いますが。

 善光寺御開帳のときに使う徳行坊の黄色いたすきをかけて善光寺本堂へ向かって出発します。途中、仁王門や山門では、今回の受入れを依頼された「平和を願う僧侶の会」代表の徳行坊住職・若麻績隆史さんに説明を受けながら、てんでに楽しそうにガヤガヤと進みます。

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 この時期に中国高校生訪日団が善光寺を訪れることになったのは、日中友好協会の働きかけがあったからだそうです。北京オリンピックの聖火リレーを辞退した善光寺に、オリンピックを悲願として聖火リレーに強い想念を抱いていた中国の若者達を呼んだのです。

 それは当然「騒ぎが起きると迷惑だから」辞退した善光寺なのではなく、「国家や民族を越えてひとりひとりが慈しみ合い理解し合う幸福と平和への理念」に従って動き、漢族もチベット族も等しく犠牲者を法要した善光寺だからです。そして、その理念が今どれだけ重要なものであるかということなのだと思います。
 しかるに、その受け入れを「平和を願う僧侶の会」に委託してきたのです。

 案内役を買って出た若麻績さんたちはこの日東京に行く予定が組まれていたのですが、その重要性を理解し、何が本当に大切なのかをわかっていない僧侶に善光寺の説明をしてほしくない、という気持ちから、2日前に舞い込んだ依頼にも関わらず引き受けたのでした。

 チベット対中国という単純な対立軸、事件性にしか反応しないメディアはほとんど関心を示さなかったようですが、今回のこのプログラムは、僕たちの未来が平和で幸福である可能性について少し明るい展望を提供してくれているように思います。

 チベットに対して直接弾圧を行なっているのは中国共産党政府です。それは批判されるべき野蛮で非人間的な愚挙ですが、それを止めさせる方法は中国共産党を批判することだけではないかもしれません。今回のように、イデオロギーを越えたところにあるプランに理解を示し承認するのです。僕たちは、ここにある本当の意味を考えるべきなのかもしれません。

 この数年、中国と日本の間で相互にネガティブ・キャンペーンが行なわれています。両国で同時に、互いの国に対する嫌悪感や恐怖心を植えつける強烈なキャンペーンが行なわれていることの不自然さについて、僕たちはそろそろ疑念を向けるときなのかもしれません。

 悪いのは本当に国家でしょうか。この子たちの住む国を忌み嫌って良いのでしょうか。

 本堂で法話を聴き戒壇巡りをして出て来た高校生達は、もう随分と善光寺に打ち解けた様子です。本堂前の広い庭でのびのびとざわめいて出発時間を待っています。
 ひとりの先生が記念写真を撮ろう!と言い出しました。全員本堂を背に集合です。今回の一行は150人くらいでしょうか、みんな素直にすんなりと集まります。みんな並んだところで、中央に徳行坊住職・若麻績隆史さんと白蓮坊住職・若麻績敏隆さん、「平和を願う僧侶の会」のふたりを招き入れて和やかに写真撮影。

 中国の高校生のみんなは、松代で一泊したあと、長野、諏訪、飯田、松本の4地区に分かれます。各地でそれぞれの行事を行ない、ホームステイしたり、その地域の高校と学校交流をしたり、そば打ちや観光地の訪問をして、週末に富士五湖巡りをしながら東京に戻ることになっています。

 ねがわくば、こうして訪れる高校生のみんなが、見当違いなくだらない反中感情によって嫌な目に遭ってませんように。ねがわくば、日本に住んでいる人々も自分たちと同じ、幸福を求め平和を願いながらそれぞれの街で暮らしているということに愛着と慈悲を覚えて帰ってくれますように。
 そして、利己的支配勢力の暴力によってこの子たちののびやかな笑顔が喪失されることがありませんように。

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【Ngene掲載:2008年6月28日】

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「Compassion」~チベットからの風~

「Compassion」~チベットからの風~

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 2008年5月、重要な冊子が発行されました。「悲・コンパッション~compassion」というタイトルがオフホワイトの地に記されています。風に舞うタルチョ(チベットの経文が書かれた五色の旗)のイメージが、
そのタイトルに呼応して、風を運んで来るみたいです。シリーズで発行されるものなのか「vol.1 チベットからの風」という表記があります。

