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飯田・りんご並木と裏界線(その1)

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 風越山という泰然とした山の麓、いずれも天竜川に注ぐ、松川、野底川というふたつの支流を南北の境とする、比較的広い高台に飯田の街はあります。南は三河地方、西は木曽、北は信濃の国・善光寺へ向かう交通の要衝にあり、江戸時代には幕府の直轄領・天領として栄えた伊那谷の中心地。この周辺ではかなり多くの個性的な文化、伝承芸能が生まれ育ってきています。

 飯田の街路もなかなか個性的。その代表的なものが「りんご並木」と「裏界線」です。公園の機能も併せ持った表通りである「りんご並木」と、表通りの間を繋ぐように部分的に顔を出す裏路地としての「裏界線」。とくに、この細い隠れた裏路地に「裏界線」という神秘的な名前をつけて生活道路として利用して来た飯田の街のセンス、個人的にとても好きだったりします。

 今日はその「裏界線」の様子をお伝えします。

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 近年、中心市街地の活性化を目指して、飯田の人々はこの街の歴史や魅力を積極的に語り始めました。裏界線も一部が改修整備され、歴史物語を宿した市民の空間として見なおされてきています。

 1947年春に発生し市街地のほとんどを焼きつくした「飯田大火」の復興の中から裏界線は生まれました。大火のときに避難路や消防活動のための通路が無く消火活動に支障をきたしたという反省から、一軒一軒の家々が1メートルずつ家の裏手の敷地を提供し合ってこの通路を設置したのです。
 おもに隣接した家屋の延焼を防ぐ目的で設けられたようですが、そこは表通りを歩く人の目には触れない道で、勝手口から出て往来するときや、裏手の街区へ手早く抜けるときに通るような道です。めったに人は歩いていない窓のない裏壁の続く道で、本当に隠れた空間なのです。

 裏界線は場所によっていろいろな表情を見せます。整備されたところもあれば雑然と放置されたところもあります。植木やプランターで飾られているところ、自転車やバイクが置いてあったり、家や工場の裏口があったり……。

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 まっすぐに区切られた街区の中央をまっすぐに抜けるので、反対側の出口をふり返るとトンネルの出口のような不思議な光が射し込んでいたりします。ちょっとSF的、異次元空間的だったりするかもしれません。

 なかなか魅力的です。
 土蔵のナマコ壁もあちこちに見られます。

 タテタカコが2005年2月にリリースしたアルバムには「裏界線」というタイトルがついています。その前年夏にリリースしたアルバム「そら」が、映画「誰も知らない」のヒットとともに音楽ファンの間に広まりつつあったこの年、飯田市内で数回に渡って行なわれたタテタカコのイベントには地元・飯田や長野県内よりもむしろ全国から人が集まり、タテタカコのホームページに掲載された飯田の街の概説を片手に裏界線を巡り歩く姿が見られるという現象が起きました。コンテンツによって街のイメージが頒布され人が集まる、という好例かもしれません。

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アルバム「裏界線」のジャケットが撮影された地点

 「裏界線」という言葉には不思議な魅力があります。「裏」「界」「線」、3つの文字はそれぞれに、日常にあるような非日常にあるような、人々の隠れた心や精神を示すような、宇宙の穴のような神秘的な魅力があるのです。
 そして、あるときふと踏み入れたその場所は、裏道、抜け道であり、表通りからはほとんど見えない空間。裏壁や土蔵が続き、家によっては勝手口もあって生活道具や鉢植えが雑然と置かれていたりする。崩れて途絶えているところもあれば、家が失くなって暴かれてしまったようなところもあれば、草ぼうぼうに埋もれた場所もあります。

 どこもみんな何の変哲もないただの路地ですが、そこには大きな災害を経て生まれ、街じゅうに共有されたアイディアのエネルギーが溜まっています。転がっている石ころひとつにも、そんなエネルギーが宿っているような気がします。人々の営みが溜まった場所。それが街の魅力を生むのだとすると、裏界線はまさにそのための装置になるのではないかと思うのです。

 飯田・りんご並木と裏界線、明日はりんご並木の様子をお伝えします。

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【Ngene掲載:2008年10月25日】【路地月間!⑤】

