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「事の神送り」を追いかける(その4)

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 千代北部の小さな集落・芋平から北上、上久堅の各集落を駅伝のように繋いで行く「事の神送り」。
 2月8日を中心とする3日間に複数の集落が連携して開催する行事なのですが、けして行事全体がまとまりを持って行なわれているわけではありません。基本的に、それぞれの集落ごとにばらばらに営まれる行事なのです。
 たとえば、芋平で行なわれる祭りの準備を他の集落の人々が観に行くことはありません。芋平の人々が、自分たちの作ったカミサマやミコシの顛末を追って上久堅の野辺を歩くこともありません。どの集落も、南隣りの集落が置いて行ったカミサマたちを拾って北隣りの集落まで送る。集落境にカミサマたちを置いたら、けして後ろを振り向かないで家に帰る。そんなふうにてんでばらばらに行なわれる行事なのです。けれどそれは、自分たちのことだけ考えていたのでは絶対に成り立たない行事でもあるのです。

 2月8日、朝11時に芋平を出発した「事の神送り」、午後2時前に蛇沼と平栗の境・細久屋峠に到着(※参照)

 午後2時、峠道の端で小休止していたカミサマたちを平栗の人々が拾いに来ました。
 峠から長い坂道を平栗の里へ向かって下りて行きます。

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 平栗は郵便局もあったり、比較的多くの家が集まった集落。里へ下りると、待ち構えていた近所の人々が次々とミコシをくぐりに来ます。くぐっておくと病気をしない、という縁起ものなのです。

 平栗でも、戦前は子供たちが主体になってこの行事を行なっていたようです。男女、年齢も関係なく、みんなが集まる祭りだったようです。やがて子供たちが学校のために参加できなくなり、大人たちだけで行なわれる行事になってしまったとのこと。この日は日曜日でしたが、あまり子供の姿はありません。
 平栗が神送りをするのがおよそ午後2時から。ひとつ前の蛇沼もそうでしたが、学校に行く時間帯に差し掛かる集落では、子供がこの行事に参加する習慣自体が減衰して行ってしまったのかもしれません。

 上久堅、天空の里です。
 峠を越えるたびに木曽山脈の壮大な光景が飛び込んで来ます。気持ちのよい風景です。春先、鶯が鳴き始める頃にこのコースを歩いてみたら、かなり気持ち良さそうです。

 平栗の北隣りは落倉(おとしぐら)。集落境ではもう落倉の人たちが待ち構えていました。なので、ここでは道端に置いて去るのではなく、落倉の人々に渡します。
 和気あいあい、平栗の人々と挨拶しながらカミサマたちを受取った落倉の人々、既にみなさん揃っていたらしく、そのまま出発です。予定よりだいぶ早い出発ですが。

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 落倉でもかつては子供たちの行事で、学校からみんなが帰って来るのを待って出発したそうです。「カゼガミオクリ」と呼ばれ、一番風邪が流行る時期なので風邪除けの行事と言われていたらしい。
 今日も大勢の人が参加していますが、子供たちの姿はちらほら。あ、ワンちゃんを連れて参加している方もいます。こういうの、いいですね。ワンちゃんも、振り向いてはいけません。

 祭列が進むうちに送り竹はどんどん増えて行きます。途中の各集落で祭列の参加者が持寄るのはもちろん、途上の道端に出されている送り竹は漏れなく拾って行かなければなりません。

 落倉も平栗と同じく沿線に住宅の多い地区。地形は比較的平坦だったりします。地図を見ると、芋平から富田境までのちょうど途半ばくらい。祭列は淡々と進みます。

 「事の神送り」のコースは、南の端から北の端まで全線くねくねと曲がりくねっています。もともと丘陵や沢、尾根や等高線に沿って、起伏の多い地形の中に自然にできた道なのではないかと思います。ロング・アンド・ワインディングロードです。
 集落を抜けると畑や野原が続き、峠道は突き抜けるような見晴らしの良さ。爽快です。途方に暮れるような難所もなく、適度な斜度のアップ・アンド・ダウン。てくてく一歩一歩あるいて行くのが気持ちのよい道程です。

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 上久堅の風景には特徴があります。土の色は明るく、複雑な起伏に美しい曲線を描く土手、畑や田んぼが畝を重ね、ひとかたまりずつ群生する林、斜面のリンゴ畑、路傍や丘の上には間近にお墓やお地蔵様、石碑や石像の一群、遠景に青い山脈が見えて空が近い。

 もともと上久堅周辺の地質は風化した花崗岩だそうです。そのため、昔の上久堅は地滑りが起きやすく、貧栄養土壌で植物、作物が生育しにくい土地、戦前まで周辺の丘や山には木が生えていなかったということなのです。
 そんな土地も、戦後、植林が行なわれるようになり様相は変わりました。民主化の一環として進められた農地改革も要因になっているかもしれません。人々の努力によって植林が進み、現在のように森や林が増え、もともとある地形を利用しながら土手が築かれ、水路が引かれ、農耕のための土地が広がって行ったのです。土手は崩壊を防ぐ丈の長い草に被われました。上久堅の風景の特徴、林の様子、土手の形状や色彩などは、そんな先人たちの知恵が素因になっているのですね、きっと。厳しい環境条件を克服して来た美しさです。こういう営みの積み重ねを本来は文化と呼びます。

 「事の神送り」は落倉と小野子(おのこ)の集落境に到着。「中沢橋」というバス停の標識が立っている土手にカミサマたちを置きます。送り竹はずいぶん増えました。残りの道程、大変そうです。

 祭列を終えた落倉のみんさんは、ミコシをくぐったり、久しぶりに出会った人と挨拶をしたり、いつもの井戸端会議だったり、ひとしきり集ってから三々五々、ばらばらと帰途に着きました。
 けして後ろを振り向いては……あれ?、いや、なんか、そうでもなさそうです。
 後で聞いたところによると、落倉では特に振り向くなという言伝えはないらしいのですが。

 ともあれ、落倉の「事の神送り」は予定よりずいぶん早い時間に終わってしまいました。次は8日の最終区間、小野子ですが、小野子の人々が集まってくるまでにはまだ暫く間があります。フォーラム南信州の参加者は、伴走してくれている飯田市のマイクロバスに乗ってしばらく休憩。だいぶ歩き疲れて来ていたので嬉しい休憩です。

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 こんな風情のある土手の景色を眺めながら休憩です。
 野原にぽつんと立っている桜の古木と、ほどよい距離で佇む墓石。
 品の良い美しさですね。
 春、桜の咲く頃には黒澤明の「夢」のような世界になるにちがいありません。

