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大鹿歌舞伎・片桐登インタビュー(上)



 片桐登さん。芸域の高い浄瑠璃弾語りで鍛え上げられたその語りは絶品。普段の話も、とても面白いおじいちゃんです。1928年、昭和3年3月の生まれ。大鹿歌舞伎保存会常務理事、全国地芝居連絡協議会会長。いわば、日本古来、固有の文化・地芝居の第一人者です。人々の大切ないとなみである文化を次々と壊死させてきた戦後の日本の社会で、その本質を認識し、守り、誇り高い文化として大鹿歌舞伎を発展させて来た、当代を代表する師匠の話は、面白いだけではない、意義の深さ、大切さを感じます。

 2008年春、今年、片桐さんは師匠の立場を後進に託しました。5月に大磧神社で行なわれた春の定期公演で、片桐さんの後継者、大鹿村教育委員会に勤める北村尚幸さんの、太夫襲名披露があったのです。その年の暮れ、半世紀に渡って担って来た肩の荷を下ろして、少しほっとした様子の片桐さんのお話を伺おうと、大鹿村鹿塩の山の上にある片桐さんのご自宅を訪ねました。N-gene、久しぶりのインタビューです。

 ※大鹿歌舞伎についてはこちらをご覧下さい。「大鹿歌舞伎・薫風新緑の野外劇」

 地芝居の発祥は江戸時代、元禄の頃といわれます。今から300年以上も前のことです。江戸では初代市川団十郎、上方では、近松門左衛門、坂田藤十郎、竹本義太夫が、それぞれの芝居を完成させて好評を博していた頃のこと。つまり、全国各地に散在する地芝居は、都の大歌舞伎にも劣らない、長い歴史をもつ芸能なのです。地芝居というのは、江戸と上方の間を往来した座や旅芸人に触発されて、各地で勃興したもので、特に、愛知県、岐阜県、静岡県、長野県の、農村、山村、漁村に、多く存在します。その多くが、人形浄瑠璃と歌舞伎。
 大鹿村は、芸能の道・秋葉街道の途上にあります。険しい山岳によって、江戸幕府の禁令、倹約令から守られながら、非常に芸域の高い歌舞伎が伝えられて来ました。村人は、難儀な農作業や山仕事の間にも芝居を想い、修練を重ね、禁を犯して、神社の祭礼に芝居を奉納し、300年の永きに渡って、神事であり娯楽であるこの行事を続けて来たのです。

 片桐さんのお話からは、昭和前期から現在までの、大鹿村や南信地方の日々の様子が、いきいきと伝わって来ます。まだ、あちこちに日本古来の文化が残っていた美しい時代に始まり、強力に流布された市場経済が、生活や産業を圧迫して極端な過疎化を招き、自分たちの流儀の継承について考えなければならなくなった現代まで至る、歴史の裏を辿る話でもあります。

 § § §

 この日の朝、健康診断の再検査を受けに、診療所に行って来たという片桐さん。今年の春の定期公演後に体調を崩し、目が見えにくくなるなどの症状に悩まされたそうです。今ではもう、不具合はなくなっているとのことですが、あちこちの病院で診察を受け、原因不明。最終的に、過労が原因と考えられ、休養を厳命されたそうです。

大鹿歌舞伎は、村の外での公演や海外公演なんかも多いですが、片桐さんの普段のお仕事、農業は毎日の仕事ですよね?大変だったんじゃないですか?

 大鹿の歌舞伎は、あれなんです、もう毎年、毎月のように、去年だっていろいろ、今年に入ってもいろいろ、ずっと続いとるわけなんです。休むときがないです。企画をして、外題を教えて行くにはどうしたらいいのか、どんなふうにしたら、どうなるのか、みんな全部ひとりでやってきたもんで、結果的に、歌舞伎を休む時はない。うちなんかもう、家内もあんまり若かないし、畑はいっくらでもあるんだけど、草だらけになって。とにかく、野菜だけは作っとるけれども、できるだけやってかにゃあならんもんでね、荒らしとくわけにはいかんし。

ーですよねぇ、畑の作物は休んでられない……。

 そのうえに、老人クラブのこともあり、神社の関係のこともあり、もとの歌舞伎のこともあって、そんなようなことっきりで、長いあいだ引き回されちゃって。

ー神社の関係っていうのは、どういうことですか?