裏界線ホームページ
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飯田・りんご並木と裏界線(その2)

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 りんご並木。
 飯田の街の象徴です。裏界線と同じく1947年の「飯田大火」が契機になってできた街路です。現在はリンゴの並木が中央分離帯にあるというだけではなく、街路全体が公園のような機能を有する歩行者優先の道路になっています。

 歩道と車道を分けるのではなく混合させて歩行者優先にしています。公園道路というかんじの珍しい性質の街路です。なかなかユニークなアイディアですね。中央にあるリンゴの並木帯を縫うように大きくS字型に蛇行する水路を通して、ところどころ水場に下りられる場所が設えてあります。ところどころに石橋が架かって、橋のたもとには行灯が4基、夕方になると明かりを灯します。辻々にいろいろな形の座る場所、足を止める装置を配置してあります。水の流れと行灯の光と眺める場所。感性に響かせる勘所を押さえた街のデザインですね。

 飯田大火が発生したのは1947年の春。桜満開の日曜日。干天続きで乾燥しきった春の風に煽られてあっというまに広がった火の手が東西南北に伸びる城下町の狭い通りを縦横無尽に暴れ回り、なすすべなく市街地の大半が焼失したのでした。焼失戸数3,577、被災者数17,800人。
 完膚なきまでに焼き尽くされた被災経験から、市街地を4分割する防火帯が設けられることになりました。万一大火災が発生しても、火元となった四分の一の街区で延焼を食い止めるためです。
 街の中央で交差する2本の防火帯のうち南北に走る緑地帯に、大火の6年後からリンゴが植樹され始めました。それは街の復興を願う中学生たちの提案によって始まったものでした。

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「りんご並木、並木通りの全景」
 中央にグリーンベルトの敷かれた片側2車線の広い通りです。前方、南方向に見えるのがりんご並木。ここから背後には、毎年春に見事な桜のトンネルになる桜並木が街の北はずれにある大宮神社まで伸びています。
 飯田大火のあった1947年はまだ敗戦直後、GHQに統治されていた時期です。大火の様子を撮影したGHQによる映像も現存しています。飯田のような山間の小都市で、敗戦直後にグリーンベルトのある広い道路が建設されたというのは、GHQによってもたらされたアイディアなのかもしれません。

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 ここから少し、りんご並木周辺の様子を眺めてみます。

「通り町」
 りんご並木に交差して東西に伸びる防火帯が通り町。そういうわけで、この通りはGHQによって設計されたという説が濃厚です。
 飯田ではこのほかに、並木通りを北へ上がって行ったところにある「ロータリー」と呼ばれている周回交差点。これもGHQによって造られたそうです。これはヨーロッパの街でよく見かける「ラウンドアバウト」と同じ構造の交差点です。

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「三連蔵」
 通り町とりんご並木の交差点にある三連蔵。大火による焼失を免れて残った3つの蔵を改築して、バー、豆屋さん、カフェ、りんご並木の資料館やギャラリーとして使われています。中庭はオープンテラスになっていて、イベントやワークショップなども行なわれる一角。
 寒い冬の天気の良い日に、このテラスで良く冷えた地酒なんか飲みながらぼぉ~っとしていたら、きっと気持ち良いですね。なかなかステキな一角なのです。

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「飯田最古の道標」
 市街地の南西の一帯、箕瀬という横町へ入る大横町と知久町の交差点にある道標。「南は三州方面へ、北は善光寺及び甲州へ、西は大平を越えて木曽に通ずる」という刻字。いわば飯田の街の起点です。

 りんご並木に戻ります。

 りんご並木の手入れを終えて帰る飯田東中学校の生徒さんたちです。毎日放課後、いくつかのグループに分かれて世話をしてから帰ります。

 大火からの復興を願って1953年に植樹が始まって以来、先輩から後輩へ受け継がれながらずっと東中の生徒がりんご並木の手入れをして来ています。
 植樹から2年後、初めて結実した49個のリンゴはそのほとんどが盗難にあい、収穫できたのは5個でした。全国から寄せられる激励の手紙に励まされ、収穫量が次第に増えて行くに連れて「りんご並木」の名前も広がって行き、幾多の困難を乗り越えながら50年あまり、今では地域ぐるみの財産になってきています。

