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和田・御射山祭・山の宿場街に夏祭のにぎわい(1)

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 信州の南端にある遠山郷のさらに南部、まっすぐ南下すると10数キロで兵越峠(ひょうごえとうげ)を越えて静岡県水窪(みさくぼ)に達する山間部に和田はあります。古くは秋葉街道の宿場町。和田宿はさしずめ信濃国の南の玄関口ということだったのでしょう。

 遠山の谷は大鹿村に繋がる日本最大の断層・中央構造線に沿って遠山川の浸食が生み出した深い深い谷間です。大鹿村から入る地蔵峠を北端に、上村、木沢、和田、3つの集落に分かれ、南端が兵越峠、青崩峠(あおくずれとうげ)。古く平安時代から同じ形で続いている湯立神楽・霜月まつりが全域で行なわれる神々の谷間でもあります。上村も木沢も、そしてこの和田でも、道ばたにある一抱えほどの石に注連縄が張られ紙四手が下げられていたり、風雨に削られた小さな道祖神の傍らに供物や花が絶えなかったり、いまだに八百万の神々を敬愛しながら生きている谷間なんだと思います。

 ただ漠然と、あるいは手当り次第に路傍の石に縄を張っているわけではありません。その石に縄を張る理由がちゃんとあるのです。その理由は、何度かその道を往来するうちになんとなく感じられるようになってきます。
 街道はもともと地脈に沿って人々が往来しているうちに自然と出来上がったものだと思います。地球には地脈があり、地脈は地形を象り、土壌や植生に影響し、生物を動かし、風景や大地の流れを作ります。人は古来、その地脈を感性によって検知することができました。その感性に従って自然に創り出したのがかつての街並だったりするのだと思います。

 「地脈」という観点で街並を眺めて行くと、それに沿って作られた街とそうでない街の違いを感じることがあります。たとえば東京はなぜ醜いのか、同じ人の手によって構築されたのにヨーロッパの街並はなぜ美しいのか。今までは「美的センス」の違いということで捉えていましたが、それ以前に感性、地球の発するものを感じ取る感性があるかないか、ということが問題なのではないかと思えて来ます。

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 たぶん、路傍の石に毎日花が手向けられるこの谷間は、人間が本来持っている感性をごく自然に備えた人々が地球を感じながら暮らしているのだと思います。

 複雑に折り重なった山襞はおいしい水を作ります。伊那山脈から伏流して遠山の谷間に湧き出して来る水は冷たくてきれいでミネラルたっぷりです。この谷間では街道筋のあちこちに水場があって豊富に水が湧いています。農業用水は遠山川から引かれ宿場街の中を豊かな水路が巡ります。この水路は今でも昔からの方法で「井水世話人」という一年毎の持回りで村人によって管理されています。

 和田宿の中ほど、東側の急斜面を登ったところに山寺があります。和田宿の裏山のような存在である盛平山の屏風みたいに競り上がった突端の高台にある寺、龍淵寺です。山門へ登る不揃いな石段はとんでもなく急です。バランスを崩さないように気をつけていないと下まで一気に転げ落ちてしまいそうです。
 このお寺、南はずれにある諏訪神社とともにたぶん和田宿の信仰の柱なのです。お寺の息子さん、副住職の盛(もり)宣隆さんがとても元気で、たぶん村の行事の中心人物。境内は古いながらもしっかり手入れされた、たぶん結構裕福なかんじのお寺なのです。檀家さんにしっかり支えられているのでしょうね。

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 この龍淵寺の境内から湧き出る水が「まつもと城下町湧水群」などとともに「平成の名水百選」に選ばれました。「観音霊水」という名前です。盛平山の地下に蓄えられた水量の豊富さを思わせる勢いで滔々と湧き出しています。

 「観音霊水」の湧出している地点、龍淵寺の境内に隣接した敷地はかつて和田城があった場所です。和田宿を一望できる見晴らしの良い高台。戦国時代にこの地を治めた豪族・遠山氏の居城があったのです。大阪冬の陣、夏の陣の頃、遠山郷のほか、大河原と鹿塩(つまり大鹿)、福与、部奈から上伊那の赤穂までを領地にするほど隆盛を誇ったという遠山氏は、戦国時代の終焉とともに離散滅亡。この地は幕府の直轄領となり和田城は廃止されました。

 お城はやがて潰れてなくなり、17世紀中頃、この高台は朱印地として幕府から龍淵寺へ下付され田圃になりました。
 「観音霊水」はもともとこの田圃に引かれた農業用水だったそうです。ミネラル分たっぷりの硬水、味のはっきりしたおいしい水です。こんなおいしい水を田圃に引いていたとは、きっとものすごく美味しいお米が採れていたに違いありません。

 十数年前、その田圃に和田城が復元されて郷土資料館になったとき、副住職の盛さんはここに水くみ場を作りました。おいしい水をみんなに飲んでもらおう、ということです。さらに数年前、水質調査によって「カルシウム、マグネシウムが豊富な日本では珍しい硬水」という分析結果が出たことで認知が深まり大人気に。今では毎日あちこちからいろいろな人が水を汲みに来ます。

 盛さんをはじめ和田の人々は、この谷間に流れてきた歴史も含めてこの水を大切にしています。遠山氏の居城として和田城がここにあった頃から永々と湧出し続けている、ずっと村人によって守られて来た水です。平成の名水百選に選ばれたことが一過性のイベントで潰えないようにこの水をこの土地の魅力として維持して行くのです。水源である盛平山の環境保全や植林も推進しています。
 「井水世話人」という独自の方法を誇りを持って続けている和田の人々です。大丈夫、たぶん。

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 8月最後の週末。和田宿がにわかに活気づきます。
 御射山祭です。