 マイクロバスが停まっている道沿いの家のご婦人が、暖かい焙じ茶のいっぱい入ったポットと切り分けたリンゴをたくさん差し入れてくれました。紙コップまで一緒に。突然のことです。誰が頼んだわけでもなく、様子を察してこういうことをしてくれるのです。こんなにたくさんのリンゴを皮をむいて切り分けて。暖かい心、ものすごく嬉しいおもてなしです。

 ◆◇◆

 さて、事前に調べていた時間からさらにもう少し待って、小野子の人々が集まり始めました。どうやら、子供たちが学校から帰って来るのを待っていたようです。

 そういうわけで、この区間の主力は子供たちです。先頭の幣束、大旗、ミコシを担ぐのも全員子供。どうやら、鉦を叩いているのも女の子です。大人たちも大勢参加して、8日の「事の神送り」最終区間は賑やかに進みます。
 昨日から感じていることなのですが、子供たちが先頭に立つと祭列のスピードが上がります。大人の場合は、太鼓と鉦に合わせて「たらん…、たらん…、」というテンポで進むのですが、子供のペースだとさっさと進みます。神送りの歌や念仏のテンポも大人と子供ではだいぶ違います。

 そして、絶景の最終コーナー、長い坂道を下り終わって「事の神送り」は8日の終着地点に到着。長い長い一日の神送りが終了です。
 明日の午後、堂平(どうだいら)の人々が拾いに来るまで、カミサマたちは坂の下の路傍で一晩お休みするのです。カミサマたちが置かれているのは背後から夕陽のあたる林の一隅、東向きの土手です。朝陽が最初に当たります。なかなか寝心地の良さそうな所です。
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 この日の行事はこれで終了。
 フォーラム南信州の参加者も今夜は一旦家に帰ります。
 この週末、随分長い距離を歩きました。足首がへとへとです。

 ◆◇◆

 翌9日は午後3時、堂平(どうだいら)の「事の神送り」から始まります。
 堂平というのは、上久堅の中心・風張(かざはり)の南隣り、戦国時代にこの地を治めた知久頼元(ちくよりもと)の居城・神之峰(かんのみね)の東麓一帯で、全体的に周辺の地区より低い土地、少し深い窪地になっているところです。

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 なので、小野子から堂平に向かってはずっと緩やかな坂を下ります。
 堂平では子供が参加していません。月曜日に当たったという事情もあると思いますが、祭列に参加したお年寄りの話では、堂平では子供がとても少なくなってしまっているということなのです。しかも、地区の人々が総出で行事を行なっているのではなく、一年おきに東の地区と西の地区で分担しているということなのです。世帯数が少なく、みなさんご高齢の地区のようなのですが、やはり、毎年行事を行なうのは大変なことかもしれません。

 上久堅小学校の児童数は現在52名。この地域の人口流出はかなり深刻のようです。人口の流動は、時代によって、社会の趨勢に従って、いろいろなかたちで推移するものだと思います。その時代、社会が持ちえた技術や知識によって、人々の住む場所は、いろいろな場所に移動して来ました。
 21世紀、人類は、いろいろなことを解決する能力を身につけて来ています。この時代に生むことのできる新しいアイディアで、いろいろな地域のことを考えて行ったら、人が生きて文化を重ねて来た経緯のある場所であれば、必ず楽しく活きて行く方法があるはずなのです。そのときに一番大切なものが個性。地域の個性、地域の存在意義だと思います。

 堂平の中央部を過ぎると、道は上り坂に転じ、最後の急坂を登りきったところが、終着点。風張にある上久堅の自治振興センターです。センター前の田んぼの端に、大旗や送り竹を突き刺しておきます。送り竹の量がかなり多くなっています。相当重いはずです。この後が大変そうです。

 ◆◇◆

 「事の神送り」。
 楽しくて、いろいろな観点で興味深い行事です。歴史や習俗、社会的な意義を複雑に、濃密に、内包しています。上久堅という、けして平易ではない自然環境、社会環境の中で暮らしてきた人々。この人々の労苦や知恵の蓄積こそが、この地域を前進させるエネルギーになるはずなのです。そればかりか、劣化の一途をたどる日本の社会から、次々に脱落して行く、誇りや精神性、全体性を回復させるヒントが、ここから発見されるかもしれません。大切な祭りです。

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 夕方、背後の丘の上にある小学校から子供たちが下りて来ます。下校時間です。
 やがて、家にランドセルを置いた子供たち、風張、上平の人々がここへ集まります。

 「事の神送り」最後の区間が出発します。
 ここは子供たちが主力のようです。先頭に女の子たちが5人、市子(いちこ)みたいないいかんじの存在感です。後ろにミコシを担ぐ男の子、太鼓と鉦は上級生、その後ろにも中学生くらいの子供たちが続き、後ろ半分が送り竹を持った大人たち。もうここまで来ると送り竹も相当な量です。ひとり数本ずつがんばって、それでも抱えきれない分は軽トラックの荷台に載せて運ぶようです。

 夕暮れ近く、冬枯れの上久堅の独特な風景の中を祭列が進みます。
 風張の高台から上平(かみだいら)に下りて玉川寺の前を北の方へ進みます。
 風情のある道です。
 ……夏に提灯を持った行列があったらものすごく幽玄で美しいかも。涼しい風と蛙の声と提灯のあかり、念仏の音。

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 これも上久堅独特の風景です。
 井土手(いどて)。
 水源の遠い上久堅の耕作地に水を引くために作られた水路です。等高線のようなカーブを描いてゆっくりと畑の上を流れ、土手の向こうへ回り込んで行きます。
 昔の人が膨大な労苦をかけて構築した水路。農耕という実用のために作られたものですが、そこにある地形とちゃんと感性で対話しながら造られているので、その造形はとても美しいのです。のべつまくなしに穴を掘って切り崩してズドンと道を通しちゃうような美的水準の低い現代の建造物とはわけが違います。
 今は治水が進んでこの水路の重要性は低くなっているそうですが、これは是非残して行って欲しい風雅な景色です。ところどころに水車が回ってたりなんかしたらものすごく詩的ですね。
 ……けど、いるんだよね、いまだに。「こんなもの邪魔だ!」って言ってぶっつぶしちゃう低能な輩。

 夕闇が濃くなって来ました。
 いよいよ最後の場面が近づいて来ます。柏原(かしゃばら)の通りに出た所で他の神送りの行列と合流。野池から出発した西回りの「事の神送り」でしょうか。あるいは、中宮から来た神送りか。この道をまっすぐ進むと、その先がいよいよ最後に祭列のすべての道具を捨てる富田境です。
 柏原の集落、原平(はらだいら)の集会所の阿弥陀堂前では鉦や太鼓を持った子供たちが集合しています。神送りのコース上最終集落の原平では、ほかの神送りが通るのを見届けたところで念仏を唱えて出発するそうです。クライマックスに向かっていろいろな神送りが集結しつつある、わくわくする雰囲気です。