 神社は、ここ(大鹿村)に、いま八つあるんですけど、各神社に総代っちゅう者がついとって。たとえば、大河原の上蔵(わぞ)っていうところにあります信濃宮なんていうのは、宗良親王っていう皇族を祀っとるんで、奉賛会(神社を崇敬する全国組織)に、大鹿だけじゃなくて、全国的なレベルで、寄付をしてもらったり、中学の生徒がみんな来て、勤労奉仕で、敷地の手入れや、素人でもできることをやってくれたんです。
 そういうことでできた神社だもんだから、いわゆる村全体の神社なんです。で、そういう神社なので、総代が14人ばかおるんです、私を筆頭に。他んところはだいたい、5、6人なんです。それだって、へえ、40人だか、50人になっちまうもんで。その会長をやってるもんで、信濃宮をやりながら、全神社の責任者ということなんです。そんな中で、いろいろの神事を行なう場合には、宮司を頼んで来てやるもんで。

ー頼んで来るっていうのは、外からですか?

 松川からです。大鹿の宮司は、おととし、きのこ採りに行って、クマに掻かれて亡くなっちゃったんです。大鹿でたった一人の宮司が。ここから奥に10分以上車で入ってった所の家の人だったんだけど。
 それもまた、まことにまずいことになん。
 ……奥様が、旅行に行ったんな。それでその、松川のインターに迎えに行く途中に、ちょっと早く行って、こっから行くと、トンネルがいくつもあるところに、川向こうへ渡る赤い橋があるんだけど、あそこから西の峯へ上がってった所に、えらいたくさん松茸出るっていうとこがあって、早く出てって、松茸採りに行って、そこにクマが出て、やられちゃったんですよ。そのまま、奥様、いくら待っとったって来ない。で、どういうわけだっていうことで連絡が来て、いや、うちは出てったっちゅうことで、それからいろいろ捜索して、明くる日から消防が出て、大騒ぎして探した。ぜんぜん見つからなんで、今度は、山岳救助隊が出てって、岩場のようなところへ行ったら、見つけて。
 こういうふうに、後ろから抱かれて、こう、右の目を抉られちゃった。まあ、それだけで亡くなったんだから、随分痛かったと思うんですなあ。どっか急所をやられりゃあ、これは、わりあい楽に逝けるだろうけど、こんなとこを掻かれたことにゃ、これ、早く手当てできりゃあ生きとったってことですので、出血多量で、きっと、亡くなったんだと。さぞ痛かったことだろうと。
 だから結局、今は松川町から頼んで来てもらっとるんです。

ーその宮司さんを継ぐ人はいなかったんですか?

 それがいなかった。……息子さんが継いでくれることが一番いいということで、その話をして、幾度か講習会に行っとるんだけど、今は、なかなかくれないんです。相当の金をかけないと。

大鹿歌舞伎は神社との結びつきが大きいわけですよね。

 そう。それで、わしがいま総代を、今年で39年、来年でちょうど40年。そんなにやっとる人は、ひとりもいないんで(笑)。なんでやめれんかっていうのは、歌舞伎が繋がってるもんで。歌舞伎は、大鹿の民俗芸能は、いわゆる、地域の人たちの信仰によって生まれたものであるので。信仰っていって、えらいその、恐ろしい布教をしとるとか、なんとかいうことじゃなくって、地域の拠りどころとして。
 昔は、貧しいもんだから、貧しい生活の中で、お互いに手を取り合って、お互いに協力し合って生きていこうとする、ひとつの拠りどころを鎮守の森へ求めて、それぞれの神を信仰して来た。それで、それに寄り合って、苦しい中にもまた楽しみを得るために、民俗芸能というものを育ててきておるわけで。
 この鍵を捨てたら、もう劇団のようなものになるで、これはもう、絶対に潰れてしまうと考えましたんで、いっくらえらくてもなんでも、神社のこともやってかなければ意義をなさん。歌舞伎っきりやってったってだめだ、というのが、わしの考え方なんで。民俗芸能の基本原則はそこだと思う、と、わしもそう思っとるんですね、間違っとらんと思うんです。