 諏訪大社に起源を持つこの祭は信州各地に散らばる諏訪神社で等しく行なわれている夏祭のひとつなのですが、祭礼そのものに「御射山祭」という名称が残っていることがなんだか面白そうなのです。
 古来、神事・御射山祭は諏訪大社上社の境外摂社である原村の御射山神社で行なわれていました。諏訪信仰を広める要素のひとつでもあって、各地に御社山、御斎山、三才山などの地名が残っています。
 原村なのです。つまり、遠山から地蔵峠を越えて大鹿へ、分杭峠を越えて高遠へ、さらに杖突峠を越えて甲州街道へ抜けたところにあるのが原村の御射山神社なのです。そのままだったら単なる諏訪神社の夏祭であるこの祭に、何か個性的な魅力を備えさせる要素のひとつがこの「御射山」という名前です。

 ここには物語がありそうです。

 ~つづく~

【Ngene掲載:2008年8月27日】
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和田・御射山祭・山の宿場街に夏祭のにぎわい(2)

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 御射山祭は諏訪大社の大きなお祭りで、やはり8月の終わりのこの時期に行なわれます。中世、戦国時代は八ヶ岳山麓、霧ヶ峰から原村、富士見町一帯で毎年行なわれていた大行事らしく、このあたりにはこの祭に関係する神社や地名が多く残っています。
 平安時代の文献に最初にその記述が表れるこの夏の祭礼は、3日間、いくつかの社殿を移動しながら行なわれる大がかりな狩猟神事が起源。室町時代から鎌倉時代にかけては特に、全国から人が集まるビッグイベントで、幕府の下命によって信濃国の豪族が毎年持回りで運営していたそうです。大変でしたね。

 山の中にある神社では、巻狩、草鹿射、相撲などの狩猟や武芸を奉納し、里にある神社ではお練り行列を繰り広げます。参列者はススキの穂で葺いた仮屋・穂屋で寝食しながらすごしたようです。なんだか、夏の野外フェスみたいです。
 鎌倉時代の全盛期は将軍をはじめ幕府の要人、北条家、武将が全国から集まってその穂屋に宿を取り、民衆も大勢集まり、身分を問わず楽しんだということなのです。なにやら、信州の信仰や祭礼にはこんなタイプの、フラワー・ムーブメント的なレイヴ・パーティーのような風習が多いですね。
 霧ヶ峰にある旧御射山神社脇の斜面には、この穂屋を設営した土壇が残っています。きれいに造成された土壇がいくつも、おそらく20区画近い土壇が今でも斜面に確認できます。

 この界隈からまっすぐ南下して伊那山脈を分け入り、中央構造線に沿っていくつかの峠を越えて来ると、その南端がここ、遠山郷、和田になるのです。「御射山祭」の名前がこの南端の宿場街に残っているのも、この伊那山脈を巡る神聖な物語の痕跡かもしれません。

 前日から祭の準備に取りかかった和田の人たちは、遅い午後、ひととおりの準備を終えてそれぞれの会所で酒食します。楽しそうです。街道に三々五々、人々が顔を出し、集まり、和田宿はだんだん賑やかになって行きます。
 どの家にも軒先には古風な提灯が下がります。これがまた良いのです。なんでしょう、デザインがちゃんと風土や文化を踏襲しているから、この風景の中で自然に映えるのかもしれません。

 ◆◇◆

 遅い午後、どこかで神輿の動き始めた気配がします。遠くでわずかに声が聞こえたり、会所にいた人たちがいつのまにか姿を消していたり、ほっこりと谷間の街道筋に流れている空気の中にじんわりと始まった気配が伝わってくるのです。
 浴衣や甚平を着た子供たち、縁台の老人、久しぶりに帰省した家族、若者たち、おじいちゃんもおばあちゃんもみんな街道に出始めます。とある軒先で、おそらく数十年ぶりに再会したおじいちゃんたちが自分の卒業した年を伝えて同窓生であることを確かめ合っています。

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 和田宿のまんなか、何軒かのテキ屋の屋台が並んだ路上で南を向くと、万国旗の巡らされた街道の先に迫るような稜線が見えます。この稜線の落ちたあたり、和田の集落を南に出はずれたところに諏訪神社の森があります。どうやら御射山祭のお練り行列はこの諏訪神社から始まるようです。

 酒食を終えて会所を出た各町内会の神輿も、保育園や小学校の子供神輿も、商工会や企業、青年会も、すべての神輿やお練り行列が夕刻までに諏訪神社に集まりました。これは祭の作法としてとても楽しいやり方だと思うのですが、意外なことに、800年におよぶ長い歴史の中で今年が初めてのことらしいです。

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 この諏訪神社はもちろん、12月には霜月まつりが行なわれる神社です。社殿の土間のまんなかには湯立てのための竃が掘られています。立派な社殿です。和田の建築物は北隣りの木沢と比べて大きく立派なものが多いように思います。

 提灯や行灯に火が灯り始めた夕方6時すぎ、神社の裏手で合図の花火が威勢よく打上げられました。子供神輿から順番に諏訪神社を出発します。およそ20基の神輿が秋葉街道を北上して和田宿に入り、賑やかに人を集めながら、辻々で休憩してもてなしを受けながら、宿場街の中を練り歩いて行きます。

 しんがりを「観音霊水」の大きな行灯が務めます。軽トラックになかなか風情のある色合いの歌舞伎絵行灯を乗せて、接触不良でときおり音の途切れるラジカセから祭り囃子を流しながらお練り行列の後を追います。昔はちゃんと笛や太鼓の人が随行したのでしょうか。

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 今年の御射山祭はお練りの行列が宿場街に到着した頃から雨が降り始めてしまいました。
 行列は雨のぱらつく街道筋を練り歩きます。あちこちで元気よくきおいを練りながら、宵闇の深まる和田宿を北へ向かいます。

 終着点は和田の北のはずれにある遠山中学校。街道を練り歩いて抜けて来た行列も、行列と一緒に少しずつ歩いて来た観衆も、だんだん校庭に集まって来ます。遠山の谷はすっかり暗くなって雨足が強まっています。全部の行列が校庭に到着した午後7時すぎ、雨を衝いて3基の大三国が火を噴きます。おそらくこの夜いちばん雨足の強まった時間帯でした。お練りの終わりと大花火大会の始まりを告げる仕掛花火が天に向かって噴き上げます。

