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大鹿歌舞伎・薫風新緑の野外劇

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 青空の下、新緑の天蓋に覆われた神社の境内で、ほのあまい薫風に吹かれながら、大鹿歌舞伎は上演されます。「鑑賞」というような類いの集まりではありません。お弁当を持って、野山を散策するような気分で集まって、みんな、思い思いの場所でのんびりと、思い思いの楽しみ方で、堪能するのです。あ、もちろん、前の方で観たい人は、朝7時半の開場と同時に、座布団を敷いて席取りをします。そんな座布団で広場はすぐいっぱいになってしまうのですが、ともかく、大鹿歌舞伎の定期公演は、のんびりゆったり過ごすものなのです。
 役者が見得を切ったり、物語が盛り上がったりする度に、やんやの歓声や、おひねりが飛び交います。お弁当を広げるも自由、お酒を飲むも自由、真剣に観ている子供たちもいれば、物語に関係なくニコニコ楽しそうなおじさんたちもいるし、けれど、はじまりからおわりまで、公演は粛々と、ゆったりと、何にも乱されることなく進みます。ものすごく楽しい開放的な空気の中で、充実した一日が過ぎて行きます。

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 なぜ大鹿歌舞伎はこんなに楽しいのか、5月3日の春の定期公演の様子を辿ってみます。

 5月3日、曇りときどき晴れ。汗ばむ陽気の中、今年も大勢の人々が集まりました。毎回1500人くらいの観衆が集まる大鹿歌舞伎の定期公演。前の日から泊まりがけで大鹿へ入る人も大勢います。泊まりがけで来る人は、みんな、朝7時半に座布団を持って神社へ集まり、客席にシートが敷きつめられるのを待って、すかさず席取りをします。けれど、別に、浅ましく舞台前に殺到するかんじでもありません。最前列で観ても、最後列で観ても、どこで観ても楽しいので、思い思いの場所に座布団を置きます。
 別に前の方でなくても、平土間でなくてもいい人たちは、当日の朝から三々五々、高遠方面から、松川方面から、自家用車やバスで集まって来ます。大鹿村へ入るルートは主に2本。あまり殺到すると大渋滞が起きそうなのですが、そんな様子はまったくなく、みんなスムーズに村へ入り、大磧神社の坂の下、小渋川沿いの河川敷に用意された駐車スペースに、青いハッピを着た誘導係の人に従って、ゆったりと車を停めます。

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 春の定期公演が行なわれるのは、大河原地区にある大磧神社。
 南アルプスの山岳地帯を南北に走る、中央構造線という地層帯の西端に沿った谷間に、大鹿村はあります。北部が鹿塩地区、南部が大河原地区。大河原地区は、赤石岳の麓に源流を発する小渋川沿いにあって、おそらく崩落を繰返して形成されたであろう、比較的広い南向きの段丘に、集落が発達しています。

 河原に沿った地域から、一段上がった段丘の、南向きの斜面に大磧神社はあります。鳥居を見上げるように急な坂道を登った、丘の上の神社。急峻な斜面に、ぽっかりとできた平地にあって、境内の地形も、とても複雑な形をしているのですが、それが、歌舞伎を観るときに役に立ちます。
 舞台は、境内の西の端に建てられているのですが、その背後と南側が急に落ち込んでいるため、舞台と花道の裏手に、荘厳な谷間の風景が借景となって広がります。そして、平土間となる境内の広場を挟んで、舞台の対面、北東側を半円形に囲む急な斜面は、舞台を手に取るように眺められる上等の桟敷席になるのです。
 小さな神社の境内に溢れるほど人が集まるとなると、ネヤネヤなお祭り状態になるんじゃないかと思われますが、そんな地形的な利点のせいか、ぜんぜんそんなかんじではない、優雅な雰囲気があります。