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 § § §

 元来、芸能とか芸術の起源は神事にあるといわれます。大鹿歌舞伎の魅力、古くから地域にある芸能の魅力は、その起源、発生源に近い、ということがいえると思います。日々の生活の中から、祈りとともに生まれた民俗芸能の、根本動機を重視して来た片桐さんは、歌舞伎保存会だけではなく、中学生の指導も、長年積極的に続けて来ています。最近、その大鹿中学校から、片桐さんに感謝状が渡されました。インタビューの2日前、全校生徒、教育委員会、PTA、みなさん総出で中学校の音楽棟へ集まって、贈呈式が行なわれたそうです。
 「えらい大掛かりで新聞に出ました(笑)」と、新聞記事を見せてくれた片桐さん。塩湯荘(鹿塩温泉の旅館)へ呼ばれて一杯いただき、家まで送ってもらって帰って来たそうです。片桐さんはお酒が大好きです。

ー中学校での指導を33年間やってらしたんですね。

 そういうことなんです。昭和50年からであります。

ーそれ以前というのは、学校では、やってなかったんですか?

 中学ではね。学校へそんな歌舞伎を持ち込むなんていうのはね、やってなかった。
 どうしたって子役は必要なんで、いつやるにしても。子役は必要だけれども、その時には、親に、再三あたまを下げて、頼んで出てもらってたわけで。学校の先生がやれなんとは言わない。そんなどこじゃあないんで。民俗芸能なんていうものは、そんなに価値のあるものだとは、先生は思っとらない。お祭り騒ぎの道具だと思っとったもんで。まだ、わしが教育長になる5年前なんだけど、これはなんとしても、学校と一緒にやらにゃあと。
 しばらく後になってから「学社連携」とか、学校だけの教育じゃない、地域の人たちが、もっと学校との緊密な連携を持って、お互いに支えあって、先生だけに任しとくのはだめだって言い出したのは、もっと、しばらく後だったんです。わしの考えは、それだから、絶対に間違っとらなんだと思って、今、自負しとるんです(笑)。
 (昭和)50年というのは、いい成績を修めて高校へ合格しなけりゃあ、校長はここから出ても行かれん、ていう時期で、ときには、ひとりしか合格しなかった年があって、そんな校長は、下の下に見られちまうわけで、県の教育委員会から見ればねえ。
 ……みんな落っこちちゃったことがあったんですよ。みんなが実力以上のところを狙っちゃって。今の村長が教育長のときのことですよ。今の村長が、わしの後に教育長になったんです。もう重大問題(笑)。
 ……協力し合ってやっていくんだって、今は、みんなが認識してくれていると思いますが。

ー片桐さんが、歌舞伎に関わり始めたのは、いくつくらいのときですか?

 17です。

ーじゃあ、いまでいうと、高校生くらいですね?そのころは、だいたいみんな、そのくらいの年齢になると、歌舞伎を始めてたんですか?

 もう、ほとんどそうですなん。小学校を出たら、昔は、中学高校はなかったから、小学校を卒業すると、そういう道に入る。まあ、中には、子役は、もっと小さい子供がやることはありましたけれども。
 ……わしは、体が、今も小さいけども、ほんと小さかったもんだから、学校、義務教育を抜けても、まだだいぶ子役に使われた(笑)。

ーえ、子役やってたんですか?

