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雪まつりを追いかけて新野をあるく

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 新野の郷はずいぶん高い、高い山を越えたところにあります。長野県の南端、阿南町新野。飯田市から南へ国道151号線を30分ほど走った阿南町の中心部から更に30分、つづら折りの急坂を登りきり、峠を越えたところに、ぽっかり忽然と出現する、やさしい空気の高原の郷です。周囲をぐるりと、薬研の縁のように滑らかな山で囲まれていて、なんだか守られているような安堵感を感じるのです。

 国道151号線、かつての遠州街道は「祭り街道」。ふもとの早稲田では「人形浄瑠璃」、深見の「祇園祭」、隣りの谷筋に入ると、日吉の「御鍬(おくわ)様のお練り行列」、和合の「念仏踊り」。遠山郷や奥三河地方、豊根村や東栄町、新城といった、神楽や薪能、田楽などの民俗芸能の伝承地へもほど近く、ここ新野は、天竜奥三河をめぐる「祭り街道」の中心地と言えるかもしれません。新野だけでも「行人様御開帳」「盆踊り」「霜月祭り」「雪まつり」、民俗芸能としての色彩も濃密な、神送りの系譜を継ぐ年中行事が季節ごとに行われています。

 柳田國男と並ぶ日本民俗学の開祖・折口信夫は「雪まつり」に惚れ込み、幾度となく新野を訪れたそうです。いわく「芸能を学ぶものは一見の必要あり」。初めて雪まつりを見たときに、厳然と祭の流儀を崩さない新野の人々の誇り高い情熱に触れ、すっかり魅了されてしまったということなのです。今でも、その雰囲気は祭の中にくっきりと継承されています。

 「雪まつり」。
 新野の南はずれの高台にある伊豆神社で、田楽、舞楽、神楽、猿楽、といった日本の歴史に特筆される民俗芸能が夜を徹して繰り広げられる、ものすごいお祭。

 本祭の日、祭の行列「お上り(おのぼり)」を追って新野の郷を歩いてみました。

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 「お上り」は、新野の北はずれにある諏訪神社から出発します。祭のための面、装束や道具を、雪まつりの舞台である伊豆神社まで運ぶための行列です。

 街道の東側に広がるなだらかな畑の斜面を、諏訪神社の参道がまっすぐ登っています。平地の端に林が並び、その背後に小高い里山がぐいっと盛り上がっています。
 ひときわこんもり繁る諏訪神社の森に、出発を待つ人々が並んでいます。

 内輪衆、氏子総代、市子(いちこ)と呼ばれる氏子の少女に先導された行列には、いろいろな装束をまとった大人や子供、弓、旗、真紅の陽傘、太鼓、そして、祭の道具を納めた「御輿」などを担いだ、いろいろな役割の人々が並びます。太鼓を背負った人から後ろ、行列の後ろ半分は、手に手に笛を持った四十人の子供たちが続きます。

 行列はゆっくりと出発。ゆったりと単調な太鼓の音に合わせて、風雅な笛の旋律が繰返されます。白い雪に被われた野辺を、楽の音とともに通り過ぎて行く行列は、なんとも幻想的。

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 総勢四十名の子供たちの笛の音は、みごと。みんな、各自の笛を持って、伝承されている旋律をしっかり奏でながら、歩いて行きます。新野では、学校で祭りの笛を習うのです。だから、みんな本当に馴れた指使いで、この節回しを奏でています。
 先頭の市子にはじまり、行列には、いろいろな年齢の子供たちが、それぞれの役どころで参加しています。誰でも良いわけではありません。行列に参加できるのは、概ね7歳から15歳まで。少しずつ役割があって、その仕来りに従って行列ができているのです。子供の人数が減少して継承が危ぶまれる祭があちこちにある中で、雪まつりに参加する子供がこれだけ多いのは、頼もしいかぎり。

 行列は、畑の中の道を進みます。沿道の家々は、門口に赤い提灯を掲げて行列を見送ります。このあたり、諏訪神社の周辺は大村という地区。諏訪神社の氏子の集落です。畑の間に家々が散在する牧歌的な風景。「お上り」の行列は、広々とした野辺を、ゆるり、ゆるりと南へ向かいます。

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 大村のはずれにある家の前で、やおら笛の音が陽気な旋律に変わりました。それまでゆったりしていたテンポも、にわかに早まります。
 この家は、かつて「お上り」の出発地点だったということです。おそらく、この大村集落の有力者だったのではないでしょうか。その当時は、祭の道具がこの家に納められていて、家の前でひとしきり舞を舞ってから出発していた、ということなのです。その習慣が形を変えて現在の仕来りになっているのです。ちゃんと昔の事を記憶の中に留めた仕来り。活きた文化ですね。

 行列を見送る、おばあちゃんとお孫さん。
 このお孫さんも、去年までは行列に加わっていたのです。きっと、幼い頃の市子に始まって、ずっと「お上り」に参加していたのでしょう。今年は高校生。「お上り」は卒業です。行列を見送りながら「一緒に行きたい」と、おばあちゃんや近所の人たちと話しています。
 おばあちゃんが手にしているのは、お浄めの水。塩水です。行列が近づくと、南天の葉でこの水を祓って、場を浄めるのです。

 白く雪の積もった野辺を、優雅な笛の音とともに、行列はゆっくり進みます。

 新野の郷には、野原や路傍のあちこちに無造作に、こぢんまりと、お墓があります。一カ所に集められて塀で囲われている墓地はありません。陽当たりの良い土手の上などに、当たりまえみたいに、すぐ近くに、ぽろぽろとお墓が立っているのです。お墓には、必ず新鮮な果物が供えてあったりします。なんだか、死者やご先祖さまとの距離も、心地よい。

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 大村を抜けた「お上り」の行列は、国道151号線「祭り街道」を南下します。ここから1時間半くらいかけて、南はずれにある伊豆神社まで行くのです。

 新野は、昭和中期に合併で阿南町が誕生するまで、旦開村(あさげむら)といいました。今は、新野の中心にある郵便局や数軒の商店などに、その名前を留めるのみ。この山間地の行政区画は、明治期から著しく変わってきています。その昔は、それぞれ里ごとに細かく分かれた小さな村だったようです。明治初期に、32あった小さな村が合併して富草村、大下条村、旦開村の3つに。その後の市町村制施行を経て昭和中期まで、何度も分立と合併を繰返した後に阿南町になった経緯があります。この山間地の特異な地形や里の広さ、分布がその要因となったのでしょうか。

 「お上り」を待ち受ける新野の中心街。原町、東町、本町、という3つの地区から成る商店街です。山深いこの場所に、これも忽如として現れた天空の街のような雰囲気。
 そしてここは、夏には盆踊りが行なわれる街路です。
 「新野の盆踊り」。
 盆踊りといっても、太鼓や三味線の賑やかな音頭を踊るものとは、ひと味違う。数名の音頭取りの唄と踊りが折り重なって、朝まで続く神事に近い祭りなのです。踊り手や観衆と音頭取りが掛合ったり、唄い合ったり、徹夜でいろいろな唄や踊りを繰り広げるのです。これもすごい祭りですね。

 さて、行列の到着時間が近づくと沿道の家々から、辻々から、人々が街道筋に出て来ます。家の軒下には、大きな赤い提灯。行列が近づいて、笛と太鼓の音が、かすかに街の奥から聴こえて来ます。だんだん陽は傾き、赤い提灯に、あかりがともり始めます。きれいです。

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 行列がやって来ました。沿道の家の人々が、てんでにお浄めの水を入れた桶や器を持って、リレーのように家から家へ、行列の先頭で水を祓います。みんなが南天の葉を使うのかと思ったら、そうでもありません。松の葉を使っている家もあります。南天は難を除ける。松には神が宿る。

 本町のはずれで商店街は終わり、「お上り」の行列は、南へ曲がって終点・伊豆神社の氏子の集落である砂田、栃洞(とちぼら)へ入って行きます。

 砂田の集落では、どの家も玄関口に鬼木(おにき、あるいは、にゅうぎ)という、独特の松飾りが設えてあります。薪を積み重ねた独特の松飾り。これは、新野だけに見られる小正月の松飾りです。ちなみに、正月は一般的な門松を立てます。その門松は、正月が終わると神社に集められて、雪まつりの松明に使われます。
 路傍の茂みに隠れた祠にも、鬼木が飾られています。いいですね、この祠。砂田集落に入るとすぐの道端にあります。