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 歌舞伎といえば、お弁当です。神社の入口に、大鹿村のお母さん達の集まり「みどり会」の歌舞伎弁当がありました。地の食材だけでできた、お弁当だそうです。おいしそうです。完全予約制なので、事前に申し込まなければなりません。
 大鹿村の家々には、たいてい「ろくべん」という行楽用の弁当箱があるそうです。江戸時代から使われてきた、行楽用の弁当箱で、持ち運び用の取っ手が付いた、六段重ねの弁当箱。歌舞伎を観るとき、みんな「ろくべん」にご馳走を入れて集まったのですね、きっと。最近は、一人前二段重ねにアレンジされた、紙箱の「ろくべん」が販売されるようになったのですが、これも、販売数量が限定されているので、なかなか手に入らないようです。
 境内に入ってすぐの石灯籠に「おひねり用の紙はこちらです」の張り紙。大鹿歌舞伎の主役のひとつ「おひねり」を作るための和紙が、なんとも無造作なかんじで、石積の上においてあります。「中身は自分でご用意ください」。

 大鹿村青年団の人たちが、入口でパンフレットを配布したり、お客さんの案内をしています。この豆冊子というのは、定期公演の度に毎回手作りされて、100円で販売されます。その日上演される外題の解説や、役者の紹介、黒子や裏方さんの紹介、おひねりの作り方や投げ方、掛け声のかけかたなど、大鹿歌舞伎を楽しむためのいろいろなことが、趣向を凝らして、手作りの冊子にまとめられています。とてもいいです。
 青年団の人たちや、その世代の、大鹿へ移住してきた若い人たちと話すと、文化や社会のことに関する、認識水準の高さを感じます。みんな強い自信と愛着を持って、大鹿村を見ています。

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 開場してから4時間、弁当を食べたり酒を飲んだりしながら、賑やかに会場は暖まり、席取り用の座布団が見えていた客席も、ほぼ埋まった開演30分前、祝電披露から、前説が始まりました。いろいろな文化団体、国会議員や市町村長などのお歴々から、たくさん祝電が来ています。前説は、そのまま、今日上演される外題の説明、大鹿歌舞伎愛好会の説明と続いて、村長の挨拶が始まりました。
 これが、なかなか見事なのです。ちゃんと裃を着込んだ、大鹿村村長の中川豊さんが、舞台の中央に独座して、太い眉毛も表情豊かに、ときに会場を笑わせ、沸かせながら、押しの強い発声で、歌舞伎の語り口さながらの口上を披露してくれました。こんな人が村長なのだから、大鹿村は楽しいはずです。

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 そして、この日は、襲名披露がありました。歌舞伎の舞台を司る大役「太夫」の襲名披露です。
 今まで60年あまり、大鹿歌舞伎を牽引してきた片桐登さん、つまり竹本登太夫(たけもととだゆう)の後継者として、この10年、大鹿歌舞伎の発展に尽力してきた北村尚幸(ひさゆき)さんが、竹本登尚太夫(たけもととしょうだゆう)を襲名し、太夫幕が授与されたのです。とても重みのある襲名披露の場に居合わせることができました。こうやって、晴れやかに、誇らしく、後継者を生んで行くのですね。
 同時に、芸を究めた浄瑠璃弾語りの名手として、永きに渡って大鹿歌舞伎の向上に努めた功績を讃え、片桐さん、竹本登太夫にも、新しい太夫幕が寄贈されました。太夫幕は、本番舞台のときに、浄瑠璃を弾語る「太夫座」の表に掲げられます。

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 今日ひとつめの外題は「鎌倉三代記・三浦別れの段」。
 大鹿村青年団の豆本によると、大阪夏の陣、政略結婚をさせられた千姫を巡る、徳川と豊臣の謀略を、鎌倉時代に置き換えて描いた物語です。真田幸村転じて、佐々木高綱が策士として大活躍する物語です。今日襲名披露したばかりの竹本登尚太夫の弾語り。早くも、おひねりが飛び交います。
 大鹿歌舞伎の芸域は、「素人の村芝居」というような域のものではありません。「練習不足が否めない」と、口上では述べられていましたが、それにしても、とても伝わって来る舞台表現が、出来上がっています。素晴らしい。

