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「事の神送り」を追いかける(その4)

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 千代北部の小さな集落・芋平から北上、上久堅の各集落を駅伝のように繋いで行く「事の神送り」。
 2月8日を中心とする3日間に複数の集落が連携して開催する行事なのですが、けして行事全体がまとまりを持って行なわれているわけではありません。基本的に、それぞれの集落ごとにばらばらに営まれる行事なのです。
 たとえば、芋平で行なわれる祭りの準備を他の集落の人々が観に行くことはありません。芋平の人々が、自分たちの作ったカミサマやミコシの顛末を追って上久堅の野辺を歩くこともありません。どの集落も、南隣りの集落が置いて行ったカミサマたちを拾って北隣りの集落まで送る。集落境にカミサマたちを置いたら、けして後ろを振り向かないで家に帰る。そんなふうにてんでばらばらに行なわれる行事なのです。けれどそれは、自分たちのことだけ考えていたのでは絶対に成り立たない行事でもあるのです。

 2月8日、朝11時に芋平を出発した「事の神送り」、午後2時前に蛇沼と平栗の境・細久屋峠に到着(※参照)

 午後2時、峠道の端で小休止していたカミサマたちを平栗の人々が拾いに来ました。
 峠から長い坂道を平栗の里へ向かって下りて行きます。

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 平栗は郵便局もあったり、比較的多くの家が集まった集落。里へ下りると、待ち構えていた近所の人々が次々とミコシをくぐりに来ます。くぐっておくと病気をしない、という縁起ものなのです。

 平栗でも、戦前は子供たちが主体になってこの行事を行なっていたようです。男女、年齢も関係なく、みんなが集まる祭りだったようです。やがて子供たちが学校のために参加できなくなり、大人たちだけで行なわれる行事になってしまったとのこと。この日は日曜日でしたが、あまり子供の姿はありません。
 平栗が神送りをするのがおよそ午後2時から。ひとつ前の蛇沼もそうでしたが、学校に行く時間帯に差し掛かる集落では、子供がこの行事に参加する習慣自体が減衰して行ってしまったのかもしれません。

 上久堅、天空の里です。
 峠を越えるたびに木曽山脈の壮大な光景が飛び込んで来ます。気持ちのよい風景です。春先、鶯が鳴き始める頃にこのコースを歩いてみたら、かなり気持ち良さそうです。

 平栗の北隣りは落倉(おとしぐら)。集落境ではもう落倉の人たちが待ち構えていました。なので、ここでは道端に置いて去るのではなく、落倉の人々に渡します。
 和気あいあい、平栗の人々と挨拶しながらカミサマたちを受取った落倉の人々、既にみなさん揃っていたらしく、そのまま出発です。予定よりだいぶ早い出発ですが。

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 落倉でもかつては子供たちの行事で、学校からみんなが帰って来るのを待って出発したそうです。「カゼガミオクリ」と呼ばれ、一番風邪が流行る時期なので風邪除けの行事と言われていたらしい。
 今日も大勢の人が参加していますが、子供たちの姿はちらほら。あ、ワンちゃんを連れて参加している方もいます。こういうの、いいですね。ワンちゃんも、振り向いてはいけません。

 祭列が進むうちに送り竹はどんどん増えて行きます。途中の各集落で祭列の参加者が持寄るのはもちろん、途上の道端に出されている送り竹は漏れなく拾って行かなければなりません。

 落倉も平栗と同じく沿線に住宅の多い地区。地形は比較的平坦だったりします。地図を見ると、芋平から富田境までのちょうど途半ばくらい。祭列は淡々と進みます。

 「事の神送り」のコースは、南の端から北の端まで全線くねくねと曲がりくねっています。もともと丘陵や沢、尾根や等高線に沿って、起伏の多い地形の中に自然にできた道なのではないかと思います。ロング・アンド・ワインディングロードです。
 集落を抜けると畑や野原が続き、峠道は突き抜けるような見晴らしの良さ。爽快です。途方に暮れるような難所もなく、適度な斜度のアップ・アンド・ダウン。てくてく一歩一歩あるいて行くのが気持ちのよい道程です。