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 住宅街を抜けて最後の坂を上りきったところに「山本勘助物見の松」という名所があります。喬木村富田との境にある峠道の脇にあります。
 知久氏攻略の武田軍は策謀家・山本勘助に率いられて喬木村富田から柏原に侵入したのですが、そのときに勘助がここの一本松によじ登って南正面に見える神之峰の様子を遠望したといういわくの場所。
 この「勘助物見の松」の先に、延々と送って来た「事の神」を捨てる谷間・北の原があるのです。

 ◆◇◆

 そして、いよいよ再終幕。

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 それぞれの組ごとに子供たちが念仏を唱え、大旗、幣束、ミコシや送り竹を谷間に投げ捨てます。芋平で作られたあの愛嬌のあるカミサマたちもミコシごと谷底へ転げ落ちます。その後、整列して更に何回か念仏を唱え、鉦を叩いて来たバチも投げ捨てます。すべて捨てます。

 芋平から始まって、蛇沼、平栗、落倉、小野子、堂平、風張、上平と送られて来た東廻り。野池から始まって、田力、荻坪、大屋敷、尾科、下平の西回り。そして、原平と中宮の神送り。4つの組が代わる代わる念仏を済ませるころには、あたりはすっかり暗くなっています。少し暮れ残っていた夕空も、もう完全に夜の闇。
 そして、すべての仕来りが終わったところで、無言のまま、最後の祭列に参加した人たちは一斉に峠を越えて上久堅へ帰って行きます。

 絶対に後ろを振り向かないように。

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 ずいぶん長いレポートになってしまいました。
 けれど、この濃密な文化を宿した天空の里の個性・「事の神送り」を、とにかく一度全部書き出しておきたいと思いました。

 文中で何度も触れましたが、民俗学的に、社会的にこれだけいろいろな素因を豊富に含んだ祭りは特筆に値するものだと思います。おそらく何らかの無形文化財として採択されていてもおかしくはない価値の高いものなのです。

 数年前、この行事の徹底的な調査を敢行した飯田市美術博物館の桜井弘人さんを中心に文化財として推薦する動きがあったようですが、当事者・上久堅のみなさんがそれを望まず実現しなかった経緯があります。
 けれど、行事を執り行なう子供たちの真剣さ、古来の独自な流儀を誇りを持って受け継ごうとしている、それを年中の生活の中で活かそうとしている小さな集落の人々の熱意は、何らかの方法で日本の社会の記憶にしっかりと記しておくべきだと思います。

 ほかにもたくさんあろう未だ見ぬ尊い文化もふくめて。

 ~おわり~
【Ngene掲載:2009年2月16日】

「事の神送り」を追いかける(その3)はこちら

「夜ごとに神々の集う」~霜月の遠山郷を訪ねました~

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 霜月・12月の遠山郷には、日本全国(いや、世界?)のあちらこちらから、八百万の神々が集まって来ます。特に中旬、12月10日から16日の一週間は毎日毎晩、この谷のどこかで、湯立神楽が行なわれるのです。なんだか、神様たちのゴールデンウィーク!みたいな賑やかさ。
 その10日夜、木沢の正八幡神社で本祭が行なわれる夜に、遠山郷を訪ねてみました。北から入って、木沢まで、一つひとつの集落を巡り歩いてみると、この谷では、本当に、そこかしこで神を感じます。神、つまり自然の摂理と一体になって、寄り添うように生きてきた谷。自然と、万象と、すべてのものごとと一体になった人間の社会が、かつての日本にはあったことを、この谷間の里ではとてもリアルに感じます。

 遠山郷は長野県の最南端、南アルプスの傍ら、フォッサマグナ・中央構造線の真上を南北に走る深い谷間の里です。谷底を流れる清流・遠山川に沿って谷間を往く秋葉街道は、秋葉信仰以前、秋葉という名前が冠されるよりずっと前からの街道。先史時代からの古道です。遠州の塩を信州にもたらし、諏訪の黒曜石を東海道まで運ぶ、重要な経済の道だったのですが、それと同時に、管理された東海道を避けて通る人々、国家からの逃亡者、旅芸人などが盛んに往来した、信仰、神事や芸能の道でもあったのです。

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 12月10日。よく晴れた、月あかりの明るい夜でした。時折、遠山川から立ちのぼる霧が、山肌を駆け上がり、雲に変わって稜線を流れて行きます。中空に、まんまるい月。満天の星は、月明かりの中でもきれいに見えます。遠山川の流れが滔々と谷間に響き、遠くで鹿の鳴き声。かすかに神楽の太鼓が聴こえるような気がします。
 川霧が立って、谷間の奥に溜まると、山襞に沿って上がって行く。静かに動く墨絵のような情景が、月明かりで荘厳に照らし出されます。霧の向こうから、神楽の音に乗って、神様の行列が現れて来そうです。なんだか「千と千尋の神隠し」の冒頭シーンに現れる神様満員御礼の舟が、谷の奥から出て来そうな。映画「千と千尋の神隠し」は、遠山の霜月祭に強く影響を受けたということですが、確かに、この谷間の風景や空気の中には、神を感じる何かがあります。

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 遠山郷は、北から「上村」「木沢」「和田」の3つの地区に分かれます。北から遠山郷に入ると、まず上村の「程野」という部落があります。矢筈トンネルを抜け、曲がりくねった山道を下ったところに、最初に現れる集落。ここでは、秋葉街道のすぐ脇にある程野正八幡神社が、霜月神楽の舞台。この週・霜月ゴールデンウィークの半ば、12月14日に本祭が行なわれます。

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 月明かりに浮かぶ程野正八幡神社。
 神社の側にある集会場に、なにやら大勢の人が集まっていて、中から笛や太鼓の音が漏れて来ています。本祭りは4日後。神社の境内はまだ何も用意されていませんが、早くも祭の雰囲気が流れてきます。
 程野から秋葉街道を南下すると「中郷」。この部落の霜月祭も正八幡神社で行なわれます。遠山川西岸の斜面を少し上がって行った、お茶畑の真ん中にある、こぢんまりした林に囲まれた神社です。中郷の本祭は少し早く、12月6日に終わっていて、集落は、しんと静まり返っていましたが、月明かりに浮かぶ茶畑の中の神社は、それはそれは美しいものでした。ちょっと暗すぎて写真にできなかったのが残念。