 後半は「御所桜堀川夜討・弁慶上使の段」。
 こちらは、師匠・竹本登太夫が浄瑠璃を弾語ります。やはり、すごいです。声の飛んで来る速さ、三味線の表情、節回し。歌舞伎の語りについて云々できるほどの素養は、もとよりありませんが、意味はわからずとも、魅力を感じることは、誰でもできるものですね。お師匠さん、普段の話し振りも、面白くて惹きつけられるのですが、舞台での浄瑠璃弾語りは、やはり見事。
 この演目が上演されるのは、だいぶ久しぶりのようです。青年団の人たちも「この段は見たことがない」と言っていましたが、大鹿歌舞伎のレパートリーは、とても豊富で、主な演目だけでも20くらい、全部で40近い演目があるようです。

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 ふたつの外題が、ゆったりした幕間を挟んで、3時間ほどで上演されました。時間は、とても緩やかに流れました。詰めかけた人々はみんな、とても満足げに、楽しそうな表情をしています。
 口うるさい注意事項は、一切ありません。ご飯を食べていてもいいし、お酒を飲んで、陽気になっていてもいいし、おひねりはどれだけ投げてもいいし、いつ投げてもいいし、写真を撮るのも、ビデオを撮るのも、一切の禁止事項はありません。けれど、誰も、芝居の流れや会場の雰囲気を乱しません。1500人あまりの観衆みんなが、緩やかに舞台に集中していて、観ていても、観ていなくても、会場全体が、芝居の流れをわかっているかんじなのです。前の方で、小学生くらいの子供達が、目を輝かせて真剣に見入ってたりもします。とてもいいかんじです。

 最後は「千秋楽・お手打ちの儀」です。
 この日の出演者、裏方さんたちが、全員舞台上に並び、代表として、竹本登太夫がお礼の口上を述べます。今日の公演が成功したことへの感謝を述べ、再会を祈り、出演者も、観衆も、神社にいる全員で、「シャシャンがシャン!おシャシャのシャン!」と手を打って終わります。とても堂々とした終わり方です。

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 大鹿歌舞伎の魅力は、とても良いかたちで外に流れ出しているように思います。300年という長い歴史は、もちろん素晴らしいものですが、それだけではないのだと思います。近代の社会の変質に同調せず、大鹿村の流儀を変えず、けれど、自分たちを守るために閉鎖するのではなく、外から来る人々を寛容に受入れ、国立劇場で上演したこともあれば、オーストラリアやドイツへ遠征もする、積極的に他の地域へ出かけていく姿勢が大鹿歌舞伎にはあります。たぶんそれらのことは、高い認識に裏付けられた、自分たちへの誇りと自信がなければ、できないことだったりします。

 終演後、境内はテキパキと片付けられて、あっというまに元の神社に戻ります。ゴミはひとつも落ちていません。
 雑貨店「さくら組」、神社の坂の下で開いていた露店も、店じまい。さくら組は、地元の女性達による手拭、雑貨屋さん。自分たちでデザインした手拭や、手拭で作った様々な生活雑貨を売っています。とてもセンスのいい、個性的な品が並んでいます。
 大鹿村の山中でコーヒー豆を商っている「カフェマヤ」も、今日はお店を開いてて、一日じゅう、境内にコーヒーの良い香りが漂いました。隣りのたこ焼き屋さんも、五平餅屋さんも、ほかの屋台も、すべて大鹿の人たちがやっています。

 とても面白い一日でした。面白いだけではない、いろいろな人やものごとに出会って、いろいろなことを知った、有意義な祭でした。この雰囲気が好きで毎回来る、という人の気持ちがわかります。ただの一日の娯楽、行楽ではない、大きな自然と人間のアイディアの循環が、その魅力を生んでいるのだと思いました。

 次は秋の定期公演。……また行こ。

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【Ngene掲載:2008年5月7日】

大鹿村関連記事
「早春の大鹿村・大河原地区」
「花盛りの大鹿村 ~美しい景観をつくる基礎的な要因~」

「大鹿村ホームページ」
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花盛りの大鹿村 ~美しい景観をつくる基礎的な要因~