 りんご並木にはいろいろ魅力的な装置が設置されています。水路や池で遊んだり、芝生の上で休んだり、座る場所もあちこちに、あれこれいろいろな形のものがあるし、石積みの舞台もあります。
 ここにもう少し、人々が行ってみようと思う動機になるものがセットできたら、この街路はとても魅力的なものになるに違いありません。知的な好奇心に結びつくような何かが足りないと感じます。ここにあるセンスの良い工夫や起伏に富んだ歴史を伝えるための魅力的な物語。

 りんご並木と裏界線。個性的な飯田の街路。人形劇や屋台獅子、周辺の山岳地帯に豊富に現存する伝承芸能、祭。かつて豊かに自立していた地域経済に支えられた個性的な文化が蓄積し、特筆すべき優れた現代美術作家を多く輩出し、民俗学、文学、哲学、いろいろな学問が撩乱し、多くの魅力的ないとなみを累々と重ねて来た街なのです。古来からの人の営みから生まれたエネルギーが、街のあちこちに、路地の辻々に溜まっているのを感じます。
 できれば、このエネルギーの流れを分断しないように、風景や空気や水の流れを分断しないように、新しい街のかたちができていって欲しいと思います。
 いい街です。

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【Ngene掲載:2008年9月26日】【路地月間!⑥】

りんご並木ホームページ

木曽福島・山の宿場街

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 「木曽路はすべて山の中である、あるところは岨つたいを行く崖の道であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。」

 島崎藤村の「夜明け前」冒頭の一節です。高校生の頃、大正期から昭和初期あたりの日本文学が持つ特有の仄暗いムードにかぶれていた僕は、この一節によって木曽谷に憧れ、小学生の頃に登った御岳山で感じた荘厳な大地のエネルギーの記憶も相まって、高揚した気分に駆られ、突如学校をサボって木曽谷踏破のひとり旅に出かけたことがありました。
 江戸幕府によって制定された中仙道と、江戸時代中期に始まった御岳信仰、深い山々から産出される木材由来の産業や木曽馬市場、中央本線の開通によって、昭和中期まで木曽谷はきわめて豊かに栄えていました。
 日本列島を縦断する山岳信仰の回廊。木曽谷は地球の大きなエネルギーを直に感じる魅力的なところです。

 木曽谷の中心地である木曽福島。重要な関所が置かれた中仙道の宿場町として、全国でも有数の霊場・御岳山の登山口として、古くからたくさんの人々が往来しました。その賑わいは近世まで続き、山林由来の従来の産業に加えて観光を基軸にした商業も隆盛を極めたのです。木曽福島の駅に降り立つと、まだその隆盛期の熱気が仄かに残っているようなかんじがします。

 木曽福島の街路は、元来、その特徴的な地形や歴史によってとても個性のある景観を有しています。それに加え、近年、この街は自分たちの個性を踏まえた街づくりを積極的に推進してきているのです。古くからそこにある土地の個性と、その個性をきちんと踏襲した新しい人々の工夫が重なると、街にはとても人間的で美しい風景が生まれます。

 そんな木曽福島の街の中を歩き回ってみました。

 まずは、なんといっても「崖家造り」。行人橋という、街の南のはずれにある橋から数百メートルに渡って、崖から張り出すようにして家が並んでいます。すごいですね。
 陣屋町として発展した谷底の街。幅40メートルという平地の少ない街道沿いの川端ぎりぎりまで屋敷割された結果、ここに住む人々は崖から川の上に床を張り出すように家を建てて行ったのです。狭い土地をできるだけ広々と使おうとした昔の木曽人たちの知恵です。この街特有の景観。
 いきなり路地そのものではない、その裏側の話題から始まりましたが、路地に繋がる景観ということでお許しを。

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 路地に戻ります。
 左側に並んでいる建物が表から見た崖家造りの家並です。こちら側の入口は建物の2階。崖家造りの家はここから階段で降りた、道の高さよりも下に1階部分があります。つまり地下1階のような関係ですが地下ではありません。本当に崖の断面に脹らむように建てられているのですね。

