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清内路・大まきに宿る(1)

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 長野県下伊那郡清内路村。

 飯田市の南部から木曽谷へ抜ける峠路の登り口にある村です。その清内路峠は木曽谷と伊那谷を結ぶ重要な交通路、御岳山と善光寺を結ぶ修験回廊の一部でもあって、山岳信仰の宿る精神性の高い街道筋にあります。1500メートル前後の山々に囲まれ、「清内路」という美しい三文字の名前と峻烈な歴史を持つ個性的な村なのですが、近年その存在感は薄れ、南信地域でも忘れられがちな村になっているように思います。来年、2009年の春には麓の阿智村と合併することが決まっているそうです。

 村の最深部、小黒川沿いに谷筋を分け入った一番奥に、清内路の人々が「おおまき」と呼ぶ大木が立っています。樹齢300年以上、樹高18メートル、幹の太さは7メートルあまりもある大木。国の天然記念物に指定されています。幹の太さはこの種では最大とのこと。そして、大きさもさることながら、その枝振り、幹や葉の色、木の発するエネルギーがとても深い生命感に満ちていて、なんだかカリスマを感じる木なのです。
 清内路の人々が精神的な拠りどころにしているこの木は、この村のあらゆる出来事を感じ取りながら、この谷間でその記憶を幹の中に留めて来ているように思います。見上げていると、「大丈夫、大丈夫、まだまだ行けるよ」という声が幹の中から聴こえてくるような気がします。

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 根元には祠があります。山の神様が宿っているのです。清内路の人々は神の宿るこの木を「おおまき」と愛情を込めて呼んでいるのですが、国指定の天然記念物であることを記した碑には「ミズナラ」と表記されています。


 「ここではこの木を小黒川の大まきと呼んでいるが、実はミズナラである。ミズナラはオオナラともいってコナラとともに本邦各地にごく普通にみられるもので……」という解説がなされているわけですが、ここにあるこの木は明らかに「本邦各地にごく普通にみられるミズナラ」とは違うものです。明らかに違った個性を発揮しているのです。
 ものごとを数値化し、平均化し、分類し、平易に把握することを目指す近世の科学が捉えた単なるミズナラと、地脈や水脈、歴史をその細胞の中に留めて来ている個性的な生命としての大まきの違いなのですね、きっと。清内路の人たちはこの違いにこだわりがあります。ミズナラと呼ばれるのはちょっとイヤだそうです。

 この違い、実はこれからの社会が豊かに幸福に進んで行くためのヒントに結びついているように思います。

 「限界集落」という概念があります。この言葉はとある人文学者さんの解釈によって統計上生まれたものなのですが、65歳以上の高齢者が50%を越える集落を指し、共同体として生きてゆくための「限界」を越えた、やがて消滅へと向かう集落と定義づけられています。

 確かに、現存する市場経済の視点から考えたら、この状態は市場原理が強く働いて消滅へと向かう共同体であるに違いありません。今までそういう事例はたくさんあったでしょう。その原理に従って廃墟になった街もアメリカ大陸にはたくさんあるようです。
 けれど、では何故、たとえば大鹿村には知的な層の外国人や若い世代が移住して来たり、おじいちゃんやおばあちゃんが重い荷物を坂の上まで軽々と運び上げたり、ジャック・ケルアックやゲイリー・シュナイダーといった世界的な文芸人が遊びに来たりするのでしょうか。それは、とても元気で、魅力的で、今から消滅へと向かう村には思えません。

 「限界集落」という概念は、そこにある状況を数値としてしか捉えません。そこに居る一人ひとりの個性、その土地の持っている個性のことを把握する能力はないのです。あ、これは「限界集落」という定義を否定するものではありません。そういう絶対科学的な概念では理解できない、その地域の存在理由、人が住んだり集まったりする理由があって、そういう数値化できない感性に関わる部分を認識しなければ社会は一向に豊かにならない、ということなのです。人間は感性によって存在しているのです。

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 清内路村はかつて煙草の栽培と炭焼きで潤い、農業と林業で自立しながら四季折々の祭を守り、歴史を守り、地脈や水脈に素直に従う自然で豊かな暮らしがありました。そして、その生活は「出づくり」という文化によって支えられていました。農繁期に畑の近くに移住する習慣です。

 普段人々が居住している低地は急峻な斜面ばかりで農耕に適した土地がありません。むしろ山頂近くや谷筋の奥の方が平地が多いため、養蚕や煙草の栽培、畑をつくる春から秋までの農繁期は山腹にある別の家に移り住んで、そこで生活しながら畑仕事をするのです。子供たちもそこから山を下って学校へ通います。これが「出づくり」という農耕の技術、清内路の人々のやりかた、つまり文化でした。


 今では「出づくり」の集落のほぼすべてが廃墟になっています。この村から「出づくり」が消滅して行った経緯は、利己的市場経済があちこちに不幸をまき散らしながら地球上を占拠して行った歴史と重なります。特に戦後の日本において統制を強めた自由主義経済、消費を基軸にして成立する非創造的な、自由なんてうそっぱちの経済が社会を変質させて、やがて文化や精神性や誇りよりもお金を拠りどころとする風潮が国内に蔓延していったとき、この村の人々は農業や林業をやめてサラリーマンになっていったのです。