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 春。
 連休直前の大鹿村は、花桃と桜と芝桜が村のあちこちに咲き誇る、桃源郷さながらの美しい里になります。特に、地形をなぞるように配置された花桃の姿は、ただ紅白の花々が咲き乱れているのではなくて、なんだか芸術的だったりします。
 もともと、人智を超えた美しい自然が、この村の魅力なのですが、この山村の美しい風景は、単に自然に出来上がっただけのものではなく、じつは、この数十年の間に凝らされた、大鹿村の人々の工夫の蓄積でもあるのです。

 大鹿村南東部の谷筋、小渋川に沿って赤石岳を臨む大河原地区。地区の入口にあるお宅から、もう目を見張ります。耕され、種まきを待つ畑の向こう、斜面に築かれた敷地を縁取るように配置された、紅白の花桃や桜、緑の芝、種々の花々は、あきらかに、そこに住む人の感性による工夫が加えられた景観です。借景となる背後の斜面でも、あちこちの庭や畑で、それぞれに植栽が工夫されているので、それらが総じて、そこかしこに薄紅色のけむる、美しい風景になっています。

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 大河原地区から山道をひとしきり登った、一段高い段丘の上の集落・上蔵(わぞ)。庭や畑を花々で飾る習慣は、大鹿村全体の中でも、この集落がいちばん浸透しているように感じます。
 2月に、漆原幸さんというおばあちゃんに出会ったところです。漆原さんがどんなおばあちゃんなのかは「早春の大鹿村・大河原地区」にありますが、つまり、崩落の多い山道の崖を覆う無骨な落石防止ネットを、一面、きれいな青いあさがおで覆い尽くしてしまうという、大変なアイディアを実践したおばあちゃんです。

 この上蔵集落は、高台にあるために見晴らしも良く、フォッサマグナの地層が露頭した岩壁や、谷間の向こうに聳える赤石岳の荘厳な姿など、他の場所ではなかなか見ることのできない独特な景観があります。しかも、背後を囲む山並と、その麓に至る斜面の角度や距離の関係が良く、四方八方、いろいろなものが調和のとれた、見事な自然の景観をなしているのです。けれど、それでも、自然の美しさだけでは、ここまで魅力的な風景にはなりません。風景の中に美しさの素因を探ってみると、自然の構図を土台に、ここに住む人々の長い年月をかけた工夫が、この魅力的な景観を形成しているのだ、ということがわかります。

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 村じゅうを花で飾る習慣は、じつは、この上蔵集落に端を発している、ということができます。
 上蔵の平地の集落を抜けて、東側の山の斜面を、森の中へ分け入って登って行くと、つづら折りの山道のいちばん奥に、「延齢草」という宿泊施設があります。古い木造校舎を使った宿泊施設です。この「延齢草」のオーナー・小林俊夫さんが30年前に起こした、あるアクションが起因となって、この習慣が醸成され、村じゅうに浸透していったのです。

 この時期に「延齢草」訪れると、庭先に並んだ、薄桃色と紅色の花桃が出迎えてくれます。訪れる人を、出迎えたり見送ったりする、この宿の気持ちが並んでいるように感じます。ここから奥は、急傾斜の農地と牧草地、そして人の住んでいない山だけ。

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 手作り本格チーズのお店「アルプカーゼ」と、廃校になった旧大河原中学校の校舎を移築再建した宿泊施設「延齢草」。ご主人である小林俊夫さんご夫妻、そして、その娘さんご夫妻が運営しているこの場所は、この数十年、大鹿村の美しさの源泉ともいうべき場所になっています。
 日本の社会が高度経済成長を遂げ、騒乱状態になりながら、均質化を急激に強めて行った1970年代、小林俊夫さんは、既に「地域が個性を持って存立すること」を、この場所で主張し、実践し始めていました。詳しい話は別の機会に記述するつもりですが、最初は変人扱いされた個人の熱意とアイディアが、古来この村にあった智慧と結合して、この美しい村を作り上げているようなのです。30年という、長い年月の間に蓄積されて来た美しさです。