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 上久堅の風景には特徴があります。土の色は明るく、複雑な起伏に美しい曲線を描く土手、畑や田んぼが畝を重ね、ひとかたまりずつ群生する林、斜面のリンゴ畑、路傍や丘の上には間近にお墓やお地蔵様、石碑や石像の一群、遠景に青い山脈が見えて空が近い。

 もともと上久堅周辺の地質は風化した花崗岩だそうです。そのため、昔の上久堅は地滑りが起きやすく、貧栄養土壌で植物、作物が生育しにくい土地、戦前まで周辺の丘や山には木が生えていなかったということなのです。
 そんな土地も、戦後、植林が行なわれるようになり様相は変わりました。民主化の一環として進められた農地改革も要因になっているかもしれません。人々の努力によって植林が進み、現在のように森や林が増え、もともとある地形を利用しながら土手が築かれ、水路が引かれ、農耕のための土地が広がって行ったのです。土手は崩壊を防ぐ丈の長い草に被われました。上久堅の風景の特徴、林の様子、土手の形状や色彩などは、そんな先人たちの知恵が素因になっているのですね、きっと。厳しい環境条件を克服して来た美しさです。こういう営みの積み重ねを本来は文化と呼びます。

 「事の神送り」は落倉と小野子(おのこ)の集落境に到着。「中沢橋」というバス停の標識が立っている土手にカミサマたちを置きます。送り竹はずいぶん増えました。残りの道程、大変そうです。

 祭列を終えた落倉のみんさんは、ミコシをくぐったり、久しぶりに出会った人と挨拶をしたり、いつもの井戸端会議だったり、ひとしきり集ってから三々五々、ばらばらと帰途に着きました。
 けして後ろを振り向いては……あれ?、いや、なんか、そうでもなさそうです。
 後で聞いたところによると、落倉では特に振り向くなという言伝えはないらしいのですが。

 ともあれ、落倉の「事の神送り」は予定よりずいぶん早い時間に終わってしまいました。次は8日の最終区間、小野子ですが、小野子の人々が集まってくるまでにはまだ暫く間があります。フォーラム南信州の参加者は、伴走してくれている飯田市のマイクロバスに乗ってしばらく休憩。だいぶ歩き疲れて来ていたので嬉しい休憩です。

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 こんな風情のある土手の景色を眺めながら休憩です。
 野原にぽつんと立っている桜の古木と、ほどよい距離で佇む墓石。
 品の良い美しさですね。
 春、桜の咲く頃には黒澤明の「夢」のような世界になるにちがいありません。

 マイクロバスが停まっている道沿いの家のご婦人が、暖かい焙じ茶のいっぱい入ったポットと切り分けたリンゴをたくさん差し入れてくれました。紙コップまで一緒に。突然のことです。誰が頼んだわけでもなく、様子を察してこういうことをしてくれるのです。こんなにたくさんのリンゴを皮をむいて切り分けて。暖かい心、ものすごく嬉しいおもてなしです。

 ◆◇◆

 さて、事前に調べていた時間からさらにもう少し待って、小野子の人々が集まり始めました。どうやら、子供たちが学校から帰って来るのを待っていたようです。

 そういうわけで、この区間の主力は子供たちです。先頭の幣束、大旗、ミコシを担ぐのも全員子供。どうやら、鉦を叩いているのも女の子です。大人たちも大勢参加して、8日の「事の神送り」最終区間は賑やかに進みます。
 昨日から感じていることなのですが、子供たちが先頭に立つと祭列のスピードが上がります。大人の場合は、太鼓と鉦に合わせて「たらん…、たらん…、」というテンポで進むのですが、子供のペースだとさっさと進みます。神送りの歌や念仏のテンポも大人と子供ではだいぶ違います。

 そして、絶景の最終コーナー、長い坂道を下り終わって「事の神送り」は8日の終着地点に到着。長い長い一日の神送りが終了です。
 明日の午後、堂平(どうだいら)の人々が拾いに来るまで、カミサマたちは坂の下の路傍で一晩お休みするのです。カミサマたちが置かれているのは背後から夕陽のあたる林の一隅、東向きの土手です。朝陽が最初に当たります。なかなか寝心地の良さそうな所です。
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 この日の行事はこれで終了。
 フォーラム南信州の参加者も今夜は一旦家に帰ります。
 この週末、随分長い距離を歩きました。足首がへとへとです。