 「チベットからの風」。
 これは、チベットの悲劇性を訴えるだけの本ではありません。もっと重要なことを考えようとしている本です。

 発行者は「チベット(問題)を考える真言宗智山派青年僧侶有志の会」。篠ノ井にある長谷寺のご住職・岡澤慶澄さんや、現地を何度も訪れてその現状を熟知している上田・海禅寺の飯島俊哲さんを中心に、各地のいろいろな宗派の僧侶、チベットに友人を持つ方、チベット仏教普及協会の方、さまざまな立場からの寄稿によって構成されています。
 2008年3月10日に、チベットで何があったのか。そして50年前、1959年の同じ日には何があったのか。これまでチベットは、どんな状態に置かれてきたのか。それは、この世界でどういう意味があるのか。そういった、チベットを巡る理不尽な出来事について、いろいろな観点からの評論を集め、他の何でもない、人の幸せを守るための思索を目指した本なのではないかと思います。
 誰かが捩じ曲げた歴史認識ではない、通り一遍の事件記録ではない、ひたすら人間の生命という根源的な視点で編纂された証言集です。

 「コンパッション」、チベットのことを考えるときに、いや、それだけではない、現代を生きて行くのに必要な理念を宣言した序文から、この本は始まります。この難題にどういう姿勢で臨むのか、という覚悟のことです。
 チベットやダラムサラ(チベット亡命政府のある北インドの町)を何度も訪れている、飯島俊哲さんの記述がそれを受けます。
 チベットのこの問題にも、チベットだけではない、世界的で強大な悪因が潜んでいます。それに対面したときに突きつけられる、不可能にも近い困難と、それでも人々の幸福のために闘おうとする、無尽の悲しみと怒りを孕んだ決意を、僕達はこの必死に堪えている一文から感じ取ります。

 チベットはかつて自由な独立国家であり、中国(元~明~清)は、信仰の拠り所として、チベットに敬意を抱きながら共生していました。この関係が変わったのは、ヨーロッパの植民地政策がこの地に及んでからです。清はアヘンを流し込まれて侵略され、植民地化され、その侵略者から政治的軍事的な概念を移植された結果、中国はチベットへの弾圧を始めたのです。
 その勢力というのが非人間的な利己経済思想であり、18世紀以降世界中で戦争や紛争、動乱を起こしている要因なのです。アメリカの第一次世界大戦参戦、日本の真珠湾攻撃、ベトナム戦争、カンボジアの内戦、ルワンダの大殺戮、そのほかあらゆる紛争。煽動によって混乱を引き起こし人々を悲劇に追い込むその手法は今も変わっておらず、日本も現在その渦中にあります。
 人間の、とどまることを知らない暴力的な欲望。
 中国共産党政府を批判するだけでは表層の波紋に過ぎません。暴力を止めさせるために、僕達はまず、そこで何が起きているのかを正確に知らなければいけないのです。

 続いて、チベットに友人を持つあるひとりの女性が仮名で書き記した3月10日を巡る記録。仮名で寄稿しているのは現地チベットの友人に危害の及ぶ可能性があるからです。この誠実な文章により、そこで本当は何が起きているのかが僕達に伝わってきます。

 3月10日の夕方、チベットのラサで始まったのは、拘束された仲間の解放を求める平和的なデモでした。列になって歩き声を上げるだけの平和的なデモです。ところが途中で武装警官に包囲され、何人かが逮捕されます。同じようなことがチベットの他の地域や青海省、四川省などでも起きました。
 翌日、デモによって逮捕者が出たことに抗議した僧侶や一般市民によるデモが各地で行なわれます。今度はいきなり催涙弾を撃ち込まれ、寺院は封鎖され、チベット各地に軍隊が配備されて戒厳令が敷かれ、四川省では警察によるチベット人の射殺にまで至りました。武器を持たない市民の平和的なデモにここまでする異常さ。
 ラサではそこに一般市民の参加が増え、暴動のような様相を呈していったのです。
 日本のニュースで繰り返し放映されたのはこの部分でした。しかも、袈裟を着た暴徒の姿がとりわけ印象的に映し出されています。こんなときはもうお人よしな僕らも騙されません。違和感のあるあれはやっぱり、当局が放ったニセモノの僧侶だったようです。

 この日の出来事から起草して、この項では中国共産党がチベットを侵略してから半世紀の間にどれだけのことをしたのかが冷静に記述されています。僕達のような平和に生きている(?)境遇では想像もできない殺戮と破壊が行なわれていたことがわかります。