 そして、大鹿村が花々で飾られるようになった経緯も、やはり、最初は理解されない、小林さんの試みから始まっていました。
 小林さんが、大鹿村の官報の編集に携わっていた数十年前のことです。それまで白黒だった官報の表紙を、反対意見を押し切ってカラーに変え、庭のきれいな家を一軒一軒撮影して、シリーズで取り上げて行ったのです。それも、塀で囲われた庭ではなく、集落に開かれた美しい庭ばかりを、特集して行ったのです。地域空間を構築するための基礎的な審美基準を習得する、とても優れた方法だと思います。短時間に結果の出る、わかりやすい方法しか選択できない日本の社会には、決定的に欠落している、人間の感性を自然に、豊かにする方法です。
 「そんなことをして何になる」と言われながら、小林さんの独断によって、その特集は続けられたわけですが、その表紙の美しさに憧れた大鹿村の人々は、家の外に向かって、集落に開かれた、きれいな庭を、こぞって造り始めたのです。官報の、その表紙特集シリーズが終わっても、その気運は続き、やがて、家の庭だけではなく、村落のあちこちに、あたりまえのように、美しい花を育てていったわけです。「何になる」どころか、数十年後に、こんな美しい村の風景を形成する、この村の人々の基礎的な美意識になりました。

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 これがアート、生活を豊かにする技術です。職人たち個々のセンスで、てんでバラバラに壁を塗ったイタリアの家々が、総体的に美しい街並を形成するように、この村では、付焼き刃の条例で規制したり、スローガンで煽ったりすることなく、また、村の歴史や文化を充分理解していない外部の有識者を頼むことなく、村の人たち個々のセンスで、この景観を作り上げているわけです。村の人たちみんなが、アルティザンなのです。

 この方法は、わかりやすいマニュアルやスローガンがないぶん、人々の想像力を豊かに進歩させます。想像力は創造力を生みます。別に語呂合わせではなくて、そうなのです。そして、規制やスローガンで固まった社会が低劣化するのに比して、この方法でできた社会は、認識水準が高まるのです。
 余計な話ですが、東京の街なども、文化やアートの機能を本当に知っている人が、リーダーとして関連する各分野にいたら、今のような、醜い街にはならなかったかもしれません。

 ここにあるアイディアは、これから、日本の社会をもっと魅力的にするために、とても重要なものだと思います。ご主人の小林俊夫さん、かなりお忙しい様子で、この日も全国を飛び回っているために不在でしたが、いつか、お話を聞いて記事にしたいと思います。

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 さて、5月3日は、いよいよ大鹿歌舞伎、春の定期公演です。この、大河原地区の鎮守・大磧神社で行なわれます。毎回1500人以上の観衆が集まるという、大鹿歌舞伎の定期公演。歴史のある一級品の伝承芸能の楽しさを、来週ここでレポートします。

 やんちゃなおじいちゃん、片桐登さんの語る浄瑠璃、楽しみです。

平成20年大鹿歌舞伎春の定期公演
日時:2008年5月3日(土・祝)正午より
場所:大鹿村大字大河原 大磧神社舞台(雨天の場合は大鹿小学校体育館)

上演外題:鎌倉三代記 三浦別れの段
     御所桜堀川夜討 弁慶上司使の段

問合せ先:0265-39-2100/㈶大鹿歌舞伎保存会
臨時バス:JR伊那大島駅 9:10発(片道¥1,000)

「大鹿村観光情報」

【Ngene掲載:2008年5月2日】

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早春の大鹿村・大河原地区

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 長野県南東部の山岳地帯に、大鹿村はあります。西の麓では、長野県伊那市、飯田市などに隣接し、東の境界に連なるアルプスの向こう側は、静岡県の北端、人の住んでいない、大井川の源流地帯です。周囲を、深く切り立った山ひだに囲まれ、その稜線の先には、間近に南アルプスの頂を望む、とても風景の美しい村です。