 7時半、花火が谷間に轟き始めました。お練り行列を終えた人々が遠山中学校を出て和田宿の中心へと街道を戻ります。みんなずぶぬれです。

 花火は遠山川の河原、和田地区のまんなかあたりの河原で打ち上げられています。
 複雑な山襞から跳ね返ってくる音は低音から高音までまんべんなく、腹にドスンと来る太い残響が谷間の空気をうねらせます。
 雨は少し弱まっています。次から次へ尺玉があがり、スターマインが轟音を轟かせ、そのたびに谷間を駆け巡る野太い残響が体を振るわせるのです。この感覚、なかなかたまりません。

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 夜はさんざん花火を打ち上げて、翌日2日目の昼、宿場街の中央にある広場の新しい舞台でいろいろなアトラクションを披露して御射山祭は終わります。

 ふだんは静かな、山から降りて来る空気の音に耳を澄ます和田の集落。にわかに人のエネルギーが集まって高まって弾ける夏祭りは、一年の暮らしの中にちょっとした脹らみを拵えて、この山村の人々の営みに個性と表情を与えているように思います。

 同じ遠山郷でもこの和田地区の雰囲気は陽性を感じます。祭の在り方や、観音霊水や復元和田城の作り方や使い方、地域のいろいろな資源に対する取組み方が、少しずつ元気で明朗なのです。これは、かつて遠山郷の中心地となる宿場町だったことから生まれた気質なのでしょうか。
 たとえば、お隣の木沢地区はもっと控え目で、いろいろな出来事にストイックに取組みます。旧木沢小学校の残し方や、村の魅力として取り上げるものの種類や、霜月まつりの処し方、ひとつひとつがそれぞれの本質に近づくことを目指していて、地味だろうがわかりにくかろうがそのやり方の中で現代の新しい方法を探っています。

 同じ霜月まつりを守り続けているふたつの地区で、距離にしておそらく2kmと離れていないこのふたつの地区ではっきりと気質が違うのです。さらに上村に行ったらまた違う気質があるに違いありません。
 それぞればらばらな個性を持った地区が、神の宿る大自然を由来とするひとつの文化をそれぞれの方法で育てて行く。それぞれの方法を否定し合うことなく自分たちの方法を誇りながら、重層的な価値観や判断基準を持ってそれぞれの方法で高めて行く。そこに通底している理念は一緒。

 そんな高い次元での交流やアイディアの環流が日常的に起きて行ったら個性的で豊かな地域が実現することは間違いありません。古来から他所の文化の往来を歓迎し、外の文化を融合させながら誇りを持って自分たちの流儀を続けて来たこの遠山郷の高い寛容性は、今までの枠組みを破棄して豊かな社会を作ろうとするときに必ず役に立つのです。

 遠山郷の夏祭りをぶらぶらしながら、そんな精神的、文化的な豊かさが、ゆくゆくは現代社会を支配している消費経済的、物質的な豊かさに取って代わるといいな、と思ったりもしたのでした。

【Ngene掲載:2008年8月29日】

清内路・大まきに宿る(1)

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 長野県下伊那郡清内路村。

 飯田市の南部から木曽谷へ抜ける峠路の登り口にある村です。その清内路峠は木曽谷と伊那谷を結ぶ重要な交通路、御岳山と善光寺を結ぶ修験回廊の一部でもあって、山岳信仰の宿る精神性の高い街道筋にあります。1500メートル前後の山々に囲まれ、「清内路」という美しい三文字の名前と峻烈な歴史を持つ個性的な村なのですが、近年その存在感は薄れ、南信地域でも忘れられがちな村になっているように思います。来年、2009年の春には麓の阿智村と合併することが決まっているそうです。

 村の最深部、小黒川沿いに谷筋を分け入った一番奥に、清内路の人々が「おおまき」と呼ぶ大木が立っています。樹齢300年以上、樹高18メートル、幹の太さは7メートルあまりもある大木。国の天然記念物に指定されています。幹の太さはこの種では最大とのこと。そして、大きさもさることながら、その枝振り、幹や葉の色、木の発するエネルギーがとても深い生命感に満ちていて、なんだかカリスマを感じる木なのです。
 清内路の人々が精神的な拠りどころにしているこの木は、この村のあらゆる出来事を感じ取りながら、この谷間でその記憶を幹の中に留めて来ているように思います。見上げていると、「大丈夫、大丈夫、まだまだ行けるよ」という声が幹の中から聴こえてくるような気がします。

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 根元には祠があります。山の神様が宿っているのです。清内路の人々は神の宿るこの木を「おおまき」と愛情を込めて呼んでいるのですが、国指定の天然記念物であることを記した碑には「ミズナラ」と表記されています。


 「ここではこの木を小黒川の大まきと呼んでいるが、実はミズナラである。ミズナラはオオナラともいってコナラとともに本邦各地にごく普通にみられるもので……」という解説がなされているわけですが、ここにあるこの木は明らかに「本邦各地にごく普通にみられるミズナラ」とは違うものです。明らかに違った個性を発揮しているのです。
 ものごとを数値化し、平均化し、分類し、平易に把握することを目指す近世の科学が捉えた単なるミズナラと、地脈や水脈、歴史をその細胞の中に留めて来ている個性的な生命としての大まきの違いなのですね、きっと。清内路の人たちはこの違いにこだわりがあります。ミズナラと呼ばれるのはちょっとイヤだそうです。

 この違い、実はこれからの社会が豊かに幸福に進んで行くためのヒントに結びついているように思います。

 「限界集落」という概念があります。この言葉はとある人文学者さんの解釈によって統計上生まれたものなのですが、65歳以上の高齢者が50%を越える集落を指し、共同体として生きてゆくための「限界」を越えた、やがて消滅へと向かう集落と定義づけられています。

 確かに、現存する市場経済の視点から考えたら、この状態は市場原理が強く働いて消滅へと向かう共同体であるに違いありません。今までそういう事例はたくさんあったでしょう。その原理に従って廃墟になった街もアメリカ大陸にはたくさんあるようです。
 けれど、では何故、たとえば大鹿村には知的な層の外国人や若い世代が移住して来たり、おじいちゃんやおばあちゃんが重い荷物を坂の上まで軽々と運び上げたり、ジャック・ケルアックやゲイリー・シュナイダーといった世界的な文芸人が遊びに来たりするのでしょうか。それは、とても元気で、魅力的で、今から消滅へと向かう村には思えません。