 ◆◇◆

 翌9日は午後3時、堂平(どうだいら)の「事の神送り」から始まります。
 堂平というのは、上久堅の中心・風張(かざはり)の南隣り、戦国時代にこの地を治めた知久頼元(ちくよりもと)の居城・神之峰(かんのみね)の東麓一帯で、全体的に周辺の地区より低い土地、少し深い窪地になっているところです。

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 なので、小野子から堂平に向かってはずっと緩やかな坂を下ります。
 堂平では子供が参加していません。月曜日に当たったという事情もあると思いますが、祭列に参加したお年寄りの話では、堂平では子供がとても少なくなってしまっているということなのです。しかも、地区の人々が総出で行事を行なっているのではなく、一年おきに東の地区と西の地区で分担しているということなのです。世帯数が少なく、みなさんご高齢の地区のようなのですが、やはり、毎年行事を行なうのは大変なことかもしれません。

 上久堅小学校の児童数は現在52名。この地域の人口流出はかなり深刻のようです。人口の流動は、時代によって、社会の趨勢に従って、いろいろなかたちで推移するものだと思います。その時代、社会が持ちえた技術や知識によって、人々の住む場所は、いろいろな場所に移動して来ました。
 21世紀、人類は、いろいろなことを解決する能力を身につけて来ています。この時代に生むことのできる新しいアイディアで、いろいろな地域のことを考えて行ったら、人が生きて文化を重ねて来た経緯のある場所であれば、必ず楽しく活きて行く方法があるはずなのです。そのときに一番大切なものが個性。地域の個性、地域の存在意義だと思います。

 堂平の中央部を過ぎると、道は上り坂に転じ、最後の急坂を登りきったところが、終着点。風張にある上久堅の自治振興センターです。センター前の田んぼの端に、大旗や送り竹を突き刺しておきます。送り竹の量がかなり多くなっています。相当重いはずです。この後が大変そうです。

 ◆◇◆

 「事の神送り」。
 楽しくて、いろいろな観点で興味深い行事です。歴史や習俗、社会的な意義を複雑に、濃密に、内包しています。上久堅という、けして平易ではない自然環境、社会環境の中で暮らしてきた人々。この人々の労苦や知恵の蓄積こそが、この地域を前進させるエネルギーになるはずなのです。そればかりか、劣化の一途をたどる日本の社会から、次々に脱落して行く、誇りや精神性、全体性を回復させるヒントが、ここから発見されるかもしれません。大切な祭りです。

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 夕方、背後の丘の上にある小学校から子供たちが下りて来ます。下校時間です。
 やがて、家にランドセルを置いた子供たち、風張、上平の人々がここへ集まります。

 「事の神送り」最後の区間が出発します。
 ここは子供たちが主力のようです。先頭に女の子たちが5人、市子(いちこ)みたいないいかんじの存在感です。後ろにミコシを担ぐ男の子、太鼓と鉦は上級生、その後ろにも中学生くらいの子供たちが続き、後ろ半分が送り竹を持った大人たち。もうここまで来ると送り竹も相当な量です。ひとり数本ずつがんばって、それでも抱えきれない分は軽トラックの荷台に載せて運ぶようです。

 夕暮れ近く、冬枯れの上久堅の独特な風景の中を祭列が進みます。
 風張の高台から上平(かみだいら)に下りて玉川寺の前を北の方へ進みます。
 風情のある道です。
 ……夏に提灯を持った行列があったらものすごく幽玄で美しいかも。涼しい風と蛙の声と提灯のあかり、念仏の音。