 いや、それが、学校卒業する前には、やってなかったんです。わしは、お袋が、わしと弟とあって、三人目の子供の出産でやりそこなって、お袋が死んじゃったので。わしが、今の満でいう、四つ、弟が二つのとき。で、おばあさんがぴんぴんしとってくれたもんで、おばあさんに育てられたんです。だから、小さいときに、歌舞伎をやるなんちゅう気持ちは、何もなかった。

ー17のときに、何がきっかけで歌舞伎を始めたんですか?

 まあ、興味を持ったっちゅうのは、小学校5年のときに手を痛めてね。手をおしょったんです。左手のここのところを。
 なぜ、おしょったかっていうとね、今は、そんな大きな「はざ」は作らないけど、昔は、稲はざを、畑が遠いもんだから、ここらの衆はみんな、もう、刈ると同時に、うちへ持って来てしまうんです。それで、うちの住まいにはざを、何段も何段も高いはざを結って、火の見やぐらを広くしたようなのが、そういうのが、どこのうちにもあったんです、このあたりは。
 その一番上のところに登って、わりあいに、そういう高いところが、わしは好きだったもんで(笑)、一番上に腰をかけておったら、一緒に登っとった、この上隣りのうちの大将が、福島っちゅうあにいが横におって、ぽおんと跳んだんです。ぐいっと踏んで跳んだもんだから、その、昔は縄でしばってなくて、藤蔓でしばってあったんですよ。その藤蔓が切れてね、この横木が、ずるっと下がったんです。そのときに、こんな呑気な顔をして座っとったもんで、ごろんと行って、手をついて、下が硬いんで、折れたんですよ。
 それから、まだそんな時分は、飯田へ行く道には何んにも車が通ってないもんで、おやじの背中にしょってってもらって、松川までは電車が来とったと、松川までおぶってってもらって、松川から電車に乗って、飯田まで行って。
 ……で、2週間までおったか、2週間弱、久田(ひさた)っていう接骨医に、今も覚えてますわ、駅のじき下にある、そこへ、おやじとふたりで2週間、旅館に泊まって通っておったんです。
 ところが、さすがに芸能の街といわれる飯田だもんで、毎日どっかで歌舞伎が掛かっていて、本職の歌舞伎が。それだから、毎日、こうやって腕を吊ったっきりで、あんまり痛くもないもんで、毎日行っちゃあ、見る。ただこうやっとるだけで、何んにもできんもんで。おやじも飯田へ行っとったって、何んにもやるわけじゃあねえもんで。
 ……その頃は、酒があんまりない頃で、配給の頃で、おやじが、並んじゃあ酒を買っとるとこを見た覚えがある。

ー昭和?何年くらいの話ですか?

 わしが小学校5年、昭和13年です。そのときも、何か、不況みたいなことがあったと思うんです。

ー第一次世界大戦後の、最初の世界恐慌の頃ですね。

 ……配給っていうか、お酒が少なくて、並んで買っとるんな。
 そんな頃、わしは、歌舞伎なんていったって、まだ小学校5年だな、何の興味も、あんまりないし、他へ行ってみるっちゅう気持ちもなかったし、おやじの後ついちゃあ、歌舞伎を観に行っとるうちに興味を持ち出したことは事実だと思いますが、それだからといって、あと、手が良くなってからすぐ歌舞伎をやり始めたわけではないんですが。