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 この絵は、北インド、ダラムサラへ歩いて亡命した子供の絵です。7歳の少年です。子供達は約一ヶ月かけてヒマラヤを越え、ここに辿り着きました。国境で中国軍から発砲され、自分の前を歩いていた友達が足を撃ち抜かれたのです。
 子供達は服の下に小さな入れ物にはいった仏像を下げて歩いて来ました。チベットの家を出るときに両親が持たせてくれたのだそうです。思案の果てに最善の方法として我が子を危険な道程へ送り出さなければならない、今のチベットの親達ができる最大の庇護です。僕達にもヒマラヤを越える険しさを想像することはできます。7歳。小学校2年生です。

     ◇◆◇◆

 この本には、チベットにおける仏教の存在意義、創成期からの歴史、国家という概念、ダライ・ラマの思想と苦難、智慧と慈悲への祈り、そのほかいろいろな評論が掲載されています。知っておかなければならない情報や知識や概念が、いろいろな手法で記述されています。そのひとつひとつが誠実な筆致によって僕達に本当のことを届けてくれます。

 真言宗の立場で編集されたものなので仏教の本かと思うかもしれません。仏教の思想を記している部分も多く仏教用語もあちこちにあります。けれど、それは仏教の思想を伝えようとしているのではなく、仏教者の視点で、僕達が人間としての幸福を守るためにどういう考え方をしたら良いのか、というアイディアを伝えようとしているものです。

 チベットとチベットの問題、それが地球規模の問題であることを提起しながら、編集部のあとがきは俯瞰した視点でこの本の内容を読み替え、これからの可能性を示唆します。
 「慈悲の再生」
 慈悲という言葉に現代はとても鈍感になってしまったと思います。慈悲について正しく考えるということを僕達はして来ませんでした。世の中で起きている多くのことから慈悲が抜け落ちています。人の命が軽々しくやり取りされたり、他人の財布から掠め取るように利益を上げることが礼賛されたり、自分のことしか考えず、そこで何が起きているかを知ろうともしない。
 この社会からこれ以上慈悲が抜け落ちて行くのをなんとか食止めなければなりません。たとえ強大な悪意が厳然とそこにあっても。

 この本は当初関係者向けに発行されたものだったのですが、今後、一般書店でも販売されることになったようです。詳しい販売情報は今わかりませんが、是非、読んで欲しい一冊です。

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【Ngene掲載:2008年6月24日】

チベットの風ホームページ

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雪まつりを追いかけて新野をあるく

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 新野の郷はずいぶん高い、高い山を越えたところにあります。長野県の南端、阿南町新野。飯田市から南へ国道151号線を30分ほど走った阿南町の中心部から更に30分、つづら折りの急坂を登りきり、峠を越えたところに、ぽっかり忽然と出現する、やさしい空気の高原の郷です。周囲をぐるりと、薬研の縁のように滑らかな山で囲まれていて、なんだか守られているような安堵感を感じるのです。

 国道151号線、かつての遠州街道は「祭り街道」。ふもとの早稲田では「人形浄瑠璃」、深見の「祇園祭」、隣りの谷筋に入ると、日吉の「御鍬(おくわ)様のお練り行列」、和合の「念仏踊り」。遠山郷や奥三河地方、豊根村や東栄町、新城といった、神楽や薪能、田楽などの民俗芸能の伝承地へもほど近く、ここ新野は、天竜奥三河をめぐる「祭り街道」の中心地と言えるかもしれません。新野だけでも「行人様御開帳」「盆踊り」「霜月祭り」「雪まつり」、民俗芸能としての色彩も濃密な、神送りの系譜を継ぐ年中行事が季節ごとに行われています。

 柳田國男と並ぶ日本民俗学の開祖・折口信夫は「雪まつり」に惚れ込み、幾度となく新野を訪れたそうです。いわく「芸能を学ぶものは一見の必要あり」。初めて雪まつりを見たときに、厳然と祭の流儀を崩さない新野の人々の誇り高い情熱に触れ、すっかり魅了されてしまったということなのです。今でも、その雰囲気は祭の中にくっきりと継承されています。

 「雪まつり」。
 新野の南はずれの高台にある伊豆神社で、田楽、舞楽、神楽、猿楽、といった日本の歴史に特筆される民俗芸能が夜を徹して繰り広げられる、ものすごいお祭。

 本祭の日、祭の行列「お上り(おのぼり)」を追って新野の郷を歩いてみました。

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 「お上り」は、新野の北はずれにある諏訪神社から出発します。祭のための面、装束や道具を、雪まつりの舞台である伊豆神社まで運ぶための行列です。