 このあたりから西の山中へ上がって行ったところに「下栗」があります。「赤石銘茶」の産地である遠山の中でも、もっとも茶畑が多い地区です。そして、茶畑で桶を転がすと谷底まで拾いに行かなければならない、と表現される急斜面が、下栗の景観的な特徴。急斜面に畝を打った茶畑と集落、つづら折りの山道、手の届きそうな眼前に広がる南アルプスのパノラマは、「日本のチロル」と呼ばれる絶景。いや、特にスイスに準えなくても、かなり感動的な息をのむ絶景です。
 その下栗では、程野の前日、12月13日に、拾五社大明神で本祭が行なわれます。拾五社大明神は、ものすごい急斜面の中腹にある神社で、竈の形状も式次第も独特、面の数も他の神社の倍近く登場するお祭りなのです。一度は行きたい下栗の本祭。

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 そして、上村地区の中心地は「上町」です。中郷からさらに下った上村の南部にあります。
 この上町正八幡神社では、12月11日に本祭が行なわれます。訪れた10日の夜は宵祭り。神社の境内には明々と灯がともり、人々が集まって社殿の中で本祭の準備をしたり、宵祭りの行事を進めています。宵祭りというのは初めて目にしましたが、随分と静かに進むのですね。

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 遠山郷の中でも、この上村は、もっとも霜月祭の継承に力を入れています。上村中学校の文化祭「しゃくなげ祭」では、上町、程野、下栗、中郷、各部落の生徒たちによる「郷土の舞」が毎年披露されていて、祭を受け継ごうとする生徒たちの、強い意欲が引き継がれています。休みを利用して練習を重ねたり、地区の古老に、かつての祭の話を聞きに行ったり、その真剣な姿勢は、凛々しくもあり、楽しそうでもあり、とても魅力的。最近は、本祭でも中学生の舞が披露されるまでに、発展しています。この晩の宵祭にも、中学生が大人に交じって参加していました。残念なことに、今年度いっぱいで上村中学校は廃校になるのですが、30年以上続けられて来たこの有意義な活動は、来年度から遠山中学校に統合されても、また別のかたちで継承されて行くはずです。(「遠山郷・上村中学校のこと」参照

 さて、上村からひとしきり南へ走ると木沢地区に入ります。現在、木沢では、概ね4つの神社で霜月祭が行なわれています。
 まずは、上村との境にある、八日市場と中立、隣接する2部落、八日市場の日月神社と中立の稲荷神社で一年交互に、いわば霜月祭の幕開けとなる12月1日に、本祭が行なわれています。いずれも街道をはずれた山中にあって、鬱蒼とした森に抱かれた、素朴な佇まいの神社です。
 そして、その南隣りの「上島」の白山神社で12月6日、いちばん南の「小道木」にある熊野神社で12月7日、それぞれ本祭が開催されます。ここにある白山神社と熊野神社は、どちらも、普通の神社の雰囲気とは明らかに違います。鳥居があって、石段があって、神を祀る社殿がある、という造りのものではなく、むしろ里の人々が集って籠るための場所といった風情。いわば、神社の原型に近い形なのではないでしょうか。とてもプリミティヴなエネルギーを溜め込んだ場所です。

 そしてこの日、12月10日の最終目的地がここ、木沢地区の中心地である木沢正八幡神社です。

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木沢正八幡神社の霜月祭の様子は「霜月まつり」参照

 霜月祭は、その地区や部落によって、神社によって、それぞれ独自の流儀で行なわれます。舞のかたちも、笛の旋律や太鼓のリズムも、式次第も、霜月神楽という大同の下、それぞれみんな違った形を有しています。面や神様もいろいろで、すべての霜月祭を見ないと、八百万の神様たちのことはわかって来ない。その神々との関わりは、とても豊かで面白く、この谷間の里の個性的な景観、エネルギーの高い山岳地帯特有の雰囲気と相まって、近代以降の驕り昂った世界観を凌駕する価値、魅力を感じるのです。自然と人間との間にある、自由で誇り高い存在理由。戦後の日本の社会が失ってしまった大切な存在理由が、この谷間の祭にはあるのです。

 さて、遠山郷の最南部の地区は、「和田」。ここは遠山郷でいちばん栄えた宿場街であり、この地の豪族・遠山氏の居城があった地区です。ここでの祭の様子は上村や木沢とちょっと違うと言われています。おそらく和田には、上村や木沢の霜月祭が持っているような素朴でプリミティヴな性質よりも、宿場の祭特有の賑わい、明朗快活な気質があるように感じます。
 現在、和田では諏訪神社と八重河内の正八幡神社のみ、霜月祭が残っていて、それぞれ、12月13日と15日に本祭が行なわれることになっています。

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 そんなわけで、今年の霜月祭の日程を並べてみると、こんなかんじです。

 12月1日(月) 八日市場・日月神社(木沢)<隔年開催:中立・稲荷神社(木沢)>
 12月6日(土) 中郷・正八幡神社(上村)、上島・白山神社(木沢)
 12月7日(日) 小道木・熊野神社(木沢)
 12月10日(水) 木沢・正八幡神社(木沢)
 12月11日(木) 上町・正八幡神社(上村)
 12月13日(土) 和田・諏訪神社(和田)、下栗・拾五社大明神(上村)
 12月14日(日) 程野・八幡神社(上村)
 12月15日(月) 八重河内・正八幡神社(和田)

 霜月祭が開催される地域、神社の数は年々減って来ています。この祭の継承についてはいろいろな考え方があり、それぞれの地域で独自に工夫しながら、いろいろな変遷を辿っています。

※現日程の情報はこちら
「霜月まつりの神社と日程」

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 社会の中で、祭が隆盛したり衰退したり、それはいろいろあると思います。どちらが良いか、という問題ではないように思います。大切なのは、その地域の個性、その地域の流儀を持ち続けられること。個性や流儀はその地域の存在意義に結実します。願わくば、その地域の存在意義を失うことの無いよう、そこに住む人々、そこに集う人々による、その人々のための祭、そして祭を取巻く一年間の生活があって欲しい。そのことに愛着を持ち、訪れることに誇りを感じることのできる人々がそこを訪れ、そこに住む人々と自由闊達に交流することのできる祭であって欲しい。国家や消費経済の枠組みではない、人間を本位にした祭や生活が、自由な誇り高い文化として生き続けて行って欲しいのです。