 ここから車で2、3分行ったところに、葦原っていうお宮がありますけれども、うちは、そこが氏子だもんだから、ここが中峰で、そっちの奥に梨原、沢井、入沢井と、いま四つ(の集落)が氏子ですけども。……まだそのころは、こっちの反対の方の、北入の一、二、北川の一、二、という、八つの集落がひとつになっとったんですよ。それが、北入と北川の衆が、どうして分かれたか知らんけど、あるときに向こうへ分社しちゃって、今は四つなんですが。
 その葦原神社に「お祭り青年」があって、学校を卒業してから、今度は、ここにいて百姓やっとれば、もう、否が応でもそれに入らなけりゃあ人間じゃないっちゅうような(笑)、ボイコットされちゃうから、何でもかんでも、その歌舞伎に入って。
 やってるうちに、何か、上手いじゃねえかっちゅうような評判が立ち出したもんで。「おみゃあの、やってみろ、うまいぞ」ちゅうようなことを、そこらから言われるようになって、本気になって、上手いか下手かわからんが、いくらか手を叩かれ出したもんだから、一生懸命勉強しようと思って、始めたんですよ。

ーそれは、役者としてということですね。そのころから、大鹿歌舞伎は太夫の弾語りだったんですか?

 そうでした。いわゆる、お師匠といわれる人が4人おって、その頃は。そのうちふたりは、わしのうちから出た人の子がやっとったんですよ。それでまあ、あんまり気兼ねがなかったっていうことで、教えてくれる方も自由に教えてくれとったんです。

ーその頃は、大鹿では、年中歌舞伎が行なわれてたんですか?

 年中。
 年2回、それぞれの神社で歌舞伎をやってました。なんですが、昭和32年くらいから、どこの神社でも、順に順に、できないようになってきたもんだから、村全体でやらなけりゃあだめだっていうことで、好きな者が集まって、歌舞伎愛好会を作ったんです。そうしておったら、村でも、なんとしてもやらにゃあ、これはどうにもならん、潰れちまうっていう、どっかから「これは大事なもんだ」ということが、いくらか行政の方にも聞こえて来るようになってきて、それじゃあ、村でも考えましょうっていうことになって、昭和33年に、歌舞伎保存会というのができたんです。

 それまでは、各神社ごとに、てんでにやっとったんです。その頃は、上青木っていうとこに諏訪社っていうの(「引ノ田諏訪神社」)があって、大河原の一番奥の釜沢っていうところに「三正坊神社」ちゅうのがあって、それから、信濃宮のある上蔵っちゅうところに「野々宮神社」ちゅうのがあって、それから、いつも(春の定期公演を)やる「大磧神社」、それから、もうちょっと下ってって、今の交流センターの、もうちょっと奥へ入ったとこに「松平神社」ちゅうのがあった。それから、ここの、ダムの埋没地になってしまったけども、桶谷っていうところに「白沢神社」だったかな。川向こうにあった神社。それから、鹿塩の、秋(の定期公演)やる「市場神社」、それからさっき話した、そこの奥にある「葦原神社」と分社してったところの北入の「北入神社」と、九つの神社でした。

 § § §

 江戸時代、歌舞伎が入って来た大鹿では、芝居熱が一気に高まって、村内のあちこちに舞台が建設されました。太夫座や花道、回り舞台や奈落のある、本格的な舞台です。歌舞伎の舞台というと江戸幕府の禁令に抵触するので、神社の付帯設備として、「直会殿(なおらいでん)」として建設されて行ったそうです。江戸時代から明治年間にかけて建設された舞台は、村内全域、十三カ所の神社にありました。その神社が、片桐さんが中心になり始めた昭和中期には九カ所。その後、過疎化とともに、どんどん減って行ってしまうわけです。ここから、片桐さんの、大鹿歌舞伎を守る闘いが始まります。日本古来の文化を不要物あるいは障害物とするグローバリズムとの闘いだったのかもしれません。

 そんな大変な物語を、片桐さんは豊かな語り口で語ってくれます。面白いです。

 後半(下)へ続きます。

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【Ngene掲載:2008年12月30日】

|(上)|(下)
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大鹿歌舞伎・片桐登インタビュー(下)

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 § § §

 アジア太平洋戦争後、少しずつ下火になり始めた大鹿歌舞伎に新しい目標を与え、時代に沿った新しい局面へと発展させてきた片桐さん。片桐さんが全国地芝居連絡協議会の会長を務めることでも伺えるように、いまや、大鹿歌舞伎は全国の地芝居の代表格です。2000年3月には、地芝居として初めて国立劇場で上演されました。