 街道の東側に広がるなだらかな畑の斜面を、諏訪神社の参道がまっすぐ登っています。平地の端に林が並び、その背後に小高い里山がぐいっと盛り上がっています。
 ひときわこんもり繁る諏訪神社の森に、出発を待つ人々が並んでいます。

 内輪衆、氏子総代、市子(いちこ)と呼ばれる氏子の少女に先導された行列には、いろいろな装束をまとった大人や子供、弓、旗、真紅の陽傘、太鼓、そして、祭の道具を納めた「御輿」などを担いだ、いろいろな役割の人々が並びます。太鼓を背負った人から後ろ、行列の後ろ半分は、手に手に笛を持った四十人の子供たちが続きます。

 行列はゆっくりと出発。ゆったりと単調な太鼓の音に合わせて、風雅な笛の旋律が繰返されます。白い雪に被われた野辺を、楽の音とともに通り過ぎて行く行列は、なんとも幻想的。

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 総勢四十名の子供たちの笛の音は、みごと。みんな、各自の笛を持って、伝承されている旋律をしっかり奏でながら、歩いて行きます。新野では、学校で祭りの笛を習うのです。だから、みんな本当に馴れた指使いで、この節回しを奏でています。
 先頭の市子にはじまり、行列には、いろいろな年齢の子供たちが、それぞれの役どころで参加しています。誰でも良いわけではありません。行列に参加できるのは、概ね7歳から15歳まで。少しずつ役割があって、その仕来りに従って行列ができているのです。子供の人数が減少して継承が危ぶまれる祭があちこちにある中で、雪まつりに参加する子供がこれだけ多いのは、頼もしいかぎり。

 行列は、畑の中の道を進みます。沿道の家々は、門口に赤い提灯を掲げて行列を見送ります。このあたり、諏訪神社の周辺は大村という地区。諏訪神社の氏子の集落です。畑の間に家々が散在する牧歌的な風景。「お上り」の行列は、広々とした野辺を、ゆるり、ゆるりと南へ向かいます。

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 大村のはずれにある家の前で、やおら笛の音が陽気な旋律に変わりました。それまでゆったりしていたテンポも、にわかに早まります。
 この家は、かつて「お上り」の出発地点だったということです。おそらく、この大村集落の有力者だったのではないでしょうか。その当時は、祭の道具がこの家に納められていて、家の前でひとしきり舞を舞ってから出発していた、ということなのです。その習慣が形を変えて現在の仕来りになっているのです。ちゃんと昔の事を記憶の中に留めた仕来り。活きた文化ですね。

 行列を見送る、おばあちゃんとお孫さん。
 このお孫さんも、去年までは行列に加わっていたのです。きっと、幼い頃の市子に始まって、ずっと「お上り」に参加していたのでしょう。今年は高校生。「お上り」は卒業です。行列を見送りながら「一緒に行きたい」と、おばあちゃんや近所の人たちと話しています。
 おばあちゃんが手にしているのは、お浄めの水。塩水です。行列が近づくと、南天の葉でこの水を祓って、場を浄めるのです。

 白く雪の積もった野辺を、優雅な笛の音とともに、行列はゆっくり進みます。

 新野の郷には、野原や路傍のあちこちに無造作に、こぢんまりと、お墓があります。一カ所に集められて塀で囲われている墓地はありません。陽当たりの良い土手の上などに、当たりまえみたいに、すぐ近くに、ぽろぽろとお墓が立っているのです。お墓には、必ず新鮮な果物が供えてあったりします。なんだか、死者やご先祖さまとの距離も、心地よい。

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 大村を抜けた「お上り」の行列は、国道151号線「祭り街道」を南下します。ここから1時間半くらいかけて、南はずれにある伊豆神社まで行くのです。

 新野は、昭和中期に合併で阿南町が誕生するまで、旦開村(あさげむら)といいました。今は、新野の中心にある郵便局や数軒の商店などに、その名前を留めるのみ。この山間地の行政区画は、明治期から著しく変わってきています。その昔は、それぞれ里ごとに細かく分かれた小さな村だったようです。明治初期に、32あった小さな村が合併して富草村、大下条村、旦開村の3つに。その後の市町村制施行を経て昭和中期まで、何度も分立と合併を繰返した後に阿南町になった経緯があります。この山間地の特異な地形や里の広さ、分布がその要因となったのでしょうか。