 雪まつりの舞台となる伊豆神社です。新野の南部、砂田集落の路地の中ほどに鳥居が立って、そこから、小高い山の中腹にある境内まで、急な石段、坂道の参道をひとしきり登って行きます。

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 行列が伊豆神社の入口に到着しました。諏訪神社を出発してからここまで、およそ2時間弱。長い行列の最後に、ひっくり返るくらい急な石段。みなさん、ものともせずに登って行きます。色とりどりの旗や道具が、蛇行しながら斜面を登って行きます。

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 伊豆神社の鬱蒼とした森の中の参道。こんなに急な階段、手ぶらで登るのでもずいぶん大変。みなさん、道具を担いで登るのです。大きく仰ぎ見た所に、境内の明かりが見えます。

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 参道の途中で振り返ったら、眼下に、とても幽玄な新野の郷の夕景。真っ白な冬景色なのに、なんだか、暖かい風景です。すぐ足下の集落が砂田、向こう側の山のふもとが栃洞。

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 行列の通り過ぎた砂田集落の玄関。「お上り」の行列が伊豆神社の境内に到達したころ、すっかり陽が落ちて暗くなった家々は、提灯に赤く照らされて、ひっそりと静まり返っています。雪まつりのクライマックスまで、しばし休憩です。

 さっき行列で賑わっていた街も、別の場所のように静かです。凍った路面に、街灯や提灯の明かりが反射してます。きれいな街並です。深夜、伊豆神社の境内に松明が灯るのを、次から次へと舞が繰り出される時間を、静かに待ち構えているみたいです。

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 そのころ、伊豆神社の境内では「神楽殿の儀」が行なわれていました。

 伊豆神社は、とても美しい神社です。急な階段を登り詰めたところに忽然と現れる境内。瀟洒な姿の本殿、長い高床の渡り廊下で繋がれた右翼に、この神楽殿があります。深い森の匂いが満ちています。そこかしこで焚火の煙。薪の燃える匂いというのは、ほんとにいいですね。

 神楽殿では、おじいちゃんから子供まで、笛と太鼓に合わせてかわるがわる踊り続けています。松明に火が放たれて祭りが賑やかになって行くまでの数時間、延々と静かに舞が繰返されます。
 舞の合間には、長老のおじいちゃんが、屋台からヤキトリを買い込んで、子供たちに振る舞います。いろいろな話をしながら、3世代に渡る智慧の交流が、この祭りの中で行なわれます。

 「雪まつり」。
 深夜午前1時に松明に火が放たれます。
 ここから先はとんでもなくすごい世界に入ります。
 別世界です。

 これについては、もっとしっかりしたレポートを、来年の雪まつりには実現したいものです。
 今回のレポートは新野の郷を紹介するに留め、この日、朝まで伊豆神社で過ごした戸塚基治さんの写真を数点お借りして「雪まつり」本祭りのほんの一部をお伝えします。

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「神楽殿の儀」「大松明起こし」「伽藍様の祭り」
「乱声(らんじょう)」「幸法(さいほう)」「茂登喜(もどき)」「競馬(きょうまん)」
「翁」「松影」「正直翁」「海道下り」「神婆(かんば)」
「天狗」「八幡」「しずめ」「鍛冶」「田遊び」
 ……雪まつりの次第。
 ものすごく楽しそうです。

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写真:宮内俊宏、戸塚基治 文:宮内俊宏

【Ngene掲載:2009年1月29日】

阿南町ホームページ「新野の雪まつり」
戸塚基治さんホームページ「与話情浮世蜻蛉」
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「事の神送り」を追いかける(その1)

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 古来伝承する民俗芸能の宝庫・南信州。阿南町周辺で行なわれる四季折々の祭り、天龍村や遠山郷の霜月神楽、そして大鹿歌舞伎など、既に有名になっている民俗行事を筆頭に、国指定あるいは選択の無形文化財だけでも10以上を数えます。さらに県や市町村の文化財から無名のものまでを含めると、本当に数えきれないほどの魅力的な民俗行事が山深いこの地域に潜んでいるのです。

 「事の神送り」はまだあまり知られていない行事です。ホームページで検索してみてもほとんど記述が見当たらない。けれどこの行事は、南信州、秋葉街道を中心とする山間地域の歴史や習俗を伝えるとても魅力的で重要な行事なのです。
 「事の神送り」一連の行事が行なわれているのは、飯田市上久堅を中心に、千代、龍江、そして喬木村といったきわめて限られた隣接地域。日本の各地でさまざまな風習が伝えられているコトヨウカ行事(事八日行事:12月と2月の8日に疫神が去来するという言伝えにまつわる行事)のひとつになるわけですが、その中でも、この地域では特に個性的で濃密な流儀によって伝承されています。

 南信州の伝承文化を個性的な地域づくりのために振興しようと昨年2008年の4月から飯田市を拠点に始まった「フォーラム南信州~祭りの流儀~」が、今年2月の行事に合わせて「事の神送りを追いかける」というプログラムを敢行しました。
 飯田市美術博物館・桜井弘人氏の調査チームを除いては部外者が踏み入ったことのない未知の行事「事の神送り」。その行事に、地元・飯田市周辺はもとより、南は静岡県磐田市、浜松市、北は岡谷市から、伝承芸能や文化、地域政策についての認識を持った20名ほどが集まりました。プログラムの参加者は2月7日から9日にかけての3日間、上久堅越久保(こいくぼ)、そして千代芋平(いもだいら)から北上して喬木村との北境まで、祭列を追って歩き回ったのです。
 ものすごく面白い、楽しくて考えさせられる3日間でした。

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 上久堅は南信、伊那谷南部の竜東(りゅうとう)と呼ばれる、つまり天竜川の東側にある中山間地にある地域です。地域の平均標高およそ750メートル、伊那山脈の西向きの斜面に広がった南北に長い机状の高地です。はるか眼下に箱庭のように見える飯田の市街地。天竜川対岸に連なる2,000メートル級の木曽山脈を眼の高さに眺め、広々とした空が間近に見え、夜は零れるような星空が天蓋となる天空の里です。

2月7日、上久堅越久保(こいくぼ)

 風張(かざはり)という上久堅の中心部から東へ、秋葉路に沿って伊那山脈の山裾を登り始めるあたりが越久保です。上久堅の中でもひときわ見晴らしの良い高台にあります。ここを通る秋葉路は小川路峠を越えて遠山郷の上村、秋葉街道の本線へ抜ける山道。かつての越久保は秋葉路を往来する荷物輸送のための馬宿が並び、遠山郷と伊那谷の間で行なわれる生活物資の仲買によって潤っていた地区です。

 秋葉路沿いのひときわ飛び出した高台の突端に「越久保センター」があります。「事念仏」「風の神送り」のホームになる場所。越久保地区の集会所で、宿泊研修施設の機能も兼ね備えています。広々とした2階建て、屋根裏に天体望遠鏡、木をふんだんに使ったとても居心地の良い家屋です。2階の和室からは伊那谷の大パノラマを一望できる。フォーラム南信州「事の神送りを追いかける」チームはここに一泊して、7日の夕方から8日の朝にかけて行なわれる越久保の「事念仏」と「風の神送り」を見学するのです。

 7日の夕方。
 越久保センターに子供たちが集まって来ています。「事念仏」の準備が進みます。

 越久保の「事の行事」はこの地域の中でも更に特殊で、「事念仏」も、翌早朝の「風の神送り」も、現在でも完全に子供たちだけで執り行なわれています。それも8歳から13歳の子供たち。13歳の最年長者が「頭取(とうどり)」となり、同年、一年下くらいの子がそれを補佐。年少者を統率しながら、みんなで話し合いながら、その年の祭りを進めます。
 大人たちはそれぞれの家の門口や集会所・越久保センターで静かにそれを見守ります。基本的に大人は誰も祭列に随行せず、口出しも一切しません。

 夕方4時。
 越久保センターの広い庭の一隅で太鼓と鉦の音が鳴り始めました。
 「事念仏」のはじまりです。

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 太鼓を背負うのが「頭取」。祭列を仕切ります。同年、一学年下のうちの2人が頭取の背負う太鼓を叩き、もうひとりが鉦を叩きます。それ以外の子供たちが越久保センターの敷地をグルグルと走り始めました。みんなで念仏を唱えながら、何周も回ります。