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 1960年代、農業や林業は前近代的で貧しいものだという宣伝が社会のあらゆる階層で大々的に行なわれました。自分の手で何もしない便利な生活が豊かで楽しく、それを手に入れるためにはお金が必要で、お金を安定的に手にするために個を滅して生涯にわたる忠誠を会社に誓う、いわゆるサラリーマン化が国家的な規模で奨励された時代でした。サラリーマン化はよく見ると秘密結社化に似ています。

 これは結局、お金を動かすことによって利潤を得る一部の金貸したちの全世界的な施策に国家が相乗りした結果だと思うのですが、ともかく、日本の社会は総動員体制でお金を追い求め、効率を求め、他人の財布から掠め取るように利益を上げることが賞賛されるという野蛮な状態に陥りました。文化や歴史、人と人の繋がり、家族の繋がり、世代間の交流や地域の交流、人間としての尊厳や誇りなど、社会を重層的に豊かにするための技術をどんどん排除して進んで来たのです。

 それまで自立して豊かに暮らして来た山間農地は、不便で暗く、余暇もなく貧しい暮らしをする場所として宣伝されました。無自覚に情報を垂れ流す日本のテレビメディアによってそのイメージは大量に頒布され、更にアメリカの圧力に屈した政治行政によって農地は不要とされ日本の国土からどんどん姿を消して行きました。その中で農業が生き残って行くためには、平均化された全国的な組織の中で統制された個性のない産業に変質するしかありません。大型機械や農薬に頼って大量生産と安定供給だけを目指す活力のない産業です。

 おそらく、清内路村のように地理的に個性の強い地域は効率が悪く、統制にそぐわないだろうと思います。しかるに農地や森林を捨ててサラリーマンになることが、清内路村では唯一に近い選択肢になってしまったのではないでしょうか。
 清内路村の山林はどんどん荒れ、山間に開拓された農地は放置され、与えられる利便性が社会の常識になり、利便性が充分に届かない村に耐えられない人は出て行きました。清内路村の個性、存在理由となっていた要素は次々と消滅し、経営資源を失った地域の産業は衰退して、財政もままならない過疎の村となって行ったのです。

 平成16年、「これはいくらなんでもおかしいぞ」と感じた清内路の人たちは、村役場に行って村の現状を詰問しました。そこで判明したのが逼迫した村の財政です。「村になんとかしろと言ってももう無理なんだ」ということを、清内路の人たちは自分の目で確認したのです。
 最初は当然、大混乱。どうしたら良いのか、清内路の人たちは途方に暮れました。自分の住んでいる地域の財政が崩壊しているのです。行政サービスの多くが機能しません。財政を再建できるようなお金はどこにもありません。旧来の方法、産業を誘致したり、工場を誘致したり、無理矢理何かを引っ張って来て設置する方法は不可能です。地域産業は消滅してしまっているので、それを手掛りに新しい産業を創成することもできません。そんなときに住民はどうしたら良いのかなんて、清内路村に限らず、誰にもわかるはずはありません。

 何度も寄り合って話し合った結果、直接打開するアイディアなど出ない中で、とにかく自分たちのことなんだから自分たちでなんとかするんだ、という意識が自然に盛り上がって来たそうです。

 そこから、清内路の人々の闘いが始まりました。自分の住む場所、清内路がどんな歴史を持ち、かつてどのように暮らし、どのような性質、個性があり、何を大切に生きて行くべきかを考え始めたのです。その過程で浮かび上がって来たのが、古来からの伝承、歴史の物語であり、戦後の高度経済成長期に起きた出来事に対する評価であり、大まきに宿る清内路の精神性、誇りだったのです。

 「温故知新」という言葉があります。歴史を無視しては未来なんてありえません。良いことも悪いこともすべて詳らかに水平に認識していないと適切なアイディアは生まれません。清内路の人たちは、戦後の日本の社会が放棄してしまった大切なものをもう一度思い出すことから始めたのでした。

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 いま、清内路村の村役場に行くと、玄関に「自分のことは自分でする」というスローガンが大きく掲げられています。経済状態の改善は間に合わなくて、来年の春には阿智村と合併することになったのだと思います。行政区分としての清内路村は消滅します。
 けれど、自分たちの歴史や文化を再認識し、自分たちの方法を取り戻そうとし始めた清内路は、吸収合併されたとしても、自立した地域に戻るための力を取り返せる可能性は高いと思います。

 現在、清内路では面白い試みがいろいろと始まっています。「出づくり」の廃屋を利用して宿泊しながら都会の若者が農山村の生活を体験したり、週末にはそこでDJパーティーが開かれておじいちゃんやおばあちゃんが一緒に踊り明かしたり、落雷で折れた大まきの枝でコカリナを作ったり、自分たちの力だけで音楽会を定期開催したり、いろいろなことが始まっています。

 その楽しそうな様子については、また今度、その(2)でお伝えします。

【Ngene掲載:2008年8月10日】
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宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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