 「お上り」を待ち受ける新野の中心街。原町、東町、本町、という3つの地区から成る商店街です。山深いこの場所に、これも忽如として現れた天空の街のような雰囲気。
 そしてここは、夏には盆踊りが行なわれる街路です。
 「新野の盆踊り」。
 盆踊りといっても、太鼓や三味線の賑やかな音頭を踊るものとは、ひと味違う。数名の音頭取りの唄と踊りが折り重なって、朝まで続く神事に近い祭りなのです。踊り手や観衆と音頭取りが掛合ったり、唄い合ったり、徹夜でいろいろな唄や踊りを繰り広げるのです。これもすごい祭りですね。

 さて、行列の到着時間が近づくと沿道の家々から、辻々から、人々が街道筋に出て来ます。家の軒下には、大きな赤い提灯。行列が近づいて、笛と太鼓の音が、かすかに街の奥から聴こえて来ます。だんだん陽は傾き、赤い提灯に、あかりがともり始めます。きれいです。

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 行列がやって来ました。沿道の家の人々が、てんでにお浄めの水を入れた桶や器を持って、リレーのように家から家へ、行列の先頭で水を祓います。みんなが南天の葉を使うのかと思ったら、そうでもありません。松の葉を使っている家もあります。南天は難を除ける。松には神が宿る。

 本町のはずれで商店街は終わり、「お上り」の行列は、南へ曲がって終点・伊豆神社の氏子の集落である砂田、栃洞(とちぼら)へ入って行きます。

 砂田の集落では、どの家も玄関口に鬼木(おにき、あるいは、にゅうぎ)という、独特の松飾りが設えてあります。薪を積み重ねた独特の松飾り。これは、新野だけに見られる小正月の松飾りです。ちなみに、正月は一般的な門松を立てます。その門松は、正月が終わると神社に集められて、雪まつりの松明に使われます。
 路傍の茂みに隠れた祠にも、鬼木が飾られています。いいですね、この祠。砂田集落に入るとすぐの道端にあります。

 雪まつりの舞台となる伊豆神社です。新野の南部、砂田集落の路地の中ほどに鳥居が立って、そこから、小高い山の中腹にある境内まで、急な石段、坂道の参道をひとしきり登って行きます。

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 行列が伊豆神社の入口に到着しました。諏訪神社を出発してからここまで、およそ2時間弱。長い行列の最後に、ひっくり返るくらい急な石段。みなさん、ものともせずに登って行きます。色とりどりの旗や道具が、蛇行しながら斜面を登って行きます。

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 伊豆神社の鬱蒼とした森の中の参道。こんなに急な階段、手ぶらで登るのでもずいぶん大変。みなさん、道具を担いで登るのです。大きく仰ぎ見た所に、境内の明かりが見えます。

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 参道の途中で振り返ったら、眼下に、とても幽玄な新野の郷の夕景。真っ白な冬景色なのに、なんだか、暖かい風景です。すぐ足下の集落が砂田、向こう側の山のふもとが栃洞。

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 行列の通り過ぎた砂田集落の玄関。「お上り」の行列が伊豆神社の境内に到達したころ、すっかり陽が落ちて暗くなった家々は、提灯に赤く照らされて、ひっそりと静まり返っています。雪まつりのクライマックスまで、しばし休憩です。

 さっき行列で賑わっていた街も、別の場所のように静かです。凍った路面に、街灯や提灯の明かりが反射してます。きれいな街並です。深夜、伊豆神社の境内に松明が灯るのを、次から次へと舞が繰り出される時間を、静かに待ち構えているみたいです。

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 そのころ、伊豆神社の境内では「神楽殿の儀」が行なわれていました。

 伊豆神社は、とても美しい神社です。急な階段を登り詰めたところに忽然と現れる境内。瀟洒な姿の本殿、長い高床の渡り廊下で繋がれた右翼に、この神楽殿があります。深い森の匂いが満ちています。そこかしこで焚火の煙。薪の燃える匂いというのは、ほんとにいいですね。

 神楽殿では、おじいちゃんから子供まで、笛と太鼓に合わせてかわるがわる踊り続けています。松明に火が放たれて祭りが賑やかになって行くまでの数時間、延々と静かに舞が繰返されます。
 舞の合間には、長老のおじいちゃんが、屋台からヤキトリを買い込んで、子供たちに振る舞います。いろいろな話をしながら、3世代に渡る智慧の交流が、この祭りの中で行なわれます。

 「雪まつり」。
 深夜午前1時に松明に火が放たれます。
 ここから先はとんでもなくすごい世界に入ります。
 別世界です。

 これについては、もっとしっかりしたレポートを、来年の雪まつりには実現したいものです。
 今回のレポートは新野の郷を紹介するに留め、この日、朝まで伊豆神社で過ごした戸塚基治さんの写真を数点お借りして「雪まつり」本祭りのほんの一部をお伝えします。