 伊那山脈と赤石山脈、南アルプスの深い谷間を、フォッサマグナ(中央構造線)に沿って、国道152号線が南北に走っています。長野県のまんなかにある諏訪湖のほとりから南下し、伊那市高遠から大鹿村を通って、飯田市上村に抜けるこの道は、すべて山の中。途上にある分杭峠と地蔵峠が冬期通行止めになるため、12月から3月いっぱいまでのあいだは、西の麓から入る2本の道路しか、村へ入るルートがありません。しかも、その2本のうち1本は、落石や雪崩の危険性が高く、ごく稀に通行可能になる以外は、ほとんどが全面通行止め。

 深い山懐に抱かれた、風景の美しい秘境・大鹿村ですが、美しいだけの村ではありません。
 ここは、大鹿歌舞伎という、高度な伝承芸能を継承している村であり、近年、独自のライフスタイルを持つ人達が、全国各地、世界各地から移り住んで来たり、集落の婦人たちによる、村の生活を楽しくする活動が盛んだったり、なんだか元気のある村なのです。
 一方で、頻繁に崩落する地盤を有し、全域に落石注意の標識が立つくらい道路が寸断されやすく、日常的に工事が行われていたり、建設材料としての採石が大規模に行なわれているため、大型のダンプカーが細い村道をひっきりなしに往来している、美しいだけではすまされない地域だったりもします。

 大鹿村は、ふたつの地域に分かれます。村の中心部から、鹿塩川に沿って北へ伸びる鹿塩地区と、南東へ、赤石岳を源流とする小渋川に沿って広がる大河原地区。いずれも、両側から屏風のように山が迫る険しい谷間で、少し陽が傾くと、谷底はすぐに暗く陰ります。そんな時間に、谷底の道から周りの山々を見上げると、暗く陰った家並みの向こうに、明るく、美しい陽射しを浴びた段丘の斜面が見えます。この谷間の風景の特徴です。午後の時間の経過に従って、日影の等高線が次第に山肌を登って行くのですが、その、寒暖のくっきりと分かれた色彩の美しさは、なんともいえません。

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 2月下旬、大鹿歌舞伎保存会の会長であり、浄瑠璃語りの第一人者でもある、片桐登さんに会うため、この大鹿村に行きました。

 ぽっかりと暖かい、穏やかな日でした。

 大鹿歌舞伎保存会の会長・片桐登さんは、とてもやんちゃなかんじのおじいちゃんでした。浄瑠璃の弾語りをするときの名前を、竹本登太夫(たけもととだゆう)といいます。片桐さんの子供の頃からの、大鹿歌舞伎と大鹿村をめぐる物語は、とても面白く、南信州の近代史を織り込んだ、一代記のような感があります。片桐さんの物語と大鹿歌舞伎については、別の機会に記述する予定ですが、大鹿村の誇りは、やっぱり、歌舞伎にあるのだと思います。

 かつては、村内13カ所の神社やお堂の境内に、回り舞台や奈落、太夫座を備えた、本格的な、芝居専用の舞台があったそうです。現存する舞台は7カ所に減っているようですが、それにしても、山間の狭い谷間にわずかな戸数で暮らす集落に、これだけの本格的な舞台が造られたのは驚くべきことです。
 片桐さんが子供の頃、昭和初期の以前から、ここ、大鹿では、祭芝居に参加することが、村の若者の誇り、芝居に出なくば男ではない(今では女性も演じますが)という土地柄だったのだそうです。小さな集落ごとに行なわれる氏神の祭に、毎年、村人たちによる歌舞伎は上演されてきました。しかも、やれば良いというレベルのものではない、芸としてしっかりと磨かれた、水準の高い芝居であり、演目も20近くを数えます。誇りを持った芸能でなければ、その水準は保てません。この隔絶された辺境で、厳しい生活環境の中で、大鹿村の歌舞伎は、人々がそこに住む根拠、心の拠りどころであり、祈りにも似た、強いエネルギーを持つものだったのだと思います。

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 毎年春、5月3日の大河原地区、大磧神社、秋、10月第3日曜日の鹿塩地区、市場神社で行なわれる大鹿歌舞伎の定期公演には、毎回1,500人あまりの観衆が集まります。地元の人達、帰ってくる人達、全国から集まる地芝居の愛好家、大勢が集まるということです。
 この定期公演の他、1975年から続けられている、大鹿中学校歌舞伎クラブでの指導、全国に招聘されての公演や、数度に渡るヨーロッパ公演、2000年の3月には、地芝居として初めて国立劇場で上演され、大成功をおさめるなど、長い間続けられている積極的なアウトリーチ活動によって、現在全国に150近くある地芝居の団体の中でも、大鹿歌舞伎はリーダー的な存在で、全国に知られています。