 「限界集落」という概念は、そこにある状況を数値としてしか捉えません。そこに居る一人ひとりの個性、その土地の持っている個性のことを把握する能力はないのです。あ、これは「限界集落」という定義を否定するものではありません。そういう絶対科学的な概念では理解できない、その地域の存在理由、人が住んだり集まったりする理由があって、そういう数値化できない感性に関わる部分を認識しなければ社会は一向に豊かにならない、ということなのです。人間は感性によって存在しているのです。

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 清内路村はかつて煙草の栽培と炭焼きで潤い、農業と林業で自立しながら四季折々の祭を守り、歴史を守り、地脈や水脈に素直に従う自然で豊かな暮らしがありました。そして、その生活は「出づくり」という文化によって支えられていました。農繁期に畑の近くに移住する習慣です。

 普段人々が居住している低地は急峻な斜面ばかりで農耕に適した土地がありません。むしろ山頂近くや谷筋の奥の方が平地が多いため、養蚕や煙草の栽培、畑をつくる春から秋までの農繁期は山腹にある別の家に移り住んで、そこで生活しながら畑仕事をするのです。子供たちもそこから山を下って学校へ通います。これが「出づくり」という農耕の技術、清内路の人々のやりかた、つまり文化でした。


 今では「出づくり」の集落のほぼすべてが廃墟になっています。この村から「出づくり」が消滅して行った経緯は、利己的市場経済があちこちに不幸をまき散らしながら地球上を占拠して行った歴史と重なります。特に戦後の日本において統制を強めた自由主義経済、消費を基軸にして成立する非創造的な、自由なんてうそっぱちの経済が社会を変質させて、やがて文化や精神性や誇りよりもお金を拠りどころとする風潮が国内に蔓延していったとき、この村の人々は農業や林業をやめてサラリーマンになっていったのです。

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 1960年代、農業や林業は前近代的で貧しいものだという宣伝が社会のあらゆる階層で大々的に行なわれました。自分の手で何もしない便利な生活が豊かで楽しく、それを手に入れるためにはお金が必要で、お金を安定的に手にするために個を滅して生涯にわたる忠誠を会社に誓う、いわゆるサラリーマン化が国家的な規模で奨励された時代でした。サラリーマン化はよく見ると秘密結社化に似ています。

 これは結局、お金を動かすことによって利潤を得る一部の金貸したちの全世界的な施策に国家が相乗りした結果だと思うのですが、ともかく、日本の社会は総動員体制でお金を追い求め、効率を求め、他人の財布から掠め取るように利益を上げることが賞賛されるという野蛮な状態に陥りました。文化や歴史、人と人の繋がり、家族の繋がり、世代間の交流や地域の交流、人間としての尊厳や誇りなど、社会を重層的に豊かにするための技術をどんどん排除して進んで来たのです。

 それまで自立して豊かに暮らして来た山間農地は、不便で暗く、余暇もなく貧しい暮らしをする場所として宣伝されました。無自覚に情報を垂れ流す日本のテレビメディアによってそのイメージは大量に頒布され、更にアメリカの圧力に屈した政治行政によって農地は不要とされ日本の国土からどんどん姿を消して行きました。その中で農業が生き残って行くためには、平均化された全国的な組織の中で統制された個性のない産業に変質するしかありません。大型機械や農薬に頼って大量生産と安定供給だけを目指す活力のない産業です。

 おそらく、清内路村のように地理的に個性の強い地域は効率が悪く、統制にそぐわないだろうと思います。しかるに農地や森林を捨ててサラリーマンになることが、清内路村では唯一に近い選択肢になってしまったのではないでしょうか。
 清内路村の山林はどんどん荒れ、山間に開拓された農地は放置され、与えられる利便性が社会の常識になり、利便性が充分に届かない村に耐えられない人は出て行きました。清内路村の個性、存在理由となっていた要素は次々と消滅し、経営資源を失った地域の産業は衰退して、財政もままならない過疎の村となって行ったのです。

 平成16年、「これはいくらなんでもおかしいぞ」と感じた清内路の人たちは、村役場に行って村の現状を詰問しました。そこで判明したのが逼迫した村の財政です。「村になんとかしろと言ってももう無理なんだ」ということを、清内路の人たちは自分の目で確認したのです。
 最初は当然、大混乱。どうしたら良いのか、清内路の人たちは途方に暮れました。自分の住んでいる地域の財政が崩壊しているのです。行政サービスの多くが機能しません。財政を再建できるようなお金はどこにもありません。旧来の方法、産業を誘致したり、工場を誘致したり、無理矢理何かを引っ張って来て設置する方法は不可能です。地域産業は消滅してしまっているので、それを手掛りに新しい産業を創成することもできません。そんなときに住民はどうしたら良いのかなんて、清内路村に限らず、誰にもわかるはずはありません。

 何度も寄り合って話し合った結果、直接打開するアイディアなど出ない中で、とにかく自分たちのことなんだから自分たちでなんとかするんだ、という意識が自然に盛り上がって来たそうです。

 そこから、清内路の人々の闘いが始まりました。自分の住む場所、清内路がどんな歴史を持ち、かつてどのように暮らし、どのような性質、個性があり、何を大切に生きて行くべきかを考え始めたのです。その過程で浮かび上がって来たのが、古来からの伝承、歴史の物語であり、戦後の高度経済成長期に起きた出来事に対する評価であり、大まきに宿る清内路の精神性、誇りだったのです。

 「温故知新」という言葉があります。歴史を無視しては未来なんてありえません。良いことも悪いこともすべて詳らかに水平に認識していないと適切なアイディアは生まれません。清内路の人たちは、戦後の日本の社会が放棄してしまった大切なものをもう一度思い出すことから始めたのでした。