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【Ngene掲載:2008年12月18日】

遠山郷・上村中学校のこと

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 遠山郷。
 南北に細長い谷間、遠山郷の北の入口が上村です。東の山間地には下栗(しもぐり)、『日本のチロル』と呼ばれる急傾斜の集落があり、西の伊那山脈を越えると伊那谷南部、飯田へ通じます。複雑な山襞に沿って蛇行する秋葉街道を北から下ると、最初に信号のある交差点のあたりが、上村の中心地。この交差点に面して、上村の小学校と中学校の正門があります。正門を背に、交差点の反対側の道を入ると、かつての宿場街である上町(かみまち)。風情のある、構えの古い家屋や商店が並びます。郵便局や自治振興センターなどの公共施設も、すべてこの周辺。宿場街の北はずれには、上町正八幡宮。独特の風貌と、眼に見えない不思議なエネルギーを発している、霜月祭の神社です。

 「霜月祭」という遠山郷の誇りを、上村中学校は学校ぐるみ、地域ぐるみで守り続けています。霜月祭保存会、保護者、教職員が一体となって、霜月神楽の継承学習を30年近く続けているのです。しかも、霜月神楽の舞の形だけを保存継承しているのではありません。生徒たちは休みの日を利用して、お年寄りから村の歴史、祭りの歴史を学び、舞の練習を重ね、その意義、精神性をしっかりと身につけながら、霜月祭を受け継いできているのです。これは、民俗芸能を過去の遺産と位置づけた、伝統保存の方法とは違います。地域が活きて行くために、地域が前進するために利用可能な、未来につながる資産として、霜月祭を認識した方法です。

 上村中学校の文化祭『しゃくなげ祭』では、1979年以降、毎年『郷土の舞』というプログラムが設けられていて、上町、中郷(なかごう)、程野(ほどの)、下栗(しもぐり)、四地区それぞれの生徒たちによって、各地区に伝わる舞が披露されてきました。
 近年では、『しゃくなげ祭』だけでなく霜月祭本祭でも舞うことを許され、12月には各地区ごとに本祭に参加して、舞を披露しています。これは、霜月祭の流儀からしても、とても画期的なことだと思うのですが、単なる継承活動に対する理解協力ではない、もっと大きな、未来へ向けてのコミュニケーションを感じます。
 一度見ればわかることですが、上村中学校の舞は本祭への参加を許されるほどに質が高く真剣なものなのです。
 惹き込まれます。この『郷土の舞』の魅力は、30年、そして更に充実したこの10数年の継承活動がいかに価値の高い活動だったか、ということを表しているのです。

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写真提供:田中清一教諭

 その上村中学校が、今年春、廃校になります。
 今週、最後の卒業式、終業式、そして閉校式が行なわれました。
 霜月祭への取組みを担当する最後の教員となった田中清一先生のお話に沿って、上村中学校のこの取組みの意義について考えてみようと思います。

 田中先生は長野県松本市出身。教員になった初期から、市街地の大きな学校よりも、僻地と呼ばれる地域の小さな学校での勤務を希望していたそうです。
 ところが、初任地は長野県佐久市。市街地の学校でした。初任者研修で、僻地教育の実践発表として上村中学校の事例に触れたことがあるそうです。それですぐに上村中学校への赴任を希望したわけではないのですが、いわゆる『山の学校』への憧れがますます高まり、なんとなく「上村がいいな」と、この頃から思い始めたようです。

 『山の学校』への勤務希望を出して、次の任地が飯田市旭が丘中学校。かつての伊賀良(いがら)中学校と山本中学校が統合してできた、人口増加地域のマンモス校です。『山の学校』を希望したのに、なんでこんなでかい学校なんだ!
 それが10年前のことでした。このとき初めて、南信地域に足を踏み入れたのだそうです。

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 社会科が専門教科だった田中先生は、飯田下伊那の学校から集まる社会科教員の会合で、当時、上村中学校に赴任して、霜月祭の活動に取組んでいた、丸山貢弘さんの話を聞いて、俄然上村中学校に興味を持ったそうです。
 元来祭り好きで、子供の頃から地元の祭りによく顔を出し、神社仏閣、道祖神を巡る少年だった田中先生。僻地教育に対する認識と霜月祭への興味が高まって、その頃から上村中学校への赴任を希望し始めたそうです。

 社会科の先生になったのは、やはり社会学的なことに興味があったからなのです。田中先生は、もともと人間と社会の在り方についての認識と、基礎的なアイディアを持っていて、日本の国土利用の矛盾、人口偏在の弊害、過剰な経済偏重などに問題を感じていました。そしてさらに、そこに起因しているネガティヴな事象の解決方法、いまだに日本の社会が持ち得ていない、ここから前進するための方法を編み出すヒントが、日本古来の文化の中にあるということを予感しているのです。

 30年前から霜月祭に取組み始めた上村中学校。上村中学校に赴任する教職員は必ず霜月祭に関わります。そして、前述の丸山先生赴任以降、およそ10数年前から、その関わりは更に緊密になっていて、赴任すると必ず、自分の笛を持ち、神楽の旋律を吹き、『郷土の舞』や霜月祭に参加するのがあたりまえ。最近では、太鼓も叩くし、神楽を舞うこともできる。これが、上村中の教職員の間に、伝統としてずっと受け継がれてきたのです。

 教職員がひとつの学校に赴任している期間は、およそ2年か3年。何人かの先生たちが少しずつ時期をだぶらせながら、入れ替わり立ち替わり、学校は運営されて行くのです。ということは、丸山先生以降、順次上村中学校に赴任する何人もの先生達が、その伝統を途切れさせずに、それどころか更に盛り上げながら、受け継いで来たのです。
 これは奇跡的なことに思えます。いわば上意下達の人事異動で、10年以上に渡って、学校の教科とは関係のない、伝承芸能のことを受け継ごうとする先生達が続いた、ということなのです。

 田中先生いわく、『山の学校』を希望して赴任する先生というのは、何かを持っているようです。
 『山の学校』という、のんびりしたノスタルジックな響きに比して、やはり勤務は大変です。通勤ひとつとっても、距離、環境、条件、市街地の学校と比べてとても厳しい。利便性が低く、物資は少ない。そんな学校に行こうという先生は、やはり、何かを持っている人材なのです。上村中学校の中を歩いてみると、どの教室へ行っても、どの先生も、しっかり、興味深い教材を準備して、とても有意義で個性的な空気を感じます。表現は難しいのですが、大きな力、先生としての職業的な体力というか、先生である以前の人間的な力というか……。
 それは、指導力とは別の、人間の力。先生としての指導力だけではない基礎的な人間の力。そして、その人間の力が生み出す行動の動機。人間や社会がどうあるべきかという全体性も踏まえた、それぞれの教育の力です。それは、創造性を伴なっていないと成立しない能力です。

