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大鹿歌舞伎・片桐登インタビュー(下)

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 § § §

 アジア太平洋戦争後、少しずつ下火になり始めた大鹿歌舞伎に新しい目標を与え、時代に沿った新しい局面へと発展させてきた片桐さん。片桐さんが全国地芝居連絡協議会の会長を務めることでも伺えるように、いまや、大鹿歌舞伎は全国の地芝居の代表格です。2000年3月には、地芝居として初めて国立劇場で上演されました。

 インタビュー後半は、村じゅうで賑やかに歌舞伎が上演されていた時代から、少し翳り始めた頃のこと。その精神性や流儀を守りながら、普及させるための保存会の設立に尽力した、昭和中期あたりのお話です。

大鹿の村には、一年じゅう歌舞伎があったわけですが、それぞれの神社で一年に2回ずつ定期公演があると、村全体では、一年間に18公演。……考えてみるとすごいことですね。

 なぜできたかっちゅうのは、衣装を持っとったということですね。中峰で、自分たちで、かつらも衣装も持っとったんです。昔、大正天皇の即位記念に大芝居を打って、そのときに、寄付を募って衣装を作ったんです。そのおかげで、その衣装を方々に持ってって、いま話した九つあった神社どこでも持ってって、それで芝居をやっとったんです。
 まあ、そういうふうにやっとるうちに、素人の作ったようなものばっかでもない、他所から買って来たものから、いろいろありましたけど、やっぱりその、いいものには目が利くようになるもんだから、そうすると、今度は、飯田にいろいろありまして。

 鼎の上茶屋っつうとこに、綺羅屋(きらや・歌舞伎の衣装屋さん)がありましてな。上茶屋の綺羅屋は「秋山」っていう、「秋山綺羅屋」っていって、そこと、飯田駅から銀座へ通り抜ける中央通りの、あの下の四つ角のちょっと上がったとこに「河合」っちゅう写真屋さんがありますが、あそこが、元の年寄り衆は衣装屋さんだったんです。
 そこのおじいさんが、どこの出の人だったか、ちょっとわしは知らんけども、その人が、男ながらなかなか裁縫の強い人で、自分でほとんど作ったって言っとったでな。で、その奥様が、松川の方から大鹿の方へずっと来たとこの生まれの人で、どういう関係だか知らんが、一緒になって衣装屋をやっとって、大鹿へもたまに衣装持っちゃあ来てくれたんです。

 昭和22年かな、飯田が丸焼けになった時がありました。あのときに、みんな焼けたけえども、そのうちには地下があって、衣装だけ焼けなかった。カメラは上の方に置いてあったもんで、みんな焼けちゃったんだけど。それで、その火事になってっから、とてもへえ、こら飯田が立て直ったって歌舞伎なんかできんらで、衣装持っとったって商売にならんらで、買ってくれよって来たんな。ところがその、わしが頼んだ村長は、そんなもの村で買ったってどうしょうもねえって。そりゃあ、何百万ちゅうもんだもんで。

ー!何百万、なんですか。

 そうな。……それで、細かい話するとおかしくなるで言わんけども、大鹿で買ってくれっちゅうことで来たんだが、そういうわけで、すぐに買えたわけじゃないもんで、そのあいだに、持って来た人の奥さんが具合悪くなっちゃって、どっかに売っちまうっちゅうことになって、冗談じゃねえじゃねえか、おれら買うって言ってるときに、そっちから持って来といてなんだって、トラブルみたいになりまして。結局、わしが農協から金借りて、保証人を、歌舞伎役者に幾人かなってもらって、買い取ったんな。それが、おかげで、今残っとる。

 わしんとこの衣装の、一番高いのは、かつらが、ひとつ百五十万。それは、作ったのは「東京かつら」かどっかだけれども、取り扱ったのは「松竹衣装」で、京都の「長野かつら屋」っていうとこの人が、そのかつらを見たときに、「これはこういう人の作じゃないかな?」って言う。「やっぱりな!」。そのとおりで、今その人は亡くなって、このかつら作れる人は、もう日本にはおりません、というもので。