 「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨、南無阿弥陀仏(ナンマイダー)、ナンマイダー」。

 太鼓と鉦に合わせた一定律で念仏を唱えながら7周走り、いよいよ「事念仏」の祭列が出発。まずは、越久保センター脇のお堂にお参りします。

 この地域の集会所はどこも、元はお堂でした。越久保センターのお堂は愛宕様。今はとても見晴らしの良い段丘の突端に祠となって祀られています。周囲は畑。いくつかの墓標が南や西を向いた暖かそうな斜面に、伊那谷の風景を見晴るかすように立っています。居心地良さそうです。

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 「事念仏」は子供たちが集落を廻って人家や神様が祀られている場所で念仏を唱える行事です。先頭を行く「頭取」が背負っているのは獅子舞に使う大太鼓。けっこう重い。その後ろを、年少者たちが続いて念仏を唱えて廻ります。
 随分早足で進みます。急な坂道の多い越久保の複雑に折り重なった段丘を縫うように、子供たちは足早に元気に家から家へ、神社や祠へ、集落の中を順番に回って行きます。

 家々の玄関口や神仏の前に並ぶと、頭取の「今日事を申します(こんにちこ~とをもうします)」という口上に続いて念仏を唱えます。何回か念仏を繰返した後、頭取は「神様はいらっしゃいますか?」と家の人に訊ねます。ある家は家の中に神棚があったり、ある家は庭先にお地蔵様があったり、あちこちにいろいろな神様が祀られているので、子供たちはひとつひとつ、玄関先から神様の方を向いて神様の名前を呼びかけ、口上を述べてから念仏を唱えます。

 一連の念仏は、頭取の先導、太鼓と鉦に合わせてリズミカルに進みます。念仏が終わると「会計」の子が家の人から「オダチン」を受け取ります。そして「お宝」といわれる五色の幣束を頭取の背負う太鼓に挿してもらって次の場所へ向かうのです。
 早足で向かいます。
 「だいぶ足はやい、追いつくのがやっとだ(汗)」と音を上げていると、「まだたくさん回らんならんもんで、早くしんと夜中になっちゃう」と言う。

 子供たちは元気です。急な坂道をものともせずに駆け上がります。みんな素直でのびのびしています。頭取の言うことをよく聞き分け、みんなで真剣に話し合います。

 越久保の起伏に富んだ野辺には、あちこちに神様がいます。古い道祖神やお地蔵様、路傍の石、桜の古木。大切に守られて来た神社があり、鬱蒼とした鎮守の森があります。秋葉路の先、権現山の方から流れて来る川のせせらぎと風の音しかない静かな谷間に、太鼓と鉦と元気な子供たちの念仏が響きます。あっちへ、こっちへ、事念仏の気配が渡って行きます。

 坂道を一番底まで下った集落のはずれ、最後の家で念仏を終えた子供たちは集落の内側を向いて横一列に並びます。ここから坂の上の次の順路まで念仏を唱えながら一気に駆け上がるのです。絶対に振り向いてはいけません。事の行事は全体的に後ろを振り向いてはいけないことになっているのですが、村はずれから内へ戻って行くときは特に厳重で、ひとりでも、少しでも振り向いた者がいると、後ろ向きのままスタート地点まで戻って最初からやりなおしになるのです。
 坂の頂上まで戻ると、横一列に並んで頭取の到着を待ちます。
 「うら向いたやつはいないか?」頭取の厳しい詰問が飛びます。
 もじもじしていた小さな男の子が、ほどなく「向いた」と白状します。
 全員坂の下まで逆戻りです。

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 今年の「会計」の女の子です。なかなかしっかりしたかんじの女の子です。手にしている帳面に各戸から渡されたオダチンの金額が記入されています。
 越久保の事念仏は完全に子供たちだけで進められます。途中で何か問題が持ち上がると、その都度、村の辻々で頭取を中心に話し合いが始まります。みんなで話します。
 下級生たちが次の運びに行けるまで、頭取は腕組みしたままじっと待ってたりすることもあります。当然、その年の頭取によってやり方が違うのですね。周りで見守っている大人たちの話では、今年の頭取は随分厳しいらしいです。なかなか頼もしい少年です。

 日暮れころ、頭取の少年の家で、事の行事の儀礼食「コトウボタモチ」が振る舞われます。その年の頭取を務める子供の家で祭列をもてなす習わしなのです。
 西の山の端に太陽が沈むと、越久保の里はどんどん暗くなって行きます。頭取が「一番星見つけたやつには褒美をやる」と。だいぶ歩き疲れて来た子供たちがにわかに元気づきます。

 日が沈むと、念仏を導く頭取の口上は「今晩事を申します(こんばんこ~とをもうします)」に変わります。

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 夜。
 月明かりに浮かぶ越久保・天空の里の風景です。神様がそこかしこに里を見守る、美しい夜です。
 事念仏の子供たちは一旦越久保センターに帰って夕食です。お母さんたちが「コトウボタモチ」や豚汁を用意して待ってくれています。しばし休憩。

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 越久保センターの夕食です。
 ここに一晩宿泊するフォーラム南信州の参加者のために上久堅のご婦人方が美味しい夕食を用意してくれました。もちろん御務め中の子供たちと同じ「コトウボタモチ」が中心の祭りの食事です。ボタモチはとても嬉しい、黒胡麻、黄粉、青豆粉、小豆餡、4つの味です。
 上久堅のご婦人方はとても気前が良くて料理上手。ショウガの利いた具沢山の豚汁が大鍋いっぱい。なんとも美味しくて4杯!おかわり。緑色のお茶の粉をまぶした大豆、御葉漬け、上久堅の露地で採れた野菜や郷土食がテーブルいっぱい。

 越久保センター。
 また泊まりに行きたいものです。

 そして、食事を終えた子供たちはふたたび夜の里へ歩きだします。少ししめった夜風の向こうへ、太鼓と鉦と念仏の声が続いて行きます。念仏が通る家の庭先で犬が遠吠え。
 満月のあかり、明るい夜空に負けない満点の星、遠くに飯田市街地の明かりが宝石箱のように、銀河のように帯なしています。
 神秘的な空気が流れる天空の里で、古来の流儀を濃密に残した行事を守り続ける人々。

 「事念仏」。とても面白い行事です。

 あらゆる部分で窮屈になっている日本の社会で、夜遅くまで子供たちだけで運営されるこのような行事はあまり見ることがありません。子供たちはのびのびと気持ちを通じ合わせ、男の子も女の子も、上級生も下級生も、それぞれの立場を理解しながら自由に交わっています。

 たとえば仲間にちょっとした問題児がいても、この行事の中でその子の居場所は自然に用意されています。その子が少し規律から逸脱しても殊更に追求せず、誰も爪弾きにせず、自然に受け流しながら、その子が再び合流できるときには自然に仲間に入れるのです。完全に規律を破ったときはわかりませんが、適度に緩く、仲間の関係性は保たれています。
 
 自分たちで自律して、行事の仕来りを守りながら皆でひとつのことを成し遂げる。その労に対して「オダチン」という対価が支払われ、それは全部集められ、頭取によって全員に平等に分配される。ここではまだお金の感性が守られているように感じます。

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不思議できれいな夜景をバックに事念仏の記念撮影

 さて、越久保センターで一夜を明かし、8日はいよいよあちこちの神送りを追いかけます。この地域が辿って来た歴史、地理的要因を踏まえながら、魅力的な智慧の結晶である文化をどう活かし、人々の豊かな生活に繋げて行くことができるか。神送りの道すがら、考えます。

 続きは(その2)で。

 ~つづく~
【Ngene掲載:2009年2月13日】

「事の神送り」を追いかける(その2)

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 ◆◇◆

 越久保の落着いた静かな夜が明けました。
 今日も快晴。
 上久堅は標高750メートル。本来は極寒の2月8日のはずですが、夜の空気は冷え冷えとしていたものの、雪もなく朝から暖かな日曜日です。昼の間に暖まった越久保センターの木造家屋は、朝までまったくストーブもコタツも使わずにぐっすり寝心地満点でした。