 インタビュー後半は、村じゅうで賑やかに歌舞伎が上演されていた時代から、少し翳り始めた頃のこと。その精神性や流儀を守りながら、普及させるための保存会の設立に尽力した、昭和中期あたりのお話です。

大鹿の村には、一年じゅう歌舞伎があったわけですが、それぞれの神社で一年に2回ずつ定期公演があると、村全体では、一年間に18公演。……考えてみるとすごいことですね。

 なぜできたかっちゅうのは、衣装を持っとったということですね。中峰で、自分たちで、かつらも衣装も持っとったんです。昔、大正天皇の即位記念に大芝居を打って、そのときに、寄付を募って衣装を作ったんです。そのおかげで、その衣装を方々に持ってって、いま話した九つあった神社どこでも持ってって、それで芝居をやっとったんです。
 まあ、そういうふうにやっとるうちに、素人の作ったようなものばっかでもない、他所から買って来たものから、いろいろありましたけど、やっぱりその、いいものには目が利くようになるもんだから、そうすると、今度は、飯田にいろいろありまして。

 鼎の上茶屋っつうとこに、綺羅屋(きらや・歌舞伎の衣装屋さん)がありましてな。上茶屋の綺羅屋は「秋山」っていう、「秋山綺羅屋」っていって、そこと、飯田駅から銀座へ通り抜ける中央通りの、あの下の四つ角のちょっと上がったとこに「河合」っちゅう写真屋さんがありますが、あそこが、元の年寄り衆は衣装屋さんだったんです。
 そこのおじいさんが、どこの出の人だったか、ちょっとわしは知らんけども、その人が、男ながらなかなか裁縫の強い人で、自分でほとんど作ったって言っとったでな。で、その奥様が、松川の方から大鹿の方へずっと来たとこの生まれの人で、どういう関係だか知らんが、一緒になって衣装屋をやっとって、大鹿へもたまに衣装持っちゃあ来てくれたんです。

 昭和22年かな、飯田が丸焼けになった時がありました。あのときに、みんな焼けたけえども、そのうちには地下があって、衣装だけ焼けなかった。カメラは上の方に置いてあったもんで、みんな焼けちゃったんだけど。それで、その火事になってっから、とてもへえ、こら飯田が立て直ったって歌舞伎なんかできんらで、衣装持っとったって商売にならんらで、買ってくれよって来たんな。ところがその、わしが頼んだ村長は、そんなもの村で買ったってどうしょうもねえって。そりゃあ、何百万ちゅうもんだもんで。

ー!何百万、なんですか。

 そうな。……それで、細かい話するとおかしくなるで言わんけども、大鹿で買ってくれっちゅうことで来たんだが、そういうわけで、すぐに買えたわけじゃないもんで、そのあいだに、持って来た人の奥さんが具合悪くなっちゃって、どっかに売っちまうっちゅうことになって、冗談じゃねえじゃねえか、おれら買うって言ってるときに、そっちから持って来といてなんだって、トラブルみたいになりまして。結局、わしが農協から金借りて、保証人を、歌舞伎役者に幾人かなってもらって、買い取ったんな。それが、おかげで、今残っとる。

 わしんとこの衣装の、一番高いのは、かつらが、ひとつ百五十万。それは、作ったのは「東京かつら」かどっかだけれども、取り扱ったのは「松竹衣装」で、京都の「長野かつら屋」っていうとこの人が、そのかつらを見たときに、「これはこういう人の作じゃないかな?」って言う。「やっぱりな!」。そのとおりで、今その人は亡くなって、このかつら作れる人は、もう日本にはおりません、というもので。