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「神楽殿の儀」「大松明起こし」「伽藍様の祭り」
「乱声(らんじょう)」「幸法(さいほう)」「茂登喜(もどき)」「競馬(きょうまん)」
「翁」「松影」「正直翁」「海道下り」「神婆(かんば)」
「天狗」「八幡」「しずめ」「鍛冶」「田遊び」
 ……雪まつりの次第。
 ものすごく楽しそうです。

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写真:宮内俊宏、戸塚基治 文:宮内俊宏

【Ngene掲載:2009年1月29日】

阿南町ホームページ「新野の雪まつり」
戸塚基治さんホームページ「与話情浮世蜻蛉」

「事の神送り」を追いかける(その1)

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 古来伝承する民俗芸能の宝庫・南信州。阿南町周辺で行なわれる四季折々の祭り、天龍村や遠山郷の霜月神楽、そして大鹿歌舞伎など、既に有名になっている民俗行事を筆頭に、国指定あるいは選択の無形文化財だけでも10以上を数えます。さらに県や市町村の文化財から無名のものまでを含めると、本当に数えきれないほどの魅力的な民俗行事が山深いこの地域に潜んでいるのです。

 「事の神送り」はまだあまり知られていない行事です。ホームページで検索してみてもほとんど記述が見当たらない。けれどこの行事は、南信州、秋葉街道を中心とする山間地域の歴史や習俗を伝えるとても魅力的で重要な行事なのです。
 「事の神送り」一連の行事が行なわれているのは、飯田市上久堅を中心に、千代、龍江、そして喬木村といったきわめて限られた隣接地域。日本の各地でさまざまな風習が伝えられているコトヨウカ行事(事八日行事:12月と2月の8日に疫神が去来するという言伝えにまつわる行事)のひとつになるわけですが、その中でも、この地域では特に個性的で濃密な流儀によって伝承されています。

 南信州の伝承文化を個性的な地域づくりのために振興しようと昨年2008年の4月から飯田市を拠点に始まった「フォーラム南信州~祭りの流儀~」が、今年2月の行事に合わせて「事の神送りを追いかける」というプログラムを敢行しました。
 飯田市美術博物館・桜井弘人氏の調査チームを除いては部外者が踏み入ったことのない未知の行事「事の神送り」。その行事に、地元・飯田市周辺はもとより、南は静岡県磐田市、浜松市、北は岡谷市から、伝承芸能や文化、地域政策についての認識を持った20名ほどが集まりました。プログラムの参加者は2月7日から9日にかけての3日間、上久堅越久保(こいくぼ)、そして千代芋平(いもだいら)から北上して喬木村との北境まで、祭列を追って歩き回ったのです。
 ものすごく面白い、楽しくて考えさせられる3日間でした。

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 上久堅は南信、伊那谷南部の竜東(りゅうとう)と呼ばれる、つまり天竜川の東側にある中山間地にある地域です。地域の平均標高およそ750メートル、伊那山脈の西向きの斜面に広がった南北に長い机状の高地です。はるか眼下に箱庭のように見える飯田の市街地。天竜川対岸に連なる2,000メートル級の木曽山脈を眼の高さに眺め、広々とした空が間近に見え、夜は零れるような星空が天蓋となる天空の里です。

2月7日、上久堅越久保(こいくぼ)

 風張(かざはり)という上久堅の中心部から東へ、秋葉路に沿って伊那山脈の山裾を登り始めるあたりが越久保です。上久堅の中でもひときわ見晴らしの良い高台にあります。ここを通る秋葉路は小川路峠を越えて遠山郷の上村、秋葉街道の本線へ抜ける山道。かつての越久保は秋葉路を往来する荷物輸送のための馬宿が並び、遠山郷と伊那谷の間で行なわれる生活物資の仲買によって潤っていた地区です。

 秋葉路沿いのひときわ飛び出した高台の突端に「越久保センター」があります。「事念仏」「風の神送り」のホームになる場所。越久保地区の集会所で、宿泊研修施設の機能も兼ね備えています。広々とした2階建て、屋根裏に天体望遠鏡、木をふんだんに使ったとても居心地の良い家屋です。2階の和室からは伊那谷の大パノラマを一望できる。フォーラム南信州「事の神送りを追いかける」チームはここに一泊して、7日の夕方から8日の朝にかけて行なわれる越久保の「事念仏」と「風の神送り」を見学するのです。