 衣装は、今みんな公民館の2階にあるで、行って見てみれば、これがいくらのものかって、ちゃんとわかる。
 恐れ入るのは、わしの方が恐れ入っちゃって、へえ、手が出なんだけど、六千両(「六千両後日之文章・重忠館の段」)の景清だとか、「日本太閤記十段目」の加藤っちゅう荒武者のような役が着る、金モールで刺繍したような「四天(よてん)」という衣装があるが、それは、使うようになってしばらくになるもんでね、まあ、おそらく、昭和のはじめか大正の頃からのもので、それが、襟が切れて、あちこちほつれて来たもんで、これを一枚なんとかしたいと思うけど、いくらかかるんな?っちゅったら、七百万だ。(驚!) ……一枚だに。……いやあああ、それでへえ、もうなん、その話はだめだっちゅって(笑)。

ーひとつがそんな値段ていうことは、大鹿歌舞伎は演目も多いし、衣装もかなりの量がありますよね?

 そりゃもう、素晴らしい。NHKが来て見たときに「うちの衣装屋よりあるな」って。

ーそれ全部公民館なんですか?

 置いとく所がないと困っちゃうで、絶対にきちっとしとかにゃ、盗まれたりするで、鹿塩の公民館の2階を、そういうふうに作ってもらって、衣装はそこにあるんです。
 ……あれ、せっかく作ってもらったのに、惜しいことをした。2階は、今になってみると、年をとったらかなわんのです(笑)。荷物は、手動式のエレベーターがあるんだに、衣装は、持って上がったり下がったり、まあず骨が折れるで(笑)。

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 § § §

 写真家・宮本辰雄さんが編纂した記録によると、この基礎的な衣装を整えたのは、片桐さんの一代先代の師匠である、古屋敷頼隆(ふるやしきよりたか)さんの父・古屋敷浅次郎さん。明治時代後期のことです。中峰綺羅(なかみねきら)と呼ばれ、前述(片桐登インタビュー・上)の、葦原神社の氏子たちが寄付を集め、女衆の手によって製作されたり、購入されたりしたものです。中峰は、大鹿の中でも特に歌舞伎が盛んで、片桐さんしかり、大勢の名優や師匠を輩出していますが、いろいろな面で、大鹿歌舞伎の中心地だったようです。

ーそのあたりから、片桐さんは、大鹿歌舞伎を率先してやっていたんですね。

 ところが、そうしておったら今度は、公民館長が、歌舞伎の嫌いな人になって、なにかっちゅうと「歌舞伎なんかの話はうるせえわ!」って(笑)。

ーはあ、そんなときもあったんですか(笑)

 あああ、それは、難儀な時がありました(笑)。
 そうしとるうちに、今度は、わしが教育長になって。もう誰も、怒る人はおらんわけです(笑)。もう、どんどん、どんどん、村長と話をして、どんどん。
 5千5百万円貰ってな、竹下登っちゅう総理大臣が、一億ばらまいたことがあって。……今度の、麻生さんも、いくらかくれるとか言っとるけど、給付金、一万だか二万だかもらっても、何の足しにもならん。(笑)……写真機も買えやしない。

 1億くれた時の5千5百万を歌舞伎に……。歌舞伎にそれだけ貰うっちゅうことは、これもまた、難しいことだったんですが。村民が、何を、大鹿で大事にしなけりゃならないか、充実してかにゃならないか、というアンケートを取ったら、歌舞伎を充実しろっちゅうのが、六割の余(よ)もあって。

ーああ、それは素晴らしいですね。

 それだもんで、へえ、村長も議会も、何も言わんの。5千5百万、どうしても用があるんで下さい、それ貰っといて、まだ、1千5百万、わしの後継者づくりの基金に積んでもらった。
 その時の、5千5百万貰ったやつと、1千5百万の後継者基金に積んだのと、それから、信濃宮の建設や、いろいろなことがあって、歌舞伎が今日に繋がって来たっていうことなんです。

 信濃宮は、あれは、さっき言ったように、地域の衆が作ったもんじゃないもんで。皇族を祀るために、県が、県社を建てるために作り始めたんだけど、一年くらいのことで戦争に負けちゃったもんで、それで、へえ、その計画が潰れちゃった。それだけど、もったいない、国有林から、もう、材料でも何でも、みんな伐ったったもんで、それで、奉賛会が中心になって、今の建物を建てた。もちろん、村の衆も一緒になってやったけど、もう、村の力じゃあ、とてもできなんだんです。