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 これも上久堅独特の風景です。
 井土手(いどて)。
 水源の遠い上久堅の耕作地に水を引くために作られた水路です。等高線のようなカーブを描いてゆっくりと畑の上を流れ、土手の向こうへ回り込んで行きます。
 昔の人が膨大な労苦をかけて構築した水路。農耕という実用のために作られたものですが、そこにある地形とちゃんと感性で対話しながら造られているので、その造形はとても美しいのです。のべつまくなしに穴を掘って切り崩してズドンと道を通しちゃうような美的水準の低い現代の建造物とはわけが違います。
 今は治水が進んでこの水路の重要性は低くなっているそうですが、これは是非残して行って欲しい風雅な景色です。ところどころに水車が回ってたりなんかしたらものすごく詩的ですね。
 ……けど、いるんだよね、いまだに。「こんなもの邪魔だ!」って言ってぶっつぶしちゃう低能な輩。

 夕闇が濃くなって来ました。
 いよいよ最後の場面が近づいて来ます。柏原(かしゃばら)の通りに出た所で他の神送りの行列と合流。野池から出発した西回りの「事の神送り」でしょうか。あるいは、中宮から来た神送りか。この道をまっすぐ進むと、その先がいよいよ最後に祭列のすべての道具を捨てる富田境です。
 柏原の集落、原平(はらだいら)の集会所の阿弥陀堂前では鉦や太鼓を持った子供たちが集合しています。神送りのコース上最終集落の原平では、ほかの神送りが通るのを見届けたところで念仏を唱えて出発するそうです。クライマックスに向かっていろいろな神送りが集結しつつある、わくわくする雰囲気です。

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 住宅街を抜けて最後の坂を上りきったところに「山本勘助物見の松」という名所があります。喬木村富田との境にある峠道の脇にあります。
 知久氏攻略の武田軍は策謀家・山本勘助に率いられて喬木村富田から柏原に侵入したのですが、そのときに勘助がここの一本松によじ登って南正面に見える神之峰の様子を遠望したといういわくの場所。
 この「勘助物見の松」の先に、延々と送って来た「事の神」を捨てる谷間・北の原があるのです。

 ◆◇◆

 そして、いよいよ再終幕。

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 それぞれの組ごとに子供たちが念仏を唱え、大旗、幣束、ミコシや送り竹を谷間に投げ捨てます。芋平で作られたあの愛嬌のあるカミサマたちもミコシごと谷底へ転げ落ちます。その後、整列して更に何回か念仏を唱え、鉦を叩いて来たバチも投げ捨てます。すべて捨てます。

 芋平から始まって、蛇沼、平栗、落倉、小野子、堂平、風張、上平と送られて来た東廻り。野池から始まって、田力、荻坪、大屋敷、尾科、下平の西回り。そして、原平と中宮の神送り。4つの組が代わる代わる念仏を済ませるころには、あたりはすっかり暗くなっています。少し暮れ残っていた夕空も、もう完全に夜の闇。
 そして、すべての仕来りが終わったところで、無言のまま、最後の祭列に参加した人たちは一斉に峠を越えて上久堅へ帰って行きます。

 絶対に後ろを振り向かないように。

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 ずいぶん長いレポートになってしまいました。
 けれど、この濃密な文化を宿した天空の里の個性・「事の神送り」を、とにかく一度全部書き出しておきたいと思いました。

 文中で何度も触れましたが、民俗学的に、社会的にこれだけいろいろな素因を豊富に含んだ祭りは特筆に値するものだと思います。おそらく何らかの無形文化財として採択されていてもおかしくはない価値の高いものなのです。

 数年前、この行事の徹底的な調査を敢行した飯田市美術博物館の桜井弘人さんを中心に文化財として推薦する動きがあったようですが、当事者・上久堅のみなさんがそれを望まず実現しなかった経緯があります。
 けれど、行事を執り行なう子供たちの真剣さ、古来の独自な流儀を誇りを持って受け継ごうとしている、それを年中の生活の中で活かそうとしている小さな集落の人々の熱意は、何らかの方法で日本の社会の記憶にしっかりと記しておくべきだと思います。

 ほかにもたくさんあろう未だ見ぬ尊い文化もふくめて。

 ~おわり~
【Ngene掲載:2009年2月16日】

「事の神送り」を追いかける(その3)はこちら
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音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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