 7日の夕方。
 越久保センターに子供たちが集まって来ています。「事念仏」の準備が進みます。

 越久保の「事の行事」はこの地域の中でも更に特殊で、「事念仏」も、翌早朝の「風の神送り」も、現在でも完全に子供たちだけで執り行なわれています。それも8歳から13歳の子供たち。13歳の最年長者が「頭取(とうどり)」となり、同年、一年下くらいの子がそれを補佐。年少者を統率しながら、みんなで話し合いながら、その年の祭りを進めます。
 大人たちはそれぞれの家の門口や集会所・越久保センターで静かにそれを見守ります。基本的に大人は誰も祭列に随行せず、口出しも一切しません。

 夕方4時。
 越久保センターの広い庭の一隅で太鼓と鉦の音が鳴り始めました。
 「事念仏」のはじまりです。

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 太鼓を背負うのが「頭取」。祭列を仕切ります。同年、一学年下のうちの2人が頭取の背負う太鼓を叩き、もうひとりが鉦を叩きます。それ以外の子供たちが越久保センターの敷地をグルグルと走り始めました。みんなで念仏を唱えながら、何周も回ります。

 「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨、南無阿弥陀仏(ナンマイダー)、ナンマイダー」。

 太鼓と鉦に合わせた一定律で念仏を唱えながら7周走り、いよいよ「事念仏」の祭列が出発。まずは、越久保センター脇のお堂にお参りします。

 この地域の集会所はどこも、元はお堂でした。越久保センターのお堂は愛宕様。今はとても見晴らしの良い段丘の突端に祠となって祀られています。周囲は畑。いくつかの墓標が南や西を向いた暖かそうな斜面に、伊那谷の風景を見晴るかすように立っています。居心地良さそうです。

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 「事念仏」は子供たちが集落を廻って人家や神様が祀られている場所で念仏を唱える行事です。先頭を行く「頭取」が背負っているのは獅子舞に使う大太鼓。けっこう重い。その後ろを、年少者たちが続いて念仏を唱えて廻ります。
 随分早足で進みます。急な坂道の多い越久保の複雑に折り重なった段丘を縫うように、子供たちは足早に元気に家から家へ、神社や祠へ、集落の中を順番に回って行きます。

 家々の玄関口や神仏の前に並ぶと、頭取の「今日事を申します(こんにちこ~とをもうします)」という口上に続いて念仏を唱えます。何回か念仏を繰返した後、頭取は「神様はいらっしゃいますか?」と家の人に訊ねます。ある家は家の中に神棚があったり、ある家は庭先にお地蔵様があったり、あちこちにいろいろな神様が祀られているので、子供たちはひとつひとつ、玄関先から神様の方を向いて神様の名前を呼びかけ、口上を述べてから念仏を唱えます。

 一連の念仏は、頭取の先導、太鼓と鉦に合わせてリズミカルに進みます。念仏が終わると「会計」の子が家の人から「オダチン」を受け取ります。そして「お宝」といわれる五色の幣束を頭取の背負う太鼓に挿してもらって次の場所へ向かうのです。
 早足で向かいます。
 「だいぶ足はやい、追いつくのがやっとだ(汗)」と音を上げていると、「まだたくさん回らんならんもんで、早くしんと夜中になっちゃう」と言う。

 子供たちは元気です。急な坂道をものともせずに駆け上がります。みんな素直でのびのびしています。頭取の言うことをよく聞き分け、みんなで真剣に話し合います。

 越久保の起伏に富んだ野辺には、あちこちに神様がいます。古い道祖神やお地蔵様、路傍の石、桜の古木。大切に守られて来た神社があり、鬱蒼とした鎮守の森があります。秋葉路の先、権現山の方から流れて来る川のせせらぎと風の音しかない静かな谷間に、太鼓と鉦と元気な子供たちの念仏が響きます。あっちへ、こっちへ、事念仏の気配が渡って行きます。

 坂道を一番底まで下った集落のはずれ、最後の家で念仏を終えた子供たちは集落の内側を向いて横一列に並びます。ここから坂の上の次の順路まで念仏を唱えながら一気に駆け上がるのです。絶対に振り向いてはいけません。事の行事は全体的に後ろを振り向いてはいけないことになっているのですが、村はずれから内へ戻って行くときは特に厳重で、ひとりでも、少しでも振り向いた者がいると、後ろ向きのままスタート地点まで戻って最初からやりなおしになるのです。
 坂の頂上まで戻ると、横一列に並んで頭取の到着を待ちます。
 「うら向いたやつはいないか?」頭取の厳しい詰問が飛びます。
 もじもじしていた小さな男の子が、ほどなく「向いた」と白状します。
 全員坂の下まで逆戻りです。