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 いま、清内路村の村役場に行くと、玄関に「自分のことは自分でする」というスローガンが大きく掲げられています。経済状態の改善は間に合わなくて、来年の春には阿智村と合併することになったのだと思います。行政区分としての清内路村は消滅します。
 けれど、自分たちの歴史や文化を再認識し、自分たちの方法を取り戻そうとし始めた清内路は、吸収合併されたとしても、自立した地域に戻るための力を取り返せる可能性は高いと思います。

 現在、清内路では面白い試みがいろいろと始まっています。「出づくり」の廃屋を利用して宿泊しながら都会の若者が農山村の生活を体験したり、週末にはそこでDJパーティーが開かれておじいちゃんやおばあちゃんが一緒に踊り明かしたり、落雷で折れた大まきの枝でコカリナを作ったり、自分たちの力だけで音楽会を定期開催したり、いろいろなことが始まっています。

 その楽しそうな様子については、また今度、その(2)でお伝えします。

【Ngene掲載:2008年8月10日】

清内路・大まきに宿る(2)

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 秋の清内路、巨木・大まきの下です。
 ここは小黒川(こくろかわ)という沢づたいに切れ込んだ谷の奥。ここから先は林道、といういちばん奥です。

 清内路には川に沿った3本の深い谷筋があります。北から南へ流れ下ってやがてふもとの阿知川にそそぐ黒川を幹に、清内路川と小黒川が樹状に分かれて北の山間へ谷を刻んでいるのです。
 清内路川は下清内路地区の上端で黒川と分岐し、北西方向へ上清内路地区を抜けて木曽谷との境である清内路峠へと登り詰めます。分岐点から北東方向へカーブした黒川はほどなく小黒川と分岐し、小黒川はそこから北西方向へ伸びて行きます。黒川はそのまま集落を抜けて北東方向の山の奥深くまで分け入り、秘境・赤子が淵に達します。

 赤子が淵の先にかつては大平街道を経て飯田の街へ抜ける道がありました。南麓の阿智村から登って来ている現在の国道256号線が開通したのは1950年代。それまでは切り立った谷の縁を歩いて赤子が淵を抜け、険しい山道を黒川に沿って大平へ抜けるのが伊那谷へ至るルートだったのです。かなり険しい山中の道です。ですが、それ以上に、下清内路地区から下流の阿智村に至る黒川流域は、当時の技術では道を通すこともできない急峻な渓谷だったのです。

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 清内路はそのすべてが山の中です。源流に近い清冽な渓流と山襞のあちこちから湧き出す豊かな清水、険しく迫る山と少ない平地に拓かれた畑や家々の佇まいがここの景観的な個性です。そして、この険しい地形の中に、清内路の物語や魅力が、清内路という美しい名前を持った村の存在理由がひそんでいるのです。

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 ◆◇◆

 11月9日の日曜日、清内路小学校の体育館で「きかまい会」というグループが主催したタテタカコのライブが行なわれました。
 「きかまい会」というのは今年で4年目。自分たちでいろいろな音楽会を企画、運営実施する会です。内容、出演者のブッキング、出演交渉から広報、チケットの販売、準備から当日の運営まで、完全に清内路の人たちだけで進められます。

 きかまい会のみなさんによる手づくりの会場です。

 襖や障子は、再利用を進めている出づくり家屋の建具を持って来て細工したものです。
 きかまい会には桜井三也さんという宮大工さんが参加しています。この方、信濃比叡や今宮神社など、南信地方にある多くの寺社を手掛けた著名な宮大工さんなのです。三也さんの美しい技は、あちこちの神社やお寺の木工細工、彫刻、門やお堂などの建築物に見ることができます。この舞台セットもちょっとしたところに宮大工の知恵が仕込まれています。

 そして、舞台蹴込みの花飾りはかつて養蚕で使われた道具、桑を敷いてお蚕様を飼う「かごろじ」に清内路のデイサービスセンター「ひだまり」のみなさんが色紙で飾りを折って付けたものです。楓の枝とすすきの穂、御神燈の中には小さな明かりが灯っています。とても温かい舞台セットですね。

 この会場に、この日曜日は270人が集まりました。そのうち、およそ3分の2が清内路の外から、長野県外からも大勢の人がやって来ました。
 きかまい会とは、こんなに大勢の人を清内路に呼び込むことのできる、とても魅力的なイベントを作るグループなのです。

 清内路には今、いろいろな会ができています。

 この日のライブにも参加した「コカリナをふきまい会」。
 2004年の台風で大まきの枝が折れてしまったとき、「きかまい会」の中心にもなっている原京子さんたち数名の有志が「共に生き続けるものにして残したい」と考えたコカリナ。ハンガリーからコカリナを持ち帰り改良を加えて現在の形にした上田市のフォークシンガー・黒坂黒太郎さんにお願いして、折れてしまった大まきの枝をコカリナにしたのです。
 これがそもそも「きかまい会」のはじまり。最初は「コカリナをきかまい会」だったのです。「きかまい」はやがて「ふきまい」に変わり「コカリナをふきまい会」スタート。以来、クルミ、栗、桜、ネム、など清内路で間伐される木を使っていろいろなコカリナが製作されています。そして「コカリナをふきまい会」は、大まきの下で毎年演奏会を行なったり、被爆した柳の枝で製作したコカリナを持って原爆ドームへ行ったり、北京オリンピックのプレイベントで中国に渡ったり、とても面白い活動に繋がって来ています。

 このあたりのグループ活動のはじまりは、京子さんや、上清内路のお豆腐屋さん「長田屋」の奥さん・小池かおりさんらが中心になっている、子育て中のお母さんの集まり「サークルぽっかぽか」にあるようです。
 元気で個性的な女性が活躍している地域というのはいろいろ面白いことが起きるものです。女性の方が人間の感性に正直だからですね、きっと。この部分、男系社会は皆目ダメです。使い物にならないビルばっか作っちゃいます。