 教育の現場だけでなく、今の社会では、この人間の力が価値観から欠落してしまっています。全体性や創造性を伴なわない、細分化された技術だけが問われ、社会全体、人間全体を創造し、前進させて行くという観念が欠落してしまっているのです。古来、人間や社会に新しい局面を提供して来た全体性、創造性という観念が。
 この欠落状態は、社会の前進を阻んでいるだけでなく、劣化を招くことにもなっています。自分だけ良ければいい、騙してでも勝ち残ればそれでOK、という世の中。自分達がなんのために存在するのかという、人間存在の根幹、本質を見失った社会を作っているのです。社会全体が良くならなければ、自分の立地は危うくなる、ということを考えない。これは、実は日本の社会が、いま一番最初に修正しなければならない基本概念だと思います。

 創意にあふれた魅力的な教室。わくわくします。おそらく、歴代ここに赴任する先生達はみんな、そんな何かを持って、教育の現場に立つ人たちだったのではないでしょうか。上村を経験した先生達は、今でも時折集まるそうです。同じ使命を帯びた人たちでないと共有できない空気が、きっと、ここにはあったのだろうと思われます。そこに集まった人たちのアイディアから生まれ、そこに集まった人たちを育て、そこの個性を育み、そこの存在意義を作る空気。そんなものが、上村中学校には醸成されていたのです。

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 上村中学校の先生達は保護者のみなさんを名字ではなく名前で呼ぶそうです。「鎌倉さん」とか「松下さん」ではなく「博登志さん」や「京子さん」というふうに呼ぶのです。ここの流儀に従って自然に名前で呼ぶのです。自然にお父さん、お母さん、地域の人たちと交わることのできる先生が多いらしいのです。
 たぶん、人間や土地の力が強いこういった山間地では、そういうことを自然にできる感覚が重要です。それは何も特別なものではありません。人間と人間が出会い、暮らして行くときには本来あたりまえに必要とされる感覚、自然にそこにある環境に溶け込む能力です。
 そして、地域に溶け込むということは、そこに住んでいるとか、通っているとか、そういうことだけが問われるのではありません。そこで暮らしている人々の心に繋がっているかどうか、ということが問題だと田中先生は言います。その地域の暮らしを全うしようとすることばかりが重要なのではなく、暮らしてなくても、そこの魅力も辛いことも知っていて、想像力を最大限に駆使して、そこにある暮らしのことを敬愛できるかどうか、ということなのです。

 ◇◆◇

 山間地の暮らしは不便です。市場原理だけで解釈したら消滅するしかないくらい、山深い遠山郷の暮らしは不便です。けれど、不便とされている現象は、すべてが悲観的なことでしょうか、あるいは、利便性って何でしょうか。便利なことはいいことです。けれど、今の日本にある利便性のどれだけが、僕達のためになっているのでしょうか。
 便利なことは有益で、人々は全員それを目指す、ということを信じて殺到してきた日本の社会も、快感原則の先に、更なる精神的な充実を目指す人間の本性のことに、そろそろ気づいても良いころ。有益な便利さと有害な便利さ、回避するべき不便と魅力のある不便も、本当は違いがわかるようになっているはずだと思うのですが。

 人口が減少すると制度上の規則で学校がなくなったり村がなくなったりしますが、それは行政上の変化なのであって、その地域の存在意義を計るものではありません。上村は平成10年に飯田市と合併しました。そのとき上村の人口は630人。現在は600人を切りました。上村中学校の生徒数は11人でこの春廃校になりますが、上村小学校は現在20人。このまま行くといずれ、小学校がこの地域で存続できなくなるときがやって来ます。地域の拠り所のひとつである学校が消滅したとき、この地域の核になるものは何なのか。
 こういった山間地の暮らしのありようを、これからどうしていくのか、日本の社会は、そのための方法を創って行かなければなりません。今まで市場原理一辺倒で馬車馬のように進んで来たために、こういった現象に関する対処方法が、あまり考えられていないのです。過剰な経済偏重のために、財務的価値以外の価値観について理解できる能力もありません。日本の社会はもう一度、自分達のために、自分達が豊かに暮らして行くための能力や感覚を取り戻さなければならないとこるにいるのです。

 「温故知新」。
 ヒントは歴史にある。現代社会で埋もれてしまった伝統的な生き方、知恵がヒントになる筈です。かつての日本の社会、生き方、知恵は、日本の国土、風土から発生した、自分達が豊かに生きて行くための方法でした。
 田中先生が上村に来てから、総合学習という時間で、子供達が村の人達に話を聞くことを始めました。「這い回る学習」だそうです。上村じゅうを歩き回って、祭りや村の歴史について聞き取り調査をするのです。最初のうちは、祭りの歴史や風俗について学術的な話、観光パンフレットに解説されているような、誰に訊いても通り一遍の話が出るだけでした。
 「なんだか面白くない」。
 「子供達が学ぶべき本質的なことではない」と感じた田中先生は設問の方向を変えます。村の人々に「あなたにとってお祭りってなんですか?」という質問を向けるようにしてみました。そうしたら、面白い話がどんどん出て来るのです。おじいさんたちの昔語り。ひとりひとりの極めて個人的な物語、ひとりひとりの主観に立ったいろいろな物語、愛情のこもった物語がどんどん出て来ます。そのひとつひとつ、ひとりひとりの物語を繋げて積み重ねて行くと、とても豊かな上村の物語ができてくるのです。上村中の子供達は上村のお年寄り達にいろいろな話を聞きました。昔の物語を聞き、祭りの話を聞き、森や林、山の話、一年間の暮らしの話、人生の話を、上村を誇りに思っている人たちの話を聞きました。

 そうすると子供達は、「おじいちゃんたちの話を聞いているうちに、上村のことをどうでもいいなんて思えなくなった」「不便で何もないところだと思っていたけれど、必ず帰って来たいと思うようになった」という気持ちを結ぶようになったのです。
 「下栗はずっと下栗であってほしい」。
 とても重要なことです。
 「上村の魅力は?」
 「上村を本気で好きだと言える人が上村にいることです」
 それが、その地域の存在理由です。地域の存在理由。地域にとってまず必要なのはその存在理由です。その存在理由はそこにいる人々が、人々の基礎的な認識が作るのです。それがなければ、どんな施策を講じても地域の活性化などありえません。