 大河原地区、小渋川沿いの集落から、曲がりくねった山道をひとしきり登ると、一段高い段丘の上に、上蔵(わぞ)と呼ばれる集落があります。
 集落の入口には、国の重要文化財、建立を平安末期とも鎌倉期とも伝えられる、福徳寺本堂があります。長野県最古の木造建築物ともいわれ、明治時代から特別保護建造物に指定されている、見るからに歴史的な重みを感じる建物なのですが、集落へ入る急坂の上に、さりげなく建っています。坂道で疲れたら、本堂の軒下の縁側に腰掛けてひと休みもできます。縁側に腰掛けると、四方八方、どちらを向いても見事な自然の構図が眺められる、絶景ポイント。

 この上蔵集落は、福徳寺以外にも、14世紀、南北朝時代にこの地に入った、後醍醐天皇第八皇子・宗良親王(むねながしんのう)の流れをくむ史跡が点在します。中央構造線の隆起を思わせる、断層の露頭を背景に、緩やかな斜面にできた風景の美しい集落です。福徳寺の裏手の丘の上、南アルプスを眺めるように墓標がならんでいるのが印象的でした。

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 大鹿村には、いろいろと、こだわったものづくりをする人が集まっています。

 数頭の牛と山羊を飼って、手作りの本格的なゴーダチーズを作っている「アルプカーゼ」が有名です。手作りでできる分しか、作らないのだそうです。このアルプカーゼのご主人・小林さんという方は、村が取り壊しを決めた旧大河原中学校の校舎を、有志を募って保存、移築し、「延齢草」という宿泊施設として運営しています。昭和中期、戦争直後に、村民総出で建築した大切な村の文化資産は、当時の外観そのままに、階段やテーブルなどの備品も当時のものを使いながら、現在でもいきいきと利用されています。

 また、南米グァテマラ、標高1800メートルの高地で先住民族マヤの人々が栽培する、産地直送コーヒー豆を日本に輸入販売している方が、ここ、大鹿村に住んでいます。農薬や化学肥料を使わず、手作業で収穫されるオーガニックなコーヒー豆です。田村寿満子さん、田村アキさん、ご夫婦が運営する「カフェ・マヤ」です。南山(みなやま)という地区の上の方に住んでいらっしゃるということで、「4輪駆動でなければ無理だよ」と片桐さんに言われ、今回は、訪ねることを断念しました。ご主人のアキさんは、有機栽培で良質な野菜を作り、自給自足を実現していらっしゃる方とのこと。いつか、お話を伺ってみたいものです。

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 上蔵集落の中ほどで、農作業の帰りらしいおばあちゃんに声を掛けられました。外から来た人を見かけると、必ず声を掛けるようにしているそうです。 
 漆原幸さんです。
 漆原さんは、大鹿村へ入る幹線道路の落石防止ネット一面に、真っ青な朝顔を咲かせたり、集落のおばあちゃんたちを組織して、農産物を手作りで出荷直売したり、いろいろ、この集落の元気の源のような活動をしている、笑顔の美しいおばあちゃんです。漆原さんのご自宅前の道ばたで、しばし、この村の様子について話を伺いました。

 高齢化がかなり進んだこの村では、今年のように雪の多い冬は、雪掻きが一苦労です。片桐さんもおっしゃってましたが、雪掻きは、農作業よりも足腰に負担がかかるのです。この集落の家屋も、かなり空き家が多くなっていて、降った雪の処理は本当に困ったようです。

 典型的な過疎の村ではあるのですが、最近では、その風景の美しさや、大鹿歌舞伎に象徴される文化的な魅力も手伝って、都会から移住してくる人、UターンやIターンで入って来る人が増えているようです。