 早朝6時。
 前夜事念仏をした子供たちが集まって来ます。紙でできた大旗と小旗、2本の旗が出発を待っています。この旗は10日ほど前からみんなで越久保センターに集まって作ったもの。新聞紙を芯に白い紙を貼り付けてあるので、紙製といえども随分厚みがあってしっかり丈夫そうです。竹の支柱を通す部分は太い糸で縫い付けてあります。「南無阿弥陀仏」の六文字を書く部分に貼ってある4色の色紙がなんともいえない原初的な魅力を感じます。

 越久保の8日の行事は「風の神送り」といいます。ここの神送りは他の地区と連携せずに単独で行なわれるタイプのもので、祭列の様相もだいぶ違っています。地理的な要因でしょうか。他の地区が概ね南北に並んで上久堅を縦断する道に貫かれているのに対して、越久保だけが風張から分岐して小川路峠に向かう秋葉路の途上、越久保より先は山中に入るため地理的には独立しています。秋葉路から派生した経済的な事情も他の地区とは少し違っていたと思います。いろいろな時代の社会の趨勢とそれぞれの地域が抱える事情、人々の創意によって祭りの流儀はいろいろに変化するものです。

 午前7時、太鼓と鉦が打ち鳴らされ、子供たちの元気な声が聞こえ始めました。「風の神送り」出発です。

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 越久保センターを出た祭列は「神送りの歌」を詠いながら秋葉路を登って行きます。相変わらず早足です。

 「送り神を送れよ、何神(なにがみ)送れよ、かぜの神を送れよ、どこまで送れよ、法現坂(ほうげんざか)まで送れよ」

 東の山々からまだ太陽は上がって来ていません。天竜川東岸、竜東はどこも朝陽の光が射し始めるのが遅い。伊那山脈の西側の斜面、背後に高い山を背負っているので、特に冬は陽射しを感じるようになるのがとても遅いのです。

 集落を登りきったはずれにある橋の上で、子供たちは2本の旗を倒して道路を区切ります。二手に分かれた子供たちが相手の頭を叩いて勝敗を競う「頭たたき」という遊びをするのです。これも越久保だけの独特な風習。法現坂に到着するまで、ここ、集落の一番上にある橋と、真ん中にある大西屋商店の前と、一番下にある法現坂(最後に送り神を捨てる場所)と、3カ所で「頭たたき」をします。

 頭を抑えることで勝敗を決めるのです。当然、体の大きな上級生の方が有利です。相当すばしっこくても、体の大きな上級生にはなかなか勝てません。それでも、小さな子は必死になって飛び上がったり、後ろへ回り込もうとしたり、一生懸命戦います。女の子も負けん気強そうです。
 特に厳密な、あるいは判りやすい共通ルールがあるわけではなさそうです。両軍の大将が指名した1対1で戦うこともあれば、微妙に1対2のこともあれば、最後には残っている何人かが入り交じって戦っています。
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 果敢に上級生に挑戦するちびっこい下級生。その挑戦をニコニコあしらいながら、最後にはおもむろに頭を抑える上級生。橋の欄干に上がって戦おうとしている下級生が危なっかしいところに立つと「そこ危ないから下りろ」と注意します。女の子も対等に上級生に挑みかかります。勢い余ってひどく転んだ女の子に上級生が駆け寄って様子を見たりします。
 ものすごくシンプルな遊びの中から、子供たちは集団でものごとを進めて行くときの大きな理を感じ取っているように思えます。

 ひとしきり「頭たたき」で遊んで、「風の神送り」は秋葉路を引き返し下り始めました。太鼓と鉦と歌声が元気良く足早に谷間を移動して行きます。

 秋葉路を少し下ったところで、街道沿いに流れる川を対岸の集落へ渡ります。前夜の「事念仏」と同じ順路。「事念仏」のように枝路の末端まで入って行くことはありませんが、ほぼ越久保全体を一周する周回コースです。

 対岸の山々に朝陽があたって明るく輝いています。自分たちのいる場所はまだ陽射しがなく寒々としています。太陽が高度を上げるにつれて朝陽の線が徐々に近寄って来る。これが伊那山脈を背にした伊那谷竜東地区の朝の特徴です。

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 越久保の集落を歩いていると立派な門構えや大きな蔵のある家が随分多いことに気付きます。大がかりな築山や池を設えた広い庭も多く、集落に空き家が目立つ一方で、この地域がかつて経済的に豊かだったことを窺わせます。どの家も古びて行く建物を丁寧に手入れしながら長い年月を暮らして来ている様子です。

 急峻な地形と痩せた土壌のために農耕が困難だったこの地域は、秋葉路を往来する人や物、流通によって潤っていたのです。「馬宿」と「仲買」。越久保の集落には随所に「馬宿」の跡や「仲買」に由来する屋号などが見られます。

 江戸時代前期、農家の人々が副業で馬を使った運送業を始めました。古来有数の馬の産地だった信州は、荷主から送り先まで直接農家の人々が馬に乗せて運ぶ仕事が盛んになり、「仲馬(中馬:ちゅうま)」とか「馬稼ぎ」という呼び名で専業化が進んで行ったのです。

 この馬による輸送を支えていたのが「馬宿」。越久保の秋葉路は、遠山郷・上村の秋葉街道本線と飯田城下・八幡神社門前までを繋ぐ道です。秋葉講、善光寺詣でや物資輸送の往来で賑わう街道の、ちょうど中間地点にある越久保に「馬宿」が集まり、生活物資の中継点として「仲買」が隆盛したのはとても自然なことだったわけです。

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庭とおばあちゃん

 この庭は越久保の中ほど、秋葉路沿いにある「油屋」という屋号のお宅です。背後の山々を借景にしたなかなか見事な庭です。もともとコウゾを栽培して紙を作っていた家なのですが、油の仲買に転じて油屋という屋号になったそうです。この地域の産業の変遷が窺えます。
 今はこの大きなお屋敷におばあちゃんが独りで住んでいます。深く腰の曲がった高齢のおばあちゃん、この起伏に富んだ庭を元気にぴょんぴょん飛び回ります。丁寧に庭や家屋を手入れしていますが、おばあちゃん独りではやはり限界もあって、あちこちに手の届かない部分が出ているようです。

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 「風の神送り」はどんどん進みます。早足です。
 この先のカーブにも随分大きな家が見えます。薪ストーブの煙が上がっています。薪の燃えるいい匂いがします。もともと住んでいた人が随分前に転出して長らく空き家だったのですが、去年、京都から若い方が移り住んだそうです。祭列の音を聞きつけて飼い犬と一緒に道まで出て来られた、なかなかセンスの良さそうな方ですが、近所の方々とももう顔馴染みのようです。

 山の方から下りて来た周回路が秋葉路に再び合流する越久保地区の中央部。「大西屋商店」というお店の前の交差点で「頭たたき」の第2ラウンドです。
 最初のときよりも更にエキサイトした戦いが繰り広げられます。つんのめって勢い良く転んで半回転した女の子が、しばらく痛そうにうずくまります。大丈夫かな。
 見物する大人たちの数もだいぶ増えています。そういえば、頭取の背負う太鼓に挿された「お宝」五色の幣束の本数も、よく見ると、随分増えて賑やかです。

 残念なのは、車が来たら遊びを中断して旗をどかさなければならないこと。道路の占有届けを出していないから当り前のことなのかもしれませんが、単なる子供の遊びだとしたらこのくらいで良いのかもしれませんが、けど、できれば、年に一度のこんな祭りのときには、たまたま車で通りかかったらそこに停めて「頭たたき」が終わるまで見物するような、そんなのんびりした社会になったら幸せな世の中かもしれません。

 ◆◇◆

 そして、祭列はさらに街道の坂道を下り法現坂に差し掛かります。ここが越久保の下はずれ、風張(かざはり)との境です。「風の神送り」の終着点がここ。最後の「頭たたき」をして、送り神を捨てます。

 送り神を捨てるのは法現坂の脇の坂道を上がって行った土手の奥、畑や竹薮の奥に伸びる尾根の突端。
 「頭たたき」を終え、整列して「送り神の歌」を詠ってから、一列になってS字カーブの坂道を上がって行きます。太鼓に挿された五色の幣束が快晴の真っ青な空に映えて、祭列の後ろ姿がなんともいえず美しい。