 この通りは木曽川沿いに南北へ走る旧国道19号線。本町という昭和初期の風情があちこちに残る商業地域です。もともと中仙道福島宿の中心だった街道筋ということで、かつては旅籠や本陣が建ち並んでいたはずですが、中仙道が国道19号線になり商業が発展していく途上で、昭和初期に古い建物が軒並み取り壊されて今の街並になったのだと思います。

 崖屋づくりの家並みが切れたあたりに、なんともホンワカした一角を発見。

 ここは「木曽川親水公園」というちょっとした一角。ここから河原へ降りられるようになっていて、のんびりと座る場所があって、足湯があります。こういうホッとする場所を作ってあるっていいですね。
 で、ここにある懐かしい形のポスト。昭和24年に登場した「郵便差出箱1号丸型ポスト」です。木曽福島の街にはあちこちにこの形のポストが残っていて、それぞれ愛称をつけて大切に使っています。ちなみに、このポストの名前は「巴ちゃん」。

 蛇行する木曽川に沿ってできた街道なので、街の中程で大きく右にカーブします。なんとも魅力的な裏路地が右から左から合流してきています。

 それぞれの路地には「伊勢町小路」「巾の上小路」「馬宿小路」「権現小路」など、物語を感じる名前がついています。これらの小路の多くが急な坂道に繋がり、丘の上にある街、幾筋もの小路が迷路のように入組み、江戸時代の宿場街の風景が現存している「上の段」という界隈に上がります。

 ここから木曽川上流の方が「上町」。「かんまち」と呼びます。福島関所はこの北はずれにあります。往時の姿を忠実に復元した関所資料館があります。けっこう広々とした敷地で楽しい場所です。
 関所の隣りには関所番を勤めた「高瀬家」があります。高瀬家は島崎藤村の自然主義文学の到達点ともいえる小説「家」の舞台となった旧家。この周辺は「藤村ゆかりの地」。上町交差点にある福島関所の駐車場から「初恋の小径(藤村の代表的な詩の題名が由来)」というつづら折りの坂道を上った高台にあります。木曽福島の街を見晴らす広い庭に母屋や土蔵がある大きな家。土蔵が資料館になっています。島崎藤村、高瀬家、山村家、この地の歴史や輩出した人物をきちんと敬愛する気持ちを宿した美しい場所です。

 ここですごい人物を発見。
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 世界的な昆虫学者の永井信二さん。上町の交差点にある「GOKIGENYA」というお好み焼き屋さんのご主人です。「世界のクワガタムシ大図鑑」など、甲虫類関連の図鑑の著作が何冊もあり、ツノゼミ、ビワハゴロモなど世界中で200種類以上の新種、新亜種の昆虫の記述を物している超著名人。皇室の人が昆虫周辺の生物を研究する時は永井さんに教えを請いに来る、というくらいのすごい人なのです。
 こんな人が街の交差点の近くでお好み焼き屋さんをやっているのです。店で時折催されるクワガタオフ会は、あちこちから人が集まって11時間におよぶマラソンオフ会になるようです。木曽福島、面白い街です。

 あ!忘れてはいけません。
 「七笑酒造」。
 本町の真ん中、支所前交差点のほど近くにあります。

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◆◇◆

福島宿・上の段

 坂道を上って、鉤の手に曲がった街路を抜けると、突然タイムスリップしたような街に出くわします。
 「上の段」。
 往時の福島宿の街はずれにあたる界隈で、木曽川沿いの急峻な河岸段丘の上にあります。福島宿の当時の姿が残っている唯一の街路です。普通の速さで歩いたら1、2分で抜けてしまうほんのちょっとの一区間ですが、建物の残し方、道やいろいろな街路装置の配置がうまくできていて、この街の美的センス、感性の生きた、とても印象深い街並になっています。

 あ、ここにも郵便差出箱1号丸型ポストがありますね。
 このポストの名前は「せいめいくん」です。

「松島亭」

 この通りの中心はなんといってもこの「竃炙ビストロ・松島亭」だと思います。旧家・松島家の邸宅をリノベートして3年前にオープンしたお店です。この通りには江戸時代の大きな建物を再利用した数軒のお店や民宿が並びます。この「松島亭」を真ん中に、「BAR松島」「和庵・肥田亭」「民宿・くるみ家」など、間に歴史的な街路装置を配置しながら、背後の山々を借景に、この場所にしっくりと上品に溶け込んでいます。