 ◇◆◇

 何が大切なこと、本質なのかということに辿り着いた上村中学校の存在理由は、それを導き出したこの学校の先生達の文化。それが、上村中学校の豊かな空気感を醸成しています。文化とは、いろいろな人々が醸し出すその場所の空気と、その空気感を関知して集まって来るいろいろな人々の新しい空気が反応し合って、個性的な、有意義な智慧として結実したもののことを言います。
 社会の趨勢に従って、その場所に住む人数は多くなったり少なくなったりしますが、少なくなったからといって、その場所の存在理由や文化が失なわれるわけではありません。たとえ誰も住まなくなったとしても、その場所の文化は、その場所を記憶する人々によって受け継がれ、その人々が正しい認識力を持っていれば、表現方法は変わったとしても、その本質にある人間として大切な部分は、ちゃんと残って行くのです。

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 さて、そんなユニークで価値の高い文化を醸成した上村中学校も、終わりになってしまいました。来月からは、遠山中学校に統合されます。上村中学校の先生達と生徒達、そして保護者や保存会の人たちが一緒になって作り上げて来た、素晴らしいムーヴメント『郷土の舞』はどうなってしまうのでしょうか。

 昨年11月8日、最後の『しゃくなげ祭』が行なわれました。「春が来たらこの学校はなくなってしまう」という最後の学校祭です。そこに、次の春から一緒になる遠山中学校の生徒さん達が招待されました。遠山中学校は、上村以外の遠山郷、木沢(きざわ)と和田という地区の子供達が通っています。その生徒さんたちがみんな『しゃくなげ祭』に参加しました。そのとき『郷土の舞』をみた遠山中学校の生徒さんたちが、全員、「かっこいい!」と感じたというのです。それはそうです。僕達が見ても魅力的だと思う『郷土の舞』、人を魅了する本物です。何年もかけて歴代の教職員や生徒たちが積み上げて来た、本物の表現なのです。もともと、そのDNAを持っている遠山郷の子供達が「かっこいい」と感じないはずはありません。上村とは反対側の南の地区、和田。近年、ここの子供達は、小学校まではお祭りに参加しても、中学校に行ったらやらなくなっていたらしいです。ところが、昨年暮れの霜月祭には、何人かの子供達が舞の練習に参加するようになったのです。

 これが、誇り高い文化の姿です。
 誰かが決まりを作ってやるのではなく、誇りを持って、ひたすら切磋琢磨した人たちの本物の表現、エネルギーが人を惹き付け、その発露に触れた人々の間に憧れを誘発し、人を動かし、融合し、新しい局面を生みながら、前進して行くのです。それが文化、社会を前進させる技術なのです。

 日本の農山村は人口減少傾向にあります。それを「過疎」という言葉で表現して「どうしたらいいかわからない」ことになっています。たぶん、いつまでも「過疎」という方向でものごとを考えていたら日本の社会が豊かになるときはやって来ないと思います。「過疎」という概念自体、市場原理に則った、消去法的な考え方だからです。新しいアイディアを見つけ出さなければならないときに、消去法的な考え方は何も生みません。インダストリアルな時代は終わったのです。つまり、新しい時代を作らなければならないのです。既存のアイディアで乗り切れるはずはありません。新しいアイディアを生まなくてはならないのです。

 新しいアイディアは、どうやったら生むことができるのか。

 上村中学校はなくなります。けれど、ここで生まれた知恵はきっと、この遠山郷でちゃんと活き続けて行くのです。社会がどういう状態になろうと生き続ける人間社会の知恵。これが、人間が生きている意味、人間社会がそこに存在する理由なのです。
 今月、まさに今週、幕を閉じた上村中学校で今まであったことと、統合先の遠山中学校でこれから起きて行くであろうこと。これを知ることが、今の社会にとってとても大切なことなのだと思います。

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【Ngene掲載:2009年3月21日】

飯田・りんご並木と裏界線(その1)

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 風越山という泰然とした山の麓、いずれも天竜川に注ぐ、松川、野底川というふたつの支流を南北の境とする、比較的広い高台に飯田の街はあります。南は三河地方、西は木曽、北は信濃の国・善光寺へ向かう交通の要衝にあり、江戸時代には幕府の直轄領・天領として栄えた伊那谷の中心地。この周辺ではかなり多くの個性的な文化、伝承芸能が生まれ育ってきています。

 飯田の街路もなかなか個性的。その代表的なものが「りんご並木」と「裏界線」です。公園の機能も併せ持った表通りである「りんご並木」と、表通りの間を繋ぐように部分的に顔を出す裏路地としての「裏界線」。とくに、この細い隠れた裏路地に「裏界線」という神秘的な名前をつけて生活道路として利用して来た飯田の街のセンス、個人的にとても好きだったりします。

 今日はその「裏界線」の様子をお伝えします。

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 近年、中心市街地の活性化を目指して、飯田の人々はこの街の歴史や魅力を積極的に語り始めました。裏界線も一部が改修整備され、歴史物語を宿した市民の空間として見なおされてきています。

 1947年春に発生し市街地のほとんどを焼きつくした「飯田大火」の復興の中から裏界線は生まれました。大火のときに避難路や消防活動のための通路が無く消火活動に支障をきたしたという反省から、一軒一軒の家々が1メートルずつ家の裏手の敷地を提供し合ってこの通路を設置したのです。
 おもに隣接した家屋の延焼を防ぐ目的で設けられたようですが、そこは表通りを歩く人の目には触れない道で、勝手口から出て往来するときや、裏手の街区へ手早く抜けるときに通るような道です。めったに人は歩いていない窓のない裏壁の続く道で、本当に隠れた空間なのです。

 裏界線は場所によっていろいろな表情を見せます。整備されたところもあれば雑然と放置されたところもあります。植木やプランターで飾られているところ、自転車やバイクが置いてあったり、家や工場の裏口があったり……。

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 まっすぐに区切られた街区の中央をまっすぐに抜けるので、反対側の出口をふり返るとトンネルの出口のような不思議な光が射し込んでいたりします。ちょっとSF的、異次元空間的だったりするかもしれません。

 なかなか魅力的です。
 土蔵のナマコ壁もあちこちに見られます。

 タテタカコが2005年2月にリリースしたアルバムには「裏界線」というタイトルがついています。その前年夏にリリースしたアルバム「そら」が、映画「誰も知らない」のヒットとともに音楽ファンの間に広まりつつあったこの年、飯田市内で数回に渡って行なわれたタテタカコのイベントには地元・飯田や長野県内よりもむしろ全国から人が集まり、タテタカコのホームページに掲載された飯田の街の概説を片手に裏界線を巡り歩く姿が見られるという現象が起きました。コンテンツによって街のイメージが頒布され人が集まる、という好例かもしれません。