 送り神を捨てる最後の経路、絶対に後ろを振り向いてはいけません。
 ところが、土手の坂道を登りきった墓地の前で祭列が止まってしまいました。誰かが後ろを振り向いたということです。一列に止まったまま、「うら向いたのは誰だ?」頭取が後ろから詰問しています。「正直に言え!」。
 重い旗を担いで詠いながら歩き続けたゴール直前です。もうへとへとになってしまった下級生は白状する元気がありません。道の奥を向いたまま、みんな困った顔で立っています。
 頭取も容赦しません。暫く待って誰も手を挙げないので、「もういい!やり直すぞ!」と、さっさと坂を戻ってしまいます。ここも振り向いてはいけません。足下の悪い道で旗を担いで、後ずさりを始めた下級生たちはたちまち立ち往生してしまいます。

 膠着状態。
 頭取たちは坂の下へ戻ったまま黙っています。下級生たちはひとことも発しないまま立ち尽くしています。厳しいです。

 暫くたって、「ここだけはうら向いて下りて来い」という伝令が伝わりました。ほっとした2本の旗がようやく動き始めます。法現坂に逆戻りです。

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 法現坂の広々とした草地の土手。
 ここがまた、なんとも見晴らしの良い陽当たり良好な別天地。
 大向こうに木曽の連山、木曽駒ヶ岳の白い切先、伊那谷の北のはずれから蛇行する天竜川が天竜峡の渓谷に流れ込む南の端まで、阿智、清内路、阿南、新野、神の宿る山々が折り重なって、その向こうに恵那山がでんっと鎮座しているのが一望できます。土手の頂上には「お辞儀松」と枝垂桜の古木がこの壮大な光景を愛でるように風雅に枝を振っています。
 きっと、越久保一の名所。自然の景観の力は偉大です。この土手にすわって遠くまで広がる伊那谷を、戦国の歴史を潜ませた「神の峯」を、手元に囲まれた天空の里・上久堅の風景を眺めていると、なんだか愛着が湧いて、ここのことをもっと知りたくなるのです。けして安穏とした歴史風土ではないここのことを。

 「風の神送り」終了予定時間を一時間近く越えていました。見守っていた大人たちも用事の入る時間で、三々五々祭列から離れて行きます。

 法現坂に戻ってまたひとしきり頭取の説教を受けた子供たちの祭列が、再び土手を上って来ました。最後の力を振り絞って、元気よく詠いながら、真剣な表情で後ろを振り向かないように、足早に墓地の前を通り過ぎます。
 墓地の前を、土手のさらに奥へ、北のはずれの雑木林の中へ分け入って行きます。送り神を捨てる場所です。
 乱雑に雑木が茂った林の中で祭列が2列に並びます。尾根の先端の狭い荒れ地。その先は竹や倒木で更に雑然とした急斜面の谷です。

 ここで念仏を7回繰り返します。
 「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨、南無阿弥陀仏(ナンマイダー)、ナンマイダー」

 集めて来た幣束や、一生懸命担いで運んだ2本の旗を谷間に捨てます。

 そして最後に、頭取が1本選り分けておいた幣束で大旗の一番下の文字を突き刺して、神送りの行事の一部始終が終わりました。
 子供たちは送り神を捨てた谷間に背を向けて一目散に駆け出します。

 絶対に後ろを振り向かないように。

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 「今年はやばかったですよ」
 帰り途、厳しかった今年の頭取が安堵の表情でつぶやきました。
 「何が?」と訊くと、「後ろ見るやつがこんなにいる年はない」とのこと。そう考えることが当たり前、みたいな様子でさらりとそう答えるのです。
 務めが終わった開放感と全員でひとつのことを成し遂げた達成感をみんなで共有しながらの楽しい帰り途。楽しさの中にもそんな精神の高揚があるのですね。

 この行事でなされることは、単に「行事が終わればそれでOK」という段取りではないのです。この越久保という地区の、ここで暮らす子供たち、ここで暮らす人々の、毎日の暮らしの土台を創造するための鍛錬みたいなもの。ここの暮らしにしっかり根づいた誇り高い仕来りなのです。

 タガのはずれた利己経済のために不幸な過ちを繰返す現代社会。勝ち負けばかりを云々して、自分が良ければあとはどうなっても良い、誇りを失なってしまった日本の社会の劣化を止めるために、こういった古来の文化から得られるヒントはたくさんあるような気がします。

 予定を1時間半超過してようやく終わった「風の神送り」。
 すごい祭りでした。

 そしてすぐに、千代(ちよ)の芋平(いもだいら)から出発して半日かけて上久堅を縦断する「事の神送り」が始まります。これまたすごく楽しい祭りです。

 続きは(その3)で。

 ~つづく~
【Ngene掲載:2009年2月13日】

「事の神送り」を追いかける(その1)は、こちら

「事の神送り」を追いかける(その3)

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 飯田市千代。
 伊那山脈の懐深く、伊那谷、竜東地域の最深部に位置する山里です。伊那谷の南端、天竜川の河岸段丘が狭窄した地点、時又や天竜峡あたりから西の山へ分け入った一番奥にある地域です。

 2月8日、「事の神送り」が千代の北部、芋平(いもだいら)と野池(のいけ)というふたつの集落から始まります。各地で行なわれるコトヨウカ行事の中でも珍しい、複数の集落を繋いで行なわれる神送りです。
 芋平から東廻り、そして野池から西廻り、神送りはそれぞれ別のコースを辿って北上し、戦国時代、武田軍と渡り合ったこの地の領主・知久頼元(ちくよりもと)の居城があった神之峰(かんのみね)の北麓で合流します。

 芋平、野池、この隣り合ったふたつの集落は、ともに諏訪神社二の宮として中世以来の歴史を持つ野池神社の氏子集落。古くは南山郷と呼ばれた地域で、中世の農山村の社会構造を探るいろいろな手掛り、山間地の習俗、古い文化財や豊富な民俗行事を今でも濃密に伝承している地区です。

 そんな独特な地区から始まる「事の神送り」。いろいろな観点で興味が尽きません。
 特に芋平からは強烈な愛嬌のあるワラ細工のご神体と特徴的な造作のドーム状のミコシが送り出され、それを上久堅の各集落の人々が受け継いで送って行くのです。とても楽しそう!ということで今回は「芋平発東廻り」の「事の神送り」を追いかけるのです。
 フォーラム南信州(※前述)のチームは、早朝から追いかけていた越久保の「風の神送り」(※参照)が長引いたため、予定の時間より少し遅れ気味で集合場所の芋平集会所に到着。

 芋平集会所は、地形に沿って複雑に曲がりくねった山道の奥にありました。広い庭があって、庭の外縁にはずらりと神様が並んでいます。ここは神様の多い土地です。山の神、屋敷神、馬頭観音、お不動様、蚕玉神、風の神、いろいろな石碑や石像が里のあちこちに祀ってあります。
 庭の土は黄白色の粗い砂礫状、竜東山間地特有の柔らかい土です。周囲は森。すぐ隣りに大きな池があります。このあたりは意外と水が豊富らしく、芋平と野池の間にある「野池神社」を中心に、大きな池がそこかしこに見られます。野池神社の境内にも大きな池があって、そこは昔から旱魃があっても涸れたことがないそうです。

 そういうわけで、2月8日、朝10時。本日も快晴。芋平の集会所で「事の神送り」の準備が始まりました。

 集会所には芋平の人々が大勢集まっています。おじいちゃんもおばあちゃんも、若い世代も子供たちも集まっています。芋平の集落は現在23世帯。小さな集落なのですが、そのわりに随分賑やかです。ここの人々はみんな総出で祭りをするのですね。とても結束の強い集落なのです。
 山村地域というのは若年層の流出が必ず問題になります。こういう行事を見ても高齢者が目立つことが多いと思いますが、ここはそうではありません。実際、芋平は地元に定着する若い人たちの人数が多いそうです。
 なぜなのでしょうか。
 もちろん、たった一日の行事を一緒にしただけでは何もわかりませんが、数時間一緒にいただけでも明らかに感じたのは、芋平の人々は自分のところの生活文化に高い誇りを持っているということです。そして、どの世代もアツい。どうやら芋平はとても個性の強い独自の流儀をいっぱい持っているようです。