 公民館で歌舞伎をやってったらどうか、という時があって。各自治会に分館長がおるもんで、その時分には部落っちゅったけど、部落の分館長に頼んで、その組織の中でやりゃあいいじゃねえかと、菅沼という村長の時に、そういう話になって。
 それじゃあ、その話し合いをしますでって、会議を開いたら、えらい剣幕になっちゃって。歌舞伎のような厄介なもの、どれだけ手間がかかるんだか、歌舞伎なんていうのは。昔は昼間、弁当を持ってっちゃあ、練習を三ヶ月ぐらいやったんです。そういうことを知っとる衆がおるわけだもんで、公民館にそんなもの持って来たって誰がやるんだっちゅう。会議を一回やったら、どえれえ荒れて(笑)、村長も、へえ、もうだめだでこれは、公民館もだめだ、とにかく、保存会はおめえに任せるから、なんとしてもやってみろっちゅって。それから保存会を作り上げたんです。そのとき、一番初めは「大鹿村無形民俗文化財保存会」っちゅう名前だった。

ーそれが、昭和33年のことですね?その、国や県の文化財に指定されたのは、いつぐらいなんでしたっけ?

 それは……、それより後だった。県がなん、昭和49年。国は、昭和52年。

ー当時は、そいうことが一切無い中で保存会が発足したんですね。で、それからずっと、片桐さんが中心になって進んで来ているんですね?

 ええ、村では、そうしんとダメだと。「大鹿村の無形文化財という形にして、守ってかにゃあだめだ」ってわしが言い出したもんだから、村が、そういうことでやりましょうっちゅうわけで。

ーそのときは、片桐さんは師匠だったんですか?

 師匠っちゅうよりも、とにかく、なんでもかんでも、わしが内容知っとるもんだから、わしが先に立ってやらなけりゃならんもんで。公民館の館長だっておったし、主事だって、その時分、二人おりました、鹿塩と大河原に。けれど、歌舞伎を先に立ってやるっちゅう力はないんで。これは、特殊な技術がいるもんだから、だから、村長から「片桐がやれ」という、これは特命だったんです。

 § § §

 そのとき、大鹿歌舞伎の師匠は、片桐さんだけになっていました。明治期から、片桐さんに至るまで、記録に残る人物だけで、8人の師匠が、大鹿歌舞伎にはいました。飯田の町に、長期間滞在している座があるときは、通い詰めて、玄人の芸人に指南し、中には、そのまま旅に付いて修行をしてきた人もいるとか。芸を究めた師匠のもと、大勢の名優や義太夫語りの名手が村人の間に存在し、生活し、山の仕事や野の仕事をしながら、長い歴史を積み重ねて来たのです。
 アジア太平洋戦争を境に、日本固有の文化は、前近代的な遅れたものとして刈り取られて来ました。大鹿でも、それを境に、歌舞伎はどんどん下火になっていったのです。伝承芸能の保存というのは、どこでも直面している問題ですが、大鹿歌舞伎が、これだけ魅力的な、芸域の高い芸能として続いて来ているのは、陳列ケースに入れて保存するのではない、大鹿村の歴史を土台に、大鹿村の精神性を宿して、大鹿村の生活に根づいた方法で、保存継承が行なわれ、さらに、その真髄を外すことなく、積極的に外へ向けて発信しているからだと思います。

 その方針を貫いた片桐さんの、面白い話は、まだまだたくさん続きます。それはいずれ、また、どこかで伝えて行きたい大切な物語です。

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【Ngene掲載:2009年1月14日】

(上)|(下)|
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Re: 続きが読みたいです。

福島様

片桐さんのインタビュー記事を書きました、宮内と申します。

コメントをありがとうございます。

竹本登太夫、片桐さんのインタビューは2009年。その後、自分の状況が大変になって、なかなか取材ができなくなってしまい、片桐さんのお話しの続きも聞きに行けないまま3年がたってしまいました。

現在も、多忙なため、なかなか記事が書けませんが、できるだけ早く、活動を再開して、おっしゃっている下条歌舞伎の会長さんにも、是非インタビューを試みたいと思います。

本当に、勇気づけられるコメントを、どうもありがとうございました。
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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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