 衣装は、今みんな公民館の2階にあるで、行って見てみれば、これがいくらのものかって、ちゃんとわかる。
 恐れ入るのは、わしの方が恐れ入っちゃって、へえ、手が出なんだけど、六千両(「六千両後日之文章・重忠館の段」)の景清だとか、「日本太閤記十段目」の加藤っちゅう荒武者のような役が着る、金モールで刺繍したような「四天(よてん)」という衣装があるが、それは、使うようになってしばらくになるもんでね、まあ、おそらく、昭和のはじめか大正の頃からのもので、それが、襟が切れて、あちこちほつれて来たもんで、これを一枚なんとかしたいと思うけど、いくらかかるんな?っちゅったら、七百万だ。(驚!) ……一枚だに。……いやあああ、それでへえ、もうなん、その話はだめだっちゅって(笑)。

ーひとつがそんな値段ていうことは、大鹿歌舞伎は演目も多いし、衣装もかなりの量がありますよね?

 そりゃもう、素晴らしい。NHKが来て見たときに「うちの衣装屋よりあるな」って。

ーそれ全部公民館なんですか?

 置いとく所がないと困っちゃうで、絶対にきちっとしとかにゃ、盗まれたりするで、鹿塩の公民館の2階を、そういうふうに作ってもらって、衣装はそこにあるんです。
 ……あれ、せっかく作ってもらったのに、惜しいことをした。2階は、今になってみると、年をとったらかなわんのです(笑)。荷物は、手動式のエレベーターがあるんだに、衣装は、持って上がったり下がったり、まあず骨が折れるで(笑)。

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 § § §

 写真家・宮本辰雄さんが編纂した記録によると、この基礎的な衣装を整えたのは、片桐さんの一代先代の師匠である、古屋敷頼隆(ふるやしきよりたか)さんの父・古屋敷浅次郎さん。明治時代後期のことです。中峰綺羅(なかみねきら)と呼ばれ、前述(片桐登インタビュー・上)の、葦原神社の氏子たちが寄付を集め、女衆の手によって製作されたり、購入されたりしたものです。中峰は、大鹿の中でも特に歌舞伎が盛んで、片桐さんしかり、大勢の名優や師匠を輩出していますが、いろいろな面で、大鹿歌舞伎の中心地だったようです。

ーそのあたりから、片桐さんは、大鹿歌舞伎を率先してやっていたんですね。

 ところが、そうしておったら今度は、公民館長が、歌舞伎の嫌いな人になって、なにかっちゅうと「歌舞伎なんかの話はうるせえわ!」って(笑)。

ーはあ、そんなときもあったんですか(笑)

 あああ、それは、難儀な時がありました(笑)。
 そうしとるうちに、今度は、わしが教育長になって。もう誰も、怒る人はおらんわけです(笑)。もう、どんどん、どんどん、村長と話をして、どんどん。
 5千5百万円貰ってな、竹下登っちゅう総理大臣が、一億ばらまいたことがあって。……今度の、麻生さんも、いくらかくれるとか言っとるけど、給付金、一万だか二万だかもらっても、何の足しにもならん。(笑)……写真機も買えやしない。

 1億くれた時の5千5百万を歌舞伎に……。歌舞伎にそれだけ貰うっちゅうことは、これもまた、難しいことだったんですが。村民が、何を、大鹿で大事にしなけりゃならないか、充実してかにゃならないか、というアンケートを取ったら、歌舞伎を充実しろっちゅうのが、六割の余(よ)もあって。

ーああ、それは素晴らしいですね。

 それだもんで、へえ、村長も議会も、何も言わんの。5千5百万、どうしても用があるんで下さい、それ貰っといて、まだ、1千5百万、わしの後継者づくりの基金に積んでもらった。
 その時の、5千5百万貰ったやつと、1千5百万の後継者基金に積んだのと、それから、信濃宮の建設や、いろいろなことがあって、歌舞伎が今日に繋がって来たっていうことなんです。