 「サークルぽっかぽか」は、そのほかにも「NICE」というボランティア組織と組んで「週末清内人」というプログラムを推進しています。
 NICEは国際的なボランティア組織で、対象地域に合宿しながらボランティア活動を行なうワークキャンプという方法を主体にしています。
 週末、現在は廃屋となっている出づくりの家屋に泊まり込んでいろいろな清内路体験をするのが週末清内人。炭焼きをして焼きたての炭で焼肉パーティーをしたり、ハチノコ、五平餅、山菜、沢ガニ、椎茸、いろいろな食文化に触れたり、山歩きをしたり、クワガタを捕まえたり、ときには出づくり集落の背景にある扇状の斜面(かつては畑だった)で夜通し踊り明かすDJイベントなんかも開催されます。そんなときには清内路のおじいちゃんやおばあちゃんも夜っぴて踊り明かすのだそうです。楽しそうなことしてますね。
 清内路の歴史を知り、個性を知り、その魅力を人に伝えることのできるアクティヴな能力を持った女性たちがこの谷の起爆剤になるかもしれません。

 今年のきかまい会は31人の清内路の人たちで組織されていました。清内路のいろいろな職業の人が、いろいろな年齢の人が、実行委員長の原利正さんのもと、春からいろいろな話し合いをして、ちょっとずつ準備して、丹誠を込めて自分たちの手で作り上げて来たのです。いろいろなタイプの人が混ざって集まってひとつの目的に向かう、この方法が社会を前進させます。

 最長老は桜井一芳さん、78歳。今回は一芳さんのお宅へ民泊して、若かりし頃の清内路のお話を聞くことができました。とても興味深いお話でした。

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 一芳さんのお宅はこの坂の途中にあります。下清内路地区の鎮守の丘・観音山をぐるりとまわって梨子野峠へと向かう村の出口、かつては関所のあった坂道です。
 清内路は平地が少なく、多くの家が石垣の組まれた敷地にあります。観音山で落ちた木の実がころころと道を転がって下の集落まで下りて来るくらいの傾斜地です。路傍には山の奥から引かれた水路が滔々と水音を響かせています。

 この急峻な渓谷で、かつて清内路の人々は独自の方法で豊かに暮らしていました。炭焼きや木工品など森林資源の利用、養蚕、煙草の栽培がここの基幹産業でした。殊に江戸時代、清内路の煙草は「おいらん煙草」と呼ばれる高級品と目され、江戸や京の都に売られて清内路を支えていたのです。

 一芳さんの少年時代はアジア太平洋戦争前夜。豊かだった清内路の暮らしが陰り始めた時代です。戦争というのは凶悪な搾取の仕組みです。山奥の小さな村が自立していたバランスを完全に崩壊させてしまいます。

 平地が少ない清内路は稲作を行なう田んぼが少なく、戦中戦後の食糧難のときは困窮を極めました。食べることがやっとだった日本で贅沢品だった煙草はおそらく需要が減り、主食の米を作る水田が少ない清内路は一転してとても貧しい村になっていったのだと思います。
 一芳さんも、子供の頃は芋を煮た鍋の中に時折お米が混じっているくらいの、とても厳しい食生活を送ったようです。

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 現在、清内路で唯一残っている水田。下清内路、黒川上流の比較的傾斜が緩やかな場所にあります。このあたりが清内路で一番最初に人が定住し始めた地区のようです。

 平地が少ない、ということはつまり、居住するための土地も限られています。明治時代に500人ほどだった清内路の人口は、農業や林業で潤ううちに、最盛期には2,000人程度まで増加していました。その結果、わずかな平坦地に集落が密集して、そこからはみ出してしまう人は清内路から出て行かざるをえませんでした。渓谷はきわめて険隘で宅地を増やすことには限界があったのです。どの家も家を継ぐ長男以外は村を出て行きました。

 長男ではない一芳さんもしかり、桶を作る職人になるようにという母親の世話で、若い頃は木曽の上松へ丁稚奉公に出ていました。
 昭和25年、勤めていた桶屋さんが火災で全焼し、職を失なった一芳さんは清内路へ舞い戻ります。終戦直後の混乱の中で職もなくブラブラしていたところ、たまたま郵便局員の職が空いてスッポリとそこに収まることができたのだそうです。「幸運だった」と一芳さんは笑いながら話してくれました。

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 一芳さんの興味深い話はまだまだいっぱい続きますが、このまま行くととんでもなく膨大な文字数になってしまうので、断念。
 今、一芳さんは清内路の個性を表現するためにいろいろなことをトライしています。「やっぱり特産物を活かすことが大事じゃねぇか」と思い立ち、得意な漬物づくりの腕を発揮して、清内路にしかない赤根大根を使った「あかねの塩漬」や「キノコ漬」を作っています。長野県の料理コンクールで県知事賞を受賞した逸品です。 
 ちなみに、娘さんの桜井紀子さんも、清内路特有の黄色の鮮やかなかぼちゃを使った「清内路かぼちゃのおまんじゅう」が調理師会長を受賞。
 また、廃れてしまった炭焼きを復活させようと、若い頃の記憶を頼りに少しずつ炭を焼き、それを若い人に伝えようとしています。「きかまい会」や「ふきまい会」にも積極的に参加したり、「週末清内人」の時は、一芳さん宅に民泊した若い人たちの間で若い頃の話が大好評だったり、もちろん、DJイベントのときは朝まで踊ります。
 とても元気です。
 そして、まだ清内路の中の若い世代とお年寄り世代が充分に混じりあえていないことを課題に挙げています。清内路を前進させて行くためにはこのことを解決しなければいけないのです。

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 清内路の郷土食「箱寿司」。おいしいです。寿司といえば朴葉寿司というのもあるみたいです。今度食べてみたい。
 「山河料理・掘割」のシシ鍋。今は豚と掛け合わせたイノシシを飼育しているそうです。味噌味で、シシ肉の旨味が濃くて美味。暖まります。
 軒先に「清内路あかね」。ごろっと無造作に置いてあるのがいいかんじ。まるまると太った新鮮そうな白菜もごろりと置いてあります。右端にあるのは清内路の冬の風物詩「観音山の直滑降(いま命名)」に使うそりのようです。この形が観音山のコースに合ってるのか?どの家の庭にも同じような形のそりが置いてあったり、転がっていたり……。