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 藁細工のご神体作りが進みます。
 オトコガミサマとオンナガミサマ。藁を縛ったり折返したりしながら、だんだん体ができて行きます。写真手前にあるのは女性器と男性器、……随分立派です。
 別の部屋では大旗を作っています。
 旗は2流。赤い紙を中に挟んで白い紙を貼り継いだ地に「千早振る二月八日は吉日ぞ、事の神を送りこそする」と墨で書きます。赤い紙には魔除けの意味があるそうです。

 庭ではミコシ。
 太い藁束を繋いで直径50センチくらいの輪を作ります。割竹をアーチ状にしならせて骨組みを作り、檜の枝をかぶせていきます。緑色のドーム状のミコシができます。そのドームの頭頂部に幣束を立てたり赤と白の紙飾りを垂らしたりします。
 庭の端には、芋平の家々から持寄られた笹竹(送り竹)が集まっています。家の厄神をつけて送り出すための送り竹です。この送り竹で家中すべての部屋を祓ってから、各自ここに持寄るのだそうです。「馬」という文字を書いた短冊がたくさん付いてます。短冊に書く文字や絵柄は各地区さまざま。芋平では「馬」や「申午」「風の神」と墨書きしたり、猿と午の木版図を刷った短冊が多いようです。白い紙包みは「おひねり」。家の人の盆の窪の毛を抜き、爪を切り、洗米と一緒に入れてあります。不思議な取り合わせですね。

 ◆◇◆

 完成したご神体とミコシがこれ。なかなかすてきな出来上がりです。

 オトコガミサマとオンナガミサマは、完成後少しの間こうやってミコシの前に飾られていますが、ほどなくミコシの中に納められます。
 昔はカミサマをこんなふうに公開することはなかったそうです。人のいないところで極秘に作られ、ミコシができあがると人目を避けてすかさず中に入れられたそうです。作り方も秘伝で、ミコシの中を覗くことも禁止されていたということ。
 こんな愛嬌のある形をしていますが、そんなふうに秘匿されて畏怖の念が加わると、このふたり、ミコシの下から見上げたときにブルルッと怖さを感じるかもしれません。

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 すべての準備が整いました。
 ミコシの前に集まって太鼓と鉦に合わせて念仏が繰返されます。
 集会所の脇にある池の方で、ぱあん!という空鉄砲の乾いた音が響きました。
 「事の神送り」の出発です。

 芋平集会所から北へ、上久堅・蛇沼との境を目指して祭列は緩やかな山道を下って行きます。太鼓と鉦、幣束、旗、ミコシの順番に並んで進みます。その後ろに思い思いに送り竹を持った人々が続き、最後にもう1対の旗と幣束を持った人がいます。
 太鼓と鉦に合わせて祭列はゆっくりと進みます。

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 ◆◇◆

 芋平には「よこね田んぼ」という棚田群があります。芋平集会所の北向きの坂道を下ったあたりの窪地にあります。「日本の棚田百選」に選ばれているなかなか見事な棚田群。
 田んぼの数は110枚。南北に細長い窪地の南西向きの斜面に営々と築き上げられてきた叡智と努力の結晶。美しいです。
 田植えの時期、あるいは黄金色の収穫の時期に眺めてみたい風景です。夏の蛙の声もすてきかもしれません。
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 「よこね田んぼ」がある場所は芋平なのですが、田んぼの持ち主は芋平の人々だけではないそうです。野池の人の持っている田んぼも多く、隣りの谷筋の荻坪(おぎつぼ)や北隣の上久堅にも持ち主がいるようです。
 山間地にはよくある形だと思いますが、耕作に適した土地をみんなで分け合って利用する方法です。いわば水田団地、農業団地でしょうか。山林も「共有林」という考え方があって、村の人が総出で手入れしながら林業を営みます。かつては春の植林、夏の下草刈りなど、総出で行なう年中行事としての山仕事がありました。
 現在のような産業経済の構造の中で、農業や林業に携わる人が不足しているといわれる現在の社会でこの方法は今どうなっているのか、あらためて取材をしてみたいと思います。こういった古来の人々の営みは、残すべき過去の遺産ではなく21世紀に利用可能なアイディアの源泉である可能性が高いかもしれません。

 「よこね田んぼ」の傍らを通り過ぎて曲がりくねった道を下り、祭列は上久堅蛇沼との境までやって来ました。大旗、幣束、ミコシ、送り竹、路肩の土手にすべてを置いて念仏を唱えます。
 ばあん!という空鉄砲の音がふたたび芋平の尾根の向こうで鳴り響くと、それを合図に芋平の人々はみんな一斉に来た途を戻ります。
 絶対に後ろを振り返らないように戻ります。
 路傍に置かれた祭列の道具は、次に蛇沼の人々が運びに来るまで放置されます。

 ◆◇◆

 行事が終わると、芋平の集会所では慰労会が始まります。

 おとなも子供も、芋平の人々がみんな集まって、にぎにぎしく楽しい慰労会。フォーラム南信州の参加者も一緒に混ぜていただいています。芋平の長老や区長さん、地域の行事を牽引している方々が代わる代わるやって来て、芋平のいろいろな楽しい祭りについて、魅力的な民族文化について、誇り高い精神風土について語ってくれます。楽しい人たちです。
 たぶん、この宴は夕方までのんびり続くのですね。終わるまで、陽当たりの良い集会所で、芋平の人々とゆったりいろいろな話がしたいと思いました。

 ◆◇◆

 けれど、今日のテーマは「事の神送り」を追いかける。
 追いかけなければなりません。
 芋平集会所で小一時間ご馳走になって大急ぎで蛇沼へ、さっき「事の神」を置いて来た村境へ向かいます。

 午後1時。芋平境には蛇沼の人々が集結していました。

 区長さんが挨拶をして、みなさん銘々に祭列の道具を取り上げます。
 この日は蛇沼の人たちだけではなく、東京からバスでやって来た数十名の方々が蛇沼の行列に参加しました。上久堅の地域づくりに取組んでいる「愉快な仲間たち」が企画した「南信州ふんどしの旅」という旅に「事の神送り」参加が組み込まれたものです。
 そこにフォーラム南信州の一行も加わって、なかなか賑やかに、祭列は平栗境を目指して北上します。大人たちに交じって小さな子供たちも送り竹を運びます。
 2月8日という日が決まっている行事なので休日ばかりとは限りません。平日になった場合は学校があるので子供たちは参加しないことになります。時間勤務の会社員なども参加はできません。今年はちょうど日曜日に当たったのと、「愉快な仲間たち」「フォーラム南信州」の企画が重なって10年ぶりくらいの賑やかさらしいです。
 とても大切な祭りです。「今日は祭りだからお前ら学校休んでもいい!」と、学校も親も平気で言えるような世の中になったらいいですね。
 たぶん、この社会にちょっとした価値観の変換が起きれば可能なことです。

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 大旗を持って先頭を切るのは区長さん。その後ろに太鼓と鉦、幣束、そしてミコシ、その後ろに送り竹の列。並び順はいろいろです。

 蛇沼は、もともと蛇沢、沼塩というふたつの地区が合併してできた地区です。そのためか、出発点の芋平境から終着点の平栗境、細久屋峠までとても距離が長いのです。祭列はいくつかの集落を越えて行きます。
 路傍のお地蔵様も見物しています。ほんとにこの地域はあちこちに石像や石碑があります。

 最後の集落を抜けて長い急坂を登り、平栗境の細久屋峠に到着。大きくカーブした峠道の端にすべての道具を置いて、蛇沼の「事の神送り」は終了です。
 終着地点で希望者はミコシの下をくぐります。大勢の、しかも東京からわざわざ訪れた参加者がいるのでなかなか終わりません。思い思いにくぐります。時折、オトコガミサマとオンナガミサマを見上げて笑顔がこぼれます。小さなコップでお神酒が振る舞われたりしています。

 ひとしきり賑やかに集った後、「南信州ふんどしの旅」の面々はバスに乗って帰途に着き、蛇沼の人々も坂を下りて帰って行きます。
 絶対に後ろを振り向かないように。

 「事の神送り」は、このあと順次、平栗、落倉(おとしぐら)、小野子(おのこ)、3つの地区をリレーして行って、夕方には堂平との境に到着。そこの道端で一晩寝かされます。