 信濃宮は、あれは、さっき言ったように、地域の衆が作ったもんじゃないもんで。皇族を祀るために、県が、県社を建てるために作り始めたんだけど、一年くらいのことで戦争に負けちゃったもんで、それで、へえ、その計画が潰れちゃった。それだけど、もったいない、国有林から、もう、材料でも何でも、みんな伐ったったもんで、それで、奉賛会が中心になって、今の建物を建てた。もちろん、村の衆も一緒になってやったけど、もう、村の力じゃあ、とてもできなんだんです。

 公民館で歌舞伎をやってったらどうか、という時があって。各自治会に分館長がおるもんで、その時分には部落っちゅったけど、部落の分館長に頼んで、その組織の中でやりゃあいいじゃねえかと、菅沼という村長の時に、そういう話になって。
 それじゃあ、その話し合いをしますでって、会議を開いたら、えらい剣幕になっちゃって。歌舞伎のような厄介なもの、どれだけ手間がかかるんだか、歌舞伎なんていうのは。昔は昼間、弁当を持ってっちゃあ、練習を三ヶ月ぐらいやったんです。そういうことを知っとる衆がおるわけだもんで、公民館にそんなもの持って来たって誰がやるんだっちゅう。会議を一回やったら、どえれえ荒れて(笑)、村長も、へえ、もうだめだでこれは、公民館もだめだ、とにかく、保存会はおめえに任せるから、なんとしてもやってみろっちゅって。それから保存会を作り上げたんです。そのとき、一番初めは「大鹿村無形民俗文化財保存会」っちゅう名前だった。

ーそれが、昭和33年のことですね?その、国や県の文化財に指定されたのは、いつぐらいなんでしたっけ?

 それは……、それより後だった。県がなん、昭和49年。国は、昭和52年。

ー当時は、そいうことが一切無い中で保存会が発足したんですね。で、それからずっと、片桐さんが中心になって進んで来ているんですね?

 ええ、村では、そうしんとダメだと。「大鹿村の無形文化財という形にして、守ってかにゃあだめだ」ってわしが言い出したもんだから、村が、そういうことでやりましょうっちゅうわけで。

ーそのときは、片桐さんは師匠だったんですか?

 師匠っちゅうよりも、とにかく、なんでもかんでも、わしが内容知っとるもんだから、わしが先に立ってやらなけりゃならんもんで。公民館の館長だっておったし、主事だって、その時分、二人おりました、鹿塩と大河原に。けれど、歌舞伎を先に立ってやるっちゅう力はないんで。これは、特殊な技術がいるもんだから、だから、村長から「片桐がやれ」という、これは特命だったんです。

 § § §

 そのとき、大鹿歌舞伎の師匠は、片桐さんだけになっていました。明治期から、片桐さんに至るまで、記録に残る人物だけで、8人の師匠が、大鹿歌舞伎にはいました。飯田の町に、長期間滞在している座があるときは、通い詰めて、玄人の芸人に指南し、中には、そのまま旅に付いて修行をしてきた人もいるとか。芸を究めた師匠のもと、大勢の名優や義太夫語りの名手が村人の間に存在し、生活し、山の仕事や野の仕事をしながら、長い歴史を積み重ねて来たのです。
 アジア太平洋戦争を境に、日本固有の文化は、前近代的な遅れたものとして刈り取られて来ました。大鹿でも、それを境に、歌舞伎はどんどん下火になっていったのです。伝承芸能の保存というのは、どこでも直面している問題ですが、大鹿歌舞伎が、これだけ魅力的な、芸域の高い芸能として続いて来ているのは、陳列ケースに入れて保存するのではない、大鹿村の歴史を土台に、大鹿村の精神性を宿して、大鹿村の生活に根づいた方法で、保存継承が行なわれ、さらに、その真髄を外すことなく、積極的に外へ向けて発信しているからだと思います。

 その方針を貫いた片桐さんの、面白い話は、まだまだたくさん続きます。それはいずれ、また、どこかで伝えて行きたい大切な物語です。

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【Ngene掲載:2009年1月14日】

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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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