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 清内路の人たちはとても個性的でした。老若男女、いろいろな仕事をしている人たちがみんな、元気で個性的です。そして、自分たちの手でいろいろなことを始めています。

 清内路といえば300年前から絶えることなく続けられている「手づくり煙花」。手づくり煙花というのはつまり、村人が自分たちで煙花を作るのです。毎年秋、10月上旬に上清内路と下清内路、それぞれの諏訪神社で行なわれる村人による奉納煙花。これは全国で唯一、清内路だけにある祭の流儀です。

 何度か勃発した世界戦争と金融資本主義による近代化の中で清内路は基幹産業に痛手を被り、自分たちの流儀の多くを手放して来ました。産業とともに人口は流出し、現在の人口は700人あまり。来年の春、ここは清内路村ではなくなります。ふもとの阿智村に編入合併されることになっています。

 けれど、人口は多ければ良いのか。その地域が豊かに暮らして行くための適切な人口があって、それはその地域の産業や、目指す方向によっていろいろなのではないかと思ったりします。
 それよりも、そこに住む人々の存在が際立っているかどうか、ということの方が重要かもしれません。人数は少なくても個性的なエネルギーを持った人たちがいること。そういう点で清内路の元気はとても明るい材料なのではないかと思います。

 今回の「きかまい会」ライブを中心になって運営した原佳世さんは23歳、清内路村青年会の副会長さんです。2年ほど名古屋で仕事をした後に清内路へ帰って来ました。清内路のいろいろな問題をリアルに受け取り、伝統や文化が市場経済あるいは金融資本主義とぶつかったときに生まれる軋轢を認識し、いろいろな世代や立場を超えて人々が話し合う必要性を感じています。そうすることが清内路を良い方向へ引っ張って行けることを確信していて、なかなかそうなっていかない現状にぶち当たりながら、少しずつ、前進を始めています。佳世さん、一見、社会情勢について考察するようなタイプではなさそうなのですが、話をしていると、地域の状況についてとても正確に認識しているのを感じました。

 「行政区域としての村はなくなっても、人の気持ちに変わりはない。清内路は清内路」。佳世さんの現在の認識ですが、それはたぶん、清内路でいろいろな活動を始めた人々に共通した想いなのです。

 大切なのは人です。
 清内路は大丈夫。

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【Ngene掲載:2008年11月18日】

清内路・大まきに宿る(1)
清内路村ホームページ

※大まき
村の最深部、小黒川沿いに谷筋を分け入った一番奥に、清内路の人々が「おおまき」と呼ぶ大木が立っています。樹齢300年以上、樹高18メートル、幹の太さは7メートルあまりもある大木。国の天然記念物に指定されています。幹の太さはこの種では最大とのこと。

※出づくり
普段人々が居住している低地は急峻な斜面ばかりで農耕に適した土地がありません。むしろ山頂近くや谷筋の奥の方が平地が多いため、養蚕や煙草の栽培、畑をつくる春から秋までの農繁期は山腹にある別の家に移り住んで、そこで生活しながら畑仕事をするのです。子供たちもそこから山を下って学校へ通います。

「羅針盤」抜粋 〜市村次男さん《1》〜

「町並み修景事業」とブランディングの符号

 1980年から87年まで実施された「小布施町並み修景事業」を皮切りに、小布施のまちづくりを牽引した小布施堂社長・市村次男さん。古来、異文化を寛容に、真摯に受け入れ、豊かな地域文化を育んで来た小布施の歴史に、敬意と誇りを持ちながら、世界から旅行者を誘う、深い魅力のある街を創り上げて来られた方です。
 2009年の4月、市村家本宅・築100有余年の古い大きな屋敷で、日本の文化とまちづくりをテーマに、お話を伺ったことがあります。歴史を今に活かす手法、街並、地域を、ひいては社会を文化的に創ってゆくためのさまざまな手法についての、まる一日かけた対話だったのですが、その中から、まちづくりとブランディングの両方に符合する部分を抜粋してみました。いろいろな系列で符合する、このふたつのテーマは、経済と文化、地域と産業など、ブランディングについての多面的な考察を加えて行くときに、有効な視点を提示してくれるはずです。

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市村次男さん


デザインのための伝承

 デザインというのは、もともと、歴史とか風景とか、その場にある事象を、すべて踏まえるべきだと思うのですが、日本の、建築も含めて、デザインというのは、そういう部分がおざなりにされてきているように感じます。現状の自己実現の範囲を出ていなかったり、踏まえるべきものを踏まえていないために、突飛だったり、うそっぽかったり、ちょっと迷惑なデザインが出てくることが多いですよね。けれど、小布施の町の出来事を見ると、80年代くらいからもう、デザインはどうあるべきかということが考えられている印象がありました。当時からその認識はありましたか?

市村 ありましたね。いちばん分かりやすい例が、その頃、80年代の中頃から使っている栗のパターン模様です。そのときにこだわったのは、栗にまつわる小布施の歴史です。室町時代から栗の栽培が始まったという小布施の歴史がありますから、じゃあ、やっぱり栗は、なろうことなら「室町時代の栗」というのがいいんじゃないか、ということで、その時代の手箱の横に彫られた栗の模様を取り出して、それをコンピューターでパターン化した。今なら簡単にできるんですけどね、30年前の話ですから、それは大変な作業でした。
 やっぱり室町時代だから、栗の模様なんだけれども、広い意味の唐草模様、葡萄唐草なんですね。ですから、よく見ると、栗以外に蔓のようなものがあって、ぶどうの実らしいものも入っている。それは、現代に考えられた作為的なデザインではなくて、鎌倉時代、あるいは南朝、吉野朝廷の時代、つまり13世紀から14世紀の頃に、南宋あたりから、シルクロード周辺の文化が入ってきた、それを日本が受け入れた当時の模様なんです。だから、なんともいえず、600年前の雰囲気というのは、感じるられるんじゃないかと思うんですね。

 市村さんが、ご自分のお仕事として、この小布施堂や升一酒造のことを始められたのは、いつぐらいのことで、何代目の当主に当たるのですか?