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 ここは、木曾義仲から数えて19代目にあたる木曾氏最後の殿様・木曾義昌の居城「上之段城」が置かれた場所でもあります。関所の宿場街であると同時に上之段城の郭内としても多くの道が整備され、とても入組んだ構造になっています。街のあちこちに水が湧いていて、辻々に井戸が設えてあります。

 この街は水の流れを大切にしています。江戸時代に木曽川から引かれた「上の段用水」。街のあちこちにいろいろな水場が設けられています。

 ビストロ・松島亭の脇の路地「寺門前小路」に流れる水路もそのひとつですが、この小路を整備する際に、それまで水路を塞いでいた蓋ををはがして街の中で水の流れが感じられるように作り替えたものです。水路の途中にわざわざ小さな水車が仕掛けてあったりします。水路が表通りにぶつかる場所には、水を汲み上げて溜まりに落とす木箱が置いてあります。滔々と豊かに流れる水の音と景観。生活に根ざした自然な風情で作られています。
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 この寺門前小路は、数ある福島宿の小路の中でもひときわ大切にされているかんじがします。
 小路の奥にある大通寺。門構えの立派な、なかなか裕福なお寺のようですが、この境内には武田信玄の娘・真理姫が供養されてるのです。

 戦国時代のことです。上之段城主・木曾義昌は武田信玄の度重なる侵攻を受けて抗しきれず降伏。木曾氏は源氏の嫡流の名族であるため信玄は和睦を計り、義昌に自分の娘の真理姫を嫁がせ、替わりに義昌の妹・岩姫や主だった家臣を人質として甲斐へ赴かせ抑止力としました。政略結婚ですね。
 木曾義昌はやがて徳川家康の関東移封の際に下総国(千葉県)へ移され、精神的にも経済的にも逼迫して彼の地で没します。木曾氏はそのまま途絶えてしまうのですが、その後、真理姫は木曽へ帰り、義昌の家臣であった村上氏を頼ってこの地で一生を終えました。
 その後、同じく義昌の家臣であり木曾氏断絶後に木曽の代官となった山村氏が、上之段城跡に大通寺を建立し、真理姫の霊を弔ったのです。
 なんか、少しかなしい話です。年表には載っていない大きな歴史の物語がこの路地にはあるのですね。

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 路傍の「100円市」です。たぶん、近所の方たちが代わるがわる持ち寄って、ここで採れた農作物を売る場所なのです。店舗や人が集まる場所だけではなく、普通の家の庭先にも行灯が置いてあって、木桶に何気なくススキが生けてあったりします。いいですね。

◆◇◆

 木曽福島には、自然な日常生活の中にきちんと機能する街ができつつあります。
 歴史、文化、様々に変化してきた社会、自然、産業、人物、出来事、そして地理的な要因を丁寧におさえたコンセプトを建て、住む人や訪れる人の感性に響く街の装置を配置し、人に対する敬愛の念を表明し、規模は小さいけれど自分たちの個性を大切にした魅力的な街づくりが進んでいるようです。

 作り方も適切です。
 経済や行政、政策との関係をきちんと認識した方法で街づくりを推進しているのです。街のあらゆる素因を冷静に解析し、愛情を持ち、街づくりの肝要なところをよく知っている人たちが街を創っているかんじがします。

 そんな人たちが創る街の路地はとても居心地の良い場所になります。変な、面白い物がごろっと置いてあったり、立札や道標や、路傍のちょっとしたところに知的な好奇心をくすぐられたり、「なるほど」と頷いてしまったりする、歩いていると自分の中でいろいろなことが起きる場所なのです。とても魅力的です。

 山岳地域の奥深く、現代の消費文明や利便性からは遠く隔てられた、人口流出や地域存続の問題と常に直面している木曽谷で、お金ではなく人間の感性が基になった魅力的な街ができあがりつつあります。
 このまま、このまま、もっと面白い街になって行って欲しいものです。

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【Ngene掲載:2008年10月7日】【路地月間!④】
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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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