 長い歴史の間に、それぞれの地区にいろいろな状況の変遷があったと思います。社会構造、産業や経済の変化、行政の事情、今もさらに激しい変化に晒されているはずです。消費経済が極度に浸食した社会では、市場原理はこういった末梢にある山間地ほどきつく作用します。いろいろな状況の中で、複数の地区が別々に、けれど連携して営々と続けられて来た珍しい行事「事の神送り」。

 それぞれの事情を伺わせながら北のはずれまで続く祭列の様子は(その4)に続きます。

 ~つづく~
【Ngene掲載:2009年2月16日】

「事の神送り」を追いかける(その2)はこちら

「事の神送り」を追いかける(その4)

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 千代北部の小さな集落・芋平から北上、上久堅の各集落を駅伝のように繋いで行く「事の神送り」。
 2月8日を中心とする3日間に複数の集落が連携して開催する行事なのですが、けして行事全体がまとまりを持って行なわれているわけではありません。基本的に、それぞれの集落ごとにばらばらに営まれる行事なのです。
 たとえば、芋平で行なわれる祭りの準備を他の集落の人々が観に行くことはありません。芋平の人々が、自分たちの作ったカミサマやミコシの顛末を追って上久堅の野辺を歩くこともありません。どの集落も、南隣りの集落が置いて行ったカミサマたちを拾って北隣りの集落まで送る。集落境にカミサマたちを置いたら、けして後ろを振り向かないで家に帰る。そんなふうにてんでばらばらに行なわれる行事なのです。けれどそれは、自分たちのことだけ考えていたのでは絶対に成り立たない行事でもあるのです。

 2月8日、朝11時に芋平を出発した「事の神送り」、午後2時前に蛇沼と平栗の境・細久屋峠に到着(※参照)

 午後2時、峠道の端で小休止していたカミサマたちを平栗の人々が拾いに来ました。
 峠から長い坂道を平栗の里へ向かって下りて行きます。

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 平栗は郵便局もあったり、比較的多くの家が集まった集落。里へ下りると、待ち構えていた近所の人々が次々とミコシをくぐりに来ます。くぐっておくと病気をしない、という縁起ものなのです。

 平栗でも、戦前は子供たちが主体になってこの行事を行なっていたようです。男女、年齢も関係なく、みんなが集まる祭りだったようです。やがて子供たちが学校のために参加できなくなり、大人たちだけで行なわれる行事になってしまったとのこと。この日は日曜日でしたが、あまり子供の姿はありません。
 平栗が神送りをするのがおよそ午後2時から。ひとつ前の蛇沼もそうでしたが、学校に行く時間帯に差し掛かる集落では、子供がこの行事に参加する習慣自体が減衰して行ってしまったのかもしれません。

 上久堅、天空の里です。
 峠を越えるたびに木曽山脈の壮大な光景が飛び込んで来ます。気持ちのよい風景です。春先、鶯が鳴き始める頃にこのコースを歩いてみたら、かなり気持ち良さそうです。

 平栗の北隣りは落倉(おとしぐら)。集落境ではもう落倉の人たちが待ち構えていました。なので、ここでは道端に置いて去るのではなく、落倉の人々に渡します。
 和気あいあい、平栗の人々と挨拶しながらカミサマたちを受取った落倉の人々、既にみなさん揃っていたらしく、そのまま出発です。予定よりだいぶ早い出発ですが。

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 落倉でもかつては子供たちの行事で、学校からみんなが帰って来るのを待って出発したそうです。「カゼガミオクリ」と呼ばれ、一番風邪が流行る時期なので風邪除けの行事と言われていたらしい。
 今日も大勢の人が参加していますが、子供たちの姿はちらほら。あ、ワンちゃんを連れて参加している方もいます。こういうの、いいですね。ワンちゃんも、振り向いてはいけません。

 祭列が進むうちに送り竹はどんどん増えて行きます。途中の各集落で祭列の参加者が持寄るのはもちろん、途上の道端に出されている送り竹は漏れなく拾って行かなければなりません。

 落倉も平栗と同じく沿線に住宅の多い地区。地形は比較的平坦だったりします。地図を見ると、芋平から富田境までのちょうど途半ばくらい。祭列は淡々と進みます。

 「事の神送り」のコースは、南の端から北の端まで全線くねくねと曲がりくねっています。もともと丘陵や沢、尾根や等高線に沿って、起伏の多い地形の中に自然にできた道なのではないかと思います。ロング・アンド・ワインディングロードです。
 集落を抜けると畑や野原が続き、峠道は突き抜けるような見晴らしの良さ。爽快です。途方に暮れるような難所もなく、適度な斜度のアップ・アンド・ダウン。てくてく一歩一歩あるいて行くのが気持ちのよい道程です。

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 上久堅の風景には特徴があります。土の色は明るく、複雑な起伏に美しい曲線を描く土手、畑や田んぼが畝を重ね、ひとかたまりずつ群生する林、斜面のリンゴ畑、路傍や丘の上には間近にお墓やお地蔵様、石碑や石像の一群、遠景に青い山脈が見えて空が近い。

 もともと上久堅周辺の地質は風化した花崗岩だそうです。そのため、昔の上久堅は地滑りが起きやすく、貧栄養土壌で植物、作物が生育しにくい土地、戦前まで周辺の丘や山には木が生えていなかったということなのです。
 そんな土地も、戦後、植林が行なわれるようになり様相は変わりました。民主化の一環として進められた農地改革も要因になっているかもしれません。人々の努力によって植林が進み、現在のように森や林が増え、もともとある地形を利用しながら土手が築かれ、水路が引かれ、農耕のための土地が広がって行ったのです。土手は崩壊を防ぐ丈の長い草に被われました。上久堅の風景の特徴、林の様子、土手の形状や色彩などは、そんな先人たちの知恵が素因になっているのですね、きっと。厳しい環境条件を克服して来た美しさです。こういう営みの積み重ねを本来は文化と呼びます。

 「事の神送り」は落倉と小野子(おのこ)の集落境に到着。「中沢橋」というバス停の標識が立っている土手にカミサマたちを置きます。送り竹はずいぶん増えました。残りの道程、大変そうです。

 祭列を終えた落倉のみんさんは、ミコシをくぐったり、久しぶりに出会った人と挨拶をしたり、いつもの井戸端会議だったり、ひとしきり集ってから三々五々、ばらばらと帰途に着きました。
 けして後ろを振り向いては……あれ?、いや、なんか、そうでもなさそうです。
 後で聞いたところによると、落倉では特に振り向くなという言伝えはないらしいのですが。

 ともあれ、落倉の「事の神送り」は予定よりずいぶん早い時間に終わってしまいました。次は8日の最終区間、小野子ですが、小野子の人々が集まってくるまでにはまだ暫く間があります。フォーラム南信州の参加者は、伴走してくれている飯田市のマイクロバスに乗ってしばらく休憩。だいぶ歩き疲れて来ていたので嬉しい休憩です。

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 こんな風情のある土手の景色を眺めながら休憩です。
 野原にぽつんと立っている桜の古木と、ほどよい距離で佇む墓石。
 品の良い美しさですね。
 春、桜の咲く頃には黒澤明の「夢」のような世界になるにちがいありません。

 マイクロバスが停まっている道沿いの家のご婦人が、暖かい焙じ茶のいっぱい入ったポットと切り分けたリンゴをたくさん差し入れてくれました。紙コップまで一緒に。突然のことです。誰が頼んだわけでもなく、様子を察してこういうことをしてくれるのです。こんなにたくさんのリンゴを皮をむいて切り分けて。暖かい心、ものすごく嬉しいおもてなしです。

 ◆◇◆

 さて、事前に調べていた時間からさらにもう少し待って、小野子の人々が集まり始めました。どうやら、子供たちが学校から帰って来るのを待っていたようです。

 そういうわけで、この区間の主力は子供たちです。先頭の幣束、大旗、ミコシを担ぐのも全員子供。どうやら、鉦を叩いているのも女の子です。大人たちも大勢参加して、8日の「事の神送り」最終区間は賑やかに進みます。
 昨日から感じていることなのですが、子供たちが先頭に立つと祭列のスピードが上がります。大人の場合は、太鼓と鉦に合わせて「たらん…、たらん…、」というテンポで進むのですが、子供のペースだとさっさと進みます。神送りの歌や念仏のテンポも大人と子供ではだいぶ違います。