市村 年齢でいうと31歳で、年代でいうとまさに1980年、昭和55年の1月からです。小布施堂の社長としては、たぶん4代目くらいだし、酒屋でいえば10代目くらいですが、ただ、この場所で一族が商売を始めてからは17代目です。

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複合性、全体性の面白さ

 ちょうど1980年、大学生だった頃に、僕は小布施に来ているんです。そのとき、小布施っていうイメージが既にあって、たぶん観光地というイメージがあって、観光を目的にして来ているんですね。で、升一酒造でお酒を買って帰ったんですが、じつは、今ほど街に降り立ったときに、はっきりとした景観の印象、美しい街並という印象はなかった。今は、この街全体がものすごく印象深い、美しい景観ができているんですが、どんなふうにして、この街の景観は形成されたんですか?

市村 大きな流れとして、小布施の産業の変遷があります。「栗菓子」というビジネスが、明治、大正、それから戦前の昭和、戦後の昭和30年代か40年代ぐらいまでは、産業としては農業と工業であり、メーカーだったんですね。それが、昭和30年代あるいは40年代くらいから、やっぱり直接お客さまに売って行こうという、言ってみれば、メーカーが川下に降りるようになって行ったんですね。それと、北斎館のような、歴史に着目した施設ができて、もともと人が訪れる街ではないのが、少しずつ人が訪れる街になってきた。そうなると、この街をどういう形でリニューアルしていくのか?という、これが重大なテーマになりますね。
 そうしたときに、まず考えたのは、生産拠点もこの一角にあるのが面白いだろう、ということでした。あまりゾーニングされちゃって、ここは観光客に来てもらう場所、ここは住む場所、ここは生産する場所っていうふうに分かれて行ったら、街は面白くなくなってしまう。だから、基本的に、いろんな機能を同じ場所に配置して行った。そのころ、それを表現する言葉がなかったので、我々は「機能の複合性を追求することによって、街は面白くなる」という言い方をしていたんですね。10年以上経ってから、ようやく、都市計画とか都市工学の世界で、「混在性の重要性」みたいな言葉で言われるようになってきたんですけど、そういう、共通して認識された言葉がなくて、理解してもらうのに、ちょっと苦労した記憶があります。
 けれど、やっぱりあの、子どもの頃に暮らしていた街の、混在性の面白さってあったわけで、それは、今よりもう少し農業というものに近い形だったのですが。今は、この建物の裏手は、ほとんど栗菓子の工場になってしまいましたけれど、私が子どもの頃は、酒屋の桶を干す場所であり、夏は畑であり、敷地内で鶏も飼っていたし、牛も豚も飼っていた。やっぱり混在していたんですね、いろいろなものが。一方で、酒も造っている、羊羹も作っている。それが、農業から少し離れて商業の方へ、店舗であるとか、飲食であるとか、そっちへシフトしては行っていますが、いろんな機能がこの場所にある面白さっていうのは、やっぱり大事だろうと。

 日本というのは戦後、どんどん細分化して、分けて、分けて、分かりやすく分類して行く方へ進んで来ましたね。その流れの中で、市村さんはどういうところから、そのことを感じ取られたんですか?

市村 私はかつて化学の会社に勤めていました。とりわけ、茨城県の鹿島コンビナートに3年ぐらい生活していたのですが、そこで、ゾーニングというものの味気なさを、いやというほど感じました。
 地図上では美しいんですよ。ここは生産エリア、ここは商業エリア、住宅エリアって。でもそこに生活してみると、あんな面白くない街はない。
 今でこそ、そういうのは面白くないって、社会的にも認知されましたけれど、よく、20年前、30年前は、住宅の適地っていうのは、閑静な住宅街だという考え方が濃厚だったわけですね。しかし私はずっと、生活の場っていうのは、いろんなものがごちゃごちゃしていた方が絶対に面白いと思っていました。閑静な住宅街っていうのは、学者を養成するとか、そういうことだったらともかく、ライブ感のある人間を養成するには、ああいう、住宅だけっていう場所はけして適してない。それから、商業施設だけというのも、それはそれで面白くないことはないけれど、どこかそれは、リアリティーというよりも、イリュージョンの世界に近いものになって行ってしまうし、なんだか、地から舞い上がっちゃったみたいな街になっている。それから、昔の生産と違って、今の生産というのは大変機械化されていますから、生産地帯っていうのも言いようのない寂しさがあるんですね、人気が少ないという。だからやっぱり、地図上ではごちゃごちゃしているかもしれないけれど、いろんな機能があることによって、温もりもあるし、変化もあるし、非常にそれは楽しいことだ、という実感がありましたね。

 たぶん、それに類することが、いろんな分野であって、学問も分類されて細分化されて、特殊な知識はその中で研究されて先鋭化して行くんですが、それを社会でどう使って行くべきか、というところが、細分化されて全体性を失って、わからずに進んでいる。

市村 細分化すると、すぐ専門家に振っちゃうんですよ。専門家、専門性は必要なんですが、専門家に丸投げするのはあんまり良くないんですね。ディテールは確かに詳しいし、細かいんだけど、スケール感は出てこない。全体の方向性とか、あるいは面白みとか、そういうのは芽が摘み取られちゃうところありますね。
 ヨーロッパやアメリカでは、都市の在り方として、ゾーニングもひとつの考え方ではあったけれども、それぞれが分けられることで、モノカルチャー化しちゃうということが実は面白くない、という考え方も、かなり強くあったんですね。けれど、日本はなぜか、ゾーニング一色になってしまった。今はだいぶ、そうではない方向の考え方が広がってきていますが、たとえば、わかりやすい例では、東京の大手町、丸の内とか。オフィス街に商業施設が入り込んで来ているのは、その方向のことだろうなと思うんですね。ただ、「住」、住むということが、まだ入って来てはいないけれども。

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《2》へつづく

※2009年4月に行なわれたインタビューから「地域のデザイン・プラクティス」ブランドのトータル・デザインに関する部分を抜粋しました。
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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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