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アルバム「裏界線」のジャケットが撮影された地点

 「裏界線」という言葉には不思議な魅力があります。「裏」「界」「線」、3つの文字はそれぞれに、日常にあるような非日常にあるような、人々の隠れた心や精神を示すような、宇宙の穴のような神秘的な魅力があるのです。
 そして、あるときふと踏み入れたその場所は、裏道、抜け道であり、表通りからはほとんど見えない空間。裏壁や土蔵が続き、家によっては勝手口もあって生活道具や鉢植えが雑然と置かれていたりする。崩れて途絶えているところもあれば、家が失くなって暴かれてしまったようなところもあれば、草ぼうぼうに埋もれた場所もあります。

 どこもみんな何の変哲もないただの路地ですが、そこには大きな災害を経て生まれ、街じゅうに共有されたアイディアのエネルギーが溜まっています。転がっている石ころひとつにも、そんなエネルギーが宿っているような気がします。人々の営みが溜まった場所。それが街の魅力を生むのだとすると、裏界線はまさにそのための装置になるのではないかと思うのです。

 飯田・りんご並木と裏界線、明日はりんご並木の様子をお伝えします。

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【Ngene掲載:2008年10月25日】【路地月間!⑤】

裏界線ホームページ

飯田・りんご並木と裏界線(その2)

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 りんご並木。
 飯田の街の象徴です。裏界線と同じく1947年の「飯田大火」が契機になってできた街路です。現在はリンゴの並木が中央分離帯にあるというだけではなく、街路全体が公園のような機能を有する歩行者優先の道路になっています。

 歩道と車道を分けるのではなく混合させて歩行者優先にしています。公園道路というかんじの珍しい性質の街路です。なかなかユニークなアイディアですね。中央にあるリンゴの並木帯を縫うように大きくS字型に蛇行する水路を通して、ところどころ水場に下りられる場所が設えてあります。ところどころに石橋が架かって、橋のたもとには行灯が4基、夕方になると明かりを灯します。辻々にいろいろな形の座る場所、足を止める装置を配置してあります。水の流れと行灯の光と眺める場所。感性に響かせる勘所を押さえた街のデザインですね。

 飯田大火が発生したのは1947年の春。桜満開の日曜日。干天続きで乾燥しきった春の風に煽られてあっというまに広がった火の手が東西南北に伸びる城下町の狭い通りを縦横無尽に暴れ回り、なすすべなく市街地の大半が焼失したのでした。焼失戸数3,577、被災者数17,800人。
 完膚なきまでに焼き尽くされた被災経験から、市街地を4分割する防火帯が設けられることになりました。万一大火災が発生しても、火元となった四分の一の街区で延焼を食い止めるためです。
 街の中央で交差する2本の防火帯のうち南北に走る緑地帯に、大火の6年後からリンゴが植樹され始めました。それは街の復興を願う中学生たちの提案によって始まったものでした。

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「りんご並木、並木通りの全景」
 中央にグリーンベルトの敷かれた片側2車線の広い通りです。前方、南方向に見えるのがりんご並木。ここから背後には、毎年春に見事な桜のトンネルになる桜並木が街の北はずれにある大宮神社まで伸びています。
 飯田大火のあった1947年はまだ敗戦直後、GHQに統治されていた時期です。大火の様子を撮影したGHQによる映像も現存しています。飯田のような山間の小都市で、敗戦直後にグリーンベルトのある広い道路が建設されたというのは、GHQによってもたらされたアイディアなのかもしれません。

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 ここから少し、りんご並木周辺の様子を眺めてみます。

「通り町」
 りんご並木に交差して東西に伸びる防火帯が通り町。そういうわけで、この通りはGHQによって設計されたという説が濃厚です。
 飯田ではこのほかに、並木通りを北へ上がって行ったところにある「ロータリー」と呼ばれている周回交差点。これもGHQによって造られたそうです。これはヨーロッパの街でよく見かける「ラウンドアバウト」と同じ構造の交差点です。

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「三連蔵」
 通り町とりんご並木の交差点にある三連蔵。大火による焼失を免れて残った3つの蔵を改築して、バー、豆屋さん、カフェ、りんご並木の資料館やギャラリーとして使われています。中庭はオープンテラスになっていて、イベントやワークショップなども行なわれる一角。
 寒い冬の天気の良い日に、このテラスで良く冷えた地酒なんか飲みながらぼぉ~っとしていたら、きっと気持ち良いですね。なかなかステキな一角なのです。

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「飯田最古の道標」
 市街地の南西の一帯、箕瀬という横町へ入る大横町と知久町の交差点にある道標。「南は三州方面へ、北は善光寺及び甲州へ、西は大平を越えて木曽に通ずる」という刻字。いわば飯田の街の起点です。

 りんご並木に戻ります。

 りんご並木の手入れを終えて帰る飯田東中学校の生徒さんたちです。毎日放課後、いくつかのグループに分かれて世話をしてから帰ります。

 大火からの復興を願って1953年に植樹が始まって以来、先輩から後輩へ受け継がれながらずっと東中の生徒がりんご並木の手入れをして来ています。
 植樹から2年後、初めて結実した49個のリンゴはそのほとんどが盗難にあい、収穫できたのは5個でした。全国から寄せられる激励の手紙に励まされ、収穫量が次第に増えて行くに連れて「りんご並木」の名前も広がって行き、幾多の困難を乗り越えながら50年あまり、今では地域ぐるみの財産になってきています。

 りんご並木にはいろいろ魅力的な装置が設置されています。水路や池で遊んだり、芝生の上で休んだり、座る場所もあちこちに、あれこれいろいろな形のものがあるし、石積みの舞台もあります。
 ここにもう少し、人々が行ってみようと思う動機になるものがセットできたら、この街路はとても魅力的なものになるに違いありません。知的な好奇心に結びつくような何かが足りないと感じます。ここにあるセンスの良い工夫や起伏に富んだ歴史を伝えるための魅力的な物語。

 りんご並木と裏界線。個性的な飯田の街路。人形劇や屋台獅子、周辺の山岳地帯に豊富に現存する伝承芸能、祭。かつて豊かに自立していた地域経済に支えられた個性的な文化が蓄積し、特筆すべき優れた現代美術作家を多く輩出し、民俗学、文学、哲学、いろいろな学問が撩乱し、多くの魅力的ないとなみを累々と重ねて来た街なのです。古来からの人の営みから生まれたエネルギーが、街のあちこちに、路地の辻々に溜まっているのを感じます。
 できれば、このエネルギーの流れを分断しないように、風景や空気や水の流れを分断しないように、新しい街のかたちができていって欲しいと思います。
 いい街です。

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【Ngene掲載:2008年9月26日】【路地月間!⑥】

りんご並木ホームページ
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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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