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 今年の「会計」の女の子です。なかなかしっかりしたかんじの女の子です。手にしている帳面に各戸から渡されたオダチンの金額が記入されています。
 越久保の事念仏は完全に子供たちだけで進められます。途中で何か問題が持ち上がると、その都度、村の辻々で頭取を中心に話し合いが始まります。みんなで話します。
 下級生たちが次の運びに行けるまで、頭取は腕組みしたままじっと待ってたりすることもあります。当然、その年の頭取によってやり方が違うのですね。周りで見守っている大人たちの話では、今年の頭取は随分厳しいらしいです。なかなか頼もしい少年です。

 日暮れころ、頭取の少年の家で、事の行事の儀礼食「コトウボタモチ」が振る舞われます。その年の頭取を務める子供の家で祭列をもてなす習わしなのです。
 西の山の端に太陽が沈むと、越久保の里はどんどん暗くなって行きます。頭取が「一番星見つけたやつには褒美をやる」と。だいぶ歩き疲れて来た子供たちがにわかに元気づきます。

 日が沈むと、念仏を導く頭取の口上は「今晩事を申します(こんばんこ~とをもうします)」に変わります。

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 夜。
 月明かりに浮かぶ越久保・天空の里の風景です。神様がそこかしこに里を見守る、美しい夜です。
 事念仏の子供たちは一旦越久保センターに帰って夕食です。お母さんたちが「コトウボタモチ」や豚汁を用意して待ってくれています。しばし休憩。

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 越久保センターの夕食です。
 ここに一晩宿泊するフォーラム南信州の参加者のために上久堅のご婦人方が美味しい夕食を用意してくれました。もちろん御務め中の子供たちと同じ「コトウボタモチ」が中心の祭りの食事です。ボタモチはとても嬉しい、黒胡麻、黄粉、青豆粉、小豆餡、4つの味です。
 上久堅のご婦人方はとても気前が良くて料理上手。ショウガの利いた具沢山の豚汁が大鍋いっぱい。なんとも美味しくて4杯!おかわり。緑色のお茶の粉をまぶした大豆、御葉漬け、上久堅の露地で採れた野菜や郷土食がテーブルいっぱい。

 越久保センター。
 また泊まりに行きたいものです。

 そして、食事を終えた子供たちはふたたび夜の里へ歩きだします。少ししめった夜風の向こうへ、太鼓と鉦と念仏の声が続いて行きます。念仏が通る家の庭先で犬が遠吠え。
 満月のあかり、明るい夜空に負けない満点の星、遠くに飯田市街地の明かりが宝石箱のように、銀河のように帯なしています。
 神秘的な空気が流れる天空の里で、古来の流儀を濃密に残した行事を守り続ける人々。

 「事念仏」。とても面白い行事です。

 あらゆる部分で窮屈になっている日本の社会で、夜遅くまで子供たちだけで運営されるこのような行事はあまり見ることがありません。子供たちはのびのびと気持ちを通じ合わせ、男の子も女の子も、上級生も下級生も、それぞれの立場を理解しながら自由に交わっています。

 たとえば仲間にちょっとした問題児がいても、この行事の中でその子の居場所は自然に用意されています。その子が少し規律から逸脱しても殊更に追求せず、誰も爪弾きにせず、自然に受け流しながら、その子が再び合流できるときには自然に仲間に入れるのです。完全に規律を破ったときはわかりませんが、適度に緩く、仲間の関係性は保たれています。
 
 自分たちで自律して、行事の仕来りを守りながら皆でひとつのことを成し遂げる。その労に対して「オダチン」という対価が支払われ、それは全部集められ、頭取によって全員に平等に分配される。ここではまだお金の感性が守られているように感じます。

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不思議できれいな夜景をバックに事念仏の記念撮影

 さて、越久保センターで一夜を明かし、8日はいよいよあちこちの神送りを追いかけます。この地域が辿って来た歴史、地理的要因を踏まえながら、魅力的な智慧の結晶である文化をどう活かし、人々の豊かな生活に繋げて行くことができるか。神送りの道すがら、考えます。

 続きは(その2)で。

 ~つづく~
【Ngene掲載:2009年2月13日】
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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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