 そして、絶景の最終コーナー、長い坂道を下り終わって「事の神送り」は8日の終着地点に到着。長い長い一日の神送りが終了です。
 明日の午後、堂平(どうだいら)の人々が拾いに来るまで、カミサマたちは坂の下の路傍で一晩お休みするのです。カミサマたちが置かれているのは背後から夕陽のあたる林の一隅、東向きの土手です。朝陽が最初に当たります。なかなか寝心地の良さそうな所です。
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 この日の行事はこれで終了。
 フォーラム南信州の参加者も今夜は一旦家に帰ります。
 この週末、随分長い距離を歩きました。足首がへとへとです。

 ◆◇◆

 翌9日は午後3時、堂平(どうだいら)の「事の神送り」から始まります。
 堂平というのは、上久堅の中心・風張(かざはり)の南隣り、戦国時代にこの地を治めた知久頼元(ちくよりもと)の居城・神之峰(かんのみね)の東麓一帯で、全体的に周辺の地区より低い土地、少し深い窪地になっているところです。

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 なので、小野子から堂平に向かってはずっと緩やかな坂を下ります。
 堂平では子供が参加していません。月曜日に当たったという事情もあると思いますが、祭列に参加したお年寄りの話では、堂平では子供がとても少なくなってしまっているということなのです。しかも、地区の人々が総出で行事を行なっているのではなく、一年おきに東の地区と西の地区で分担しているということなのです。世帯数が少なく、みなさんご高齢の地区のようなのですが、やはり、毎年行事を行なうのは大変なことかもしれません。

 上久堅小学校の児童数は現在52名。この地域の人口流出はかなり深刻のようです。人口の流動は、時代によって、社会の趨勢に従って、いろいろなかたちで推移するものだと思います。その時代、社会が持ちえた技術や知識によって、人々の住む場所は、いろいろな場所に移動して来ました。
 21世紀、人類は、いろいろなことを解決する能力を身につけて来ています。この時代に生むことのできる新しいアイディアで、いろいろな地域のことを考えて行ったら、人が生きて文化を重ねて来た経緯のある場所であれば、必ず楽しく活きて行く方法があるはずなのです。そのときに一番大切なものが個性。地域の個性、地域の存在意義だと思います。

 堂平の中央部を過ぎると、道は上り坂に転じ、最後の急坂を登りきったところが、終着点。風張にある上久堅の自治振興センターです。センター前の田んぼの端に、大旗や送り竹を突き刺しておきます。送り竹の量がかなり多くなっています。相当重いはずです。この後が大変そうです。

 ◆◇◆

 「事の神送り」。
 楽しくて、いろいろな観点で興味深い行事です。歴史や習俗、社会的な意義を複雑に、濃密に、内包しています。上久堅という、けして平易ではない自然環境、社会環境の中で暮らしてきた人々。この人々の労苦や知恵の蓄積こそが、この地域を前進させるエネルギーになるはずなのです。そればかりか、劣化の一途をたどる日本の社会から、次々に脱落して行く、誇りや精神性、全体性を回復させるヒントが、ここから発見されるかもしれません。大切な祭りです。

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 夕方、背後の丘の上にある小学校から子供たちが下りて来ます。下校時間です。
 やがて、家にランドセルを置いた子供たち、風張、上平の人々がここへ集まります。

 「事の神送り」最後の区間が出発します。
 ここは子供たちが主力のようです。先頭に女の子たちが5人、市子(いちこ)みたいないいかんじの存在感です。後ろにミコシを担ぐ男の子、太鼓と鉦は上級生、その後ろにも中学生くらいの子供たちが続き、後ろ半分が送り竹を持った大人たち。もうここまで来ると送り竹も相当な量です。ひとり数本ずつがんばって、それでも抱えきれない分は軽トラックの荷台に載せて運ぶようです。

 夕暮れ近く、冬枯れの上久堅の独特な風景の中を祭列が進みます。
 風張の高台から上平(かみだいら)に下りて玉川寺の前を北の方へ進みます。
 風情のある道です。
 ……夏に提灯を持った行列があったらものすごく幽玄で美しいかも。涼しい風と蛙の声と提灯のあかり、念仏の音。

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 これも上久堅独特の風景です。
 井土手(いどて)。
 水源の遠い上久堅の耕作地に水を引くために作られた水路です。等高線のようなカーブを描いてゆっくりと畑の上を流れ、土手の向こうへ回り込んで行きます。
 昔の人が膨大な労苦をかけて構築した水路。農耕という実用のために作られたものですが、そこにある地形とちゃんと感性で対話しながら造られているので、その造形はとても美しいのです。のべつまくなしに穴を掘って切り崩してズドンと道を通しちゃうような美的水準の低い現代の建造物とはわけが違います。
 今は治水が進んでこの水路の重要性は低くなっているそうですが、これは是非残して行って欲しい風雅な景色です。ところどころに水車が回ってたりなんかしたらものすごく詩的ですね。
 ……けど、いるんだよね、いまだに。「こんなもの邪魔だ!」って言ってぶっつぶしちゃう低能な輩。

 夕闇が濃くなって来ました。
 いよいよ最後の場面が近づいて来ます。柏原(かしゃばら)の通りに出た所で他の神送りの行列と合流。野池から出発した西回りの「事の神送り」でしょうか。あるいは、中宮から来た神送りか。この道をまっすぐ進むと、その先がいよいよ最後に祭列のすべての道具を捨てる富田境です。
 柏原の集落、原平(はらだいら)の集会所の阿弥陀堂前では鉦や太鼓を持った子供たちが集合しています。神送りのコース上最終集落の原平では、ほかの神送りが通るのを見届けたところで念仏を唱えて出発するそうです。クライマックスに向かっていろいろな神送りが集結しつつある、わくわくする雰囲気です。

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 住宅街を抜けて最後の坂を上りきったところに「山本勘助物見の松」という名所があります。喬木村富田との境にある峠道の脇にあります。
 知久氏攻略の武田軍は策謀家・山本勘助に率いられて喬木村富田から柏原に侵入したのですが、そのときに勘助がここの一本松によじ登って南正面に見える神之峰の様子を遠望したといういわくの場所。
 この「勘助物見の松」の先に、延々と送って来た「事の神」を捨てる谷間・北の原があるのです。

 ◆◇◆

 そして、いよいよ再終幕。

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 それぞれの組ごとに子供たちが念仏を唱え、大旗、幣束、ミコシや送り竹を谷間に投げ捨てます。芋平で作られたあの愛嬌のあるカミサマたちもミコシごと谷底へ転げ落ちます。その後、整列して更に何回か念仏を唱え、鉦を叩いて来たバチも投げ捨てます。すべて捨てます。

 芋平から始まって、蛇沼、平栗、落倉、小野子、堂平、風張、上平と送られて来た東廻り。野池から始まって、田力、荻坪、大屋敷、尾科、下平の西回り。そして、原平と中宮の神送り。4つの組が代わる代わる念仏を済ませるころには、あたりはすっかり暗くなっています。少し暮れ残っていた夕空も、もう完全に夜の闇。
 そして、すべての仕来りが終わったところで、無言のまま、最後の祭列に参加した人たちは一斉に峠を越えて上久堅へ帰って行きます。

 絶対に後ろを振り向かないように。

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 ずいぶん長いレポートになってしまいました。
 けれど、この濃密な文化を宿した天空の里の個性・「事の神送り」を、とにかく一度全部書き出しておきたいと思いました。

 文中で何度も触れましたが、民俗学的に、社会的にこれだけいろいろな素因を豊富に含んだ祭りは特筆に値するものだと思います。おそらく何らかの無形文化財として採択されていてもおかしくはない価値の高いものなのです。

 数年前、この行事の徹底的な調査を敢行した飯田市美術博物館の桜井弘人さんを中心に文化財として推薦する動きがあったようですが、当事者・上久堅のみなさんがそれを望まず実現しなかった経緯があります。
 けれど、行事を執り行なう子供たちの真剣さ、古来の独自な流儀を誇りを持って受け継ごうとしている、それを年中の生活の中で活かそうとしている小さな集落の人々の熱意は、何らかの方法で日本の社会の記憶にしっかりと記しておくべきだと思います。

 ほかにもたくさんあろう未だ見ぬ尊い文化もふくめて。

 ~おわり~
【Ngene掲載:2009年2月16日】

「事の神送り」を追いかける(その3)はこちら
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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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