 市場原理は、こういう、経済的に末梢にあるエリアに厳しく働きます。需要がなければ供給されないという原理は、特に景気が低迷すると、ひときわ辛い状況をもたらします。消費経済の視点では、この村に未来はないでしょう。
 けれど、前述の片桐さん、アルプカーゼの小林さんや、この漆原さんのように、この地域に蓄積された美しい文化を積極的に育てることで、この地域に魅力や誇りが生まれ、外から人々が移り住んで来るようなことに結びつくことがあります。

 ここの住民のみなさんの認識についての記述が、地方事務所が行なった懇談の議事録にありました。
 以下、概略。

 「過疎化の問題や、一極集中の問題は、歴史が解決してくれると思っている。ここは昔、炭焼きで儲けて賑わい、エネルギー革命で石油に取って代わられて、寂れました。でも、都会も疲弊して、逃げ出したいと考える人も増えています。石油資源も底をつきかけて、次のエネルギー革命がすぐそこまで来ています。この森林や自然の美しさに価値が出る時代が、また来るかもしれません」

 アイディアの元気な村は、風景が美しいだけでは終わりません。

【Ngene掲載:2008年2月28日】

大鹿村ホームページ

遠山郷・旧木沢小学校 ~上~

 霜月祭の里・遠山郷は、長野県の最南端、南アルプス山中、伊那山脈と赤石山脈に挟まれて南北に走る、深い渓谷にあります。幾重にも、複雑に折りかさなる山脈の、崩壊土壌によって形成された急傾斜の農耕地、谷底を流れる遠山川の流域に点在する集落、険しい山肌が間近に迫り、峰から峰への合間に、三千メートル級の連山の稜線が威容を覗かせる。独特の景観が、何とも形容しがたい神秘的な感覚を生む場所です。

 遠山郷は、概ね3つの地域に分かれていて、北から入ると上村、南から入ると和田、木沢はちょうど真ん中にある集落群です。遠山川に沿って走る国道152号線から、少し西にはずれる旧道へ入ると、小高い丘の上に、地域の公共的な役割を果たす、いくつかの施設が集まっていて、その核のような位置に、旧道を挟んで、木沢正八幡神社と旧木沢小学校の木造校舎が建っています。

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 木沢小学校の、この校舎は、昭和7年の春に建築されました。ここがまだ木沢村だった時代です。

 木沢村で学校教育が始まったのは明治5年。村の中心地である霜月祭の舞台、つまり、木沢正八幡神社の社殿を利用して、修身学校が発足したときの児童数は14名。明治時代の終わりに、神社の向かい、現在のこの場所に校舎を新築したときは、69名に増えていました。

 そして、昭和7年に現在の校舎を新築。すべて遠山の木を使って建てられたそうです。
 昭和7年というのは、世界恐慌のさなか、世界各地で紛争が勃発していた、いわば、第二次世界大戦前夜。日本では、対話による外交を貫こうとしていた犬養毅が暗殺されたのが、昭和7年です。社会が、堰を切って戦争へと傾いていった時代でした。
 そんな、世界の急激な変動を背景に、遠山谷は劇的に活況を呈します。南アルプスの国有林で、軍事目的の森林開発が始まったのです。軍用材の搬出のために遠山森林鉄道が敷設され、林業に携わる人々が大挙して流入しました。村の人口は倍増し、児童数も増加。昭和20年のピーク時には、300名を超える子供たちが、この校舎に通っていました。
 そして、敗戦後もしばらく、林業の好況は続きます。遠山村と木沢村が合併して南信濃村になった、昭和35年頃も、児童数は250名を超えていということなので、増加期から減少期までの前後の時代も含めると、およそ半世紀あまり、子供たちの声が賑やかに、この校舎に響き渡っていたのですね。

 ところが、その後、状況は一変します。
 既存の伐採地に木材がなくなり、さらに急峻な奥地を切り拓いて行くために事業経費が膨らみ、さらに、集中豪雨などによる軌道の被害が重なって採算が悪化したため、昭和43年、遠山森林鉄道は廃止。

 林業の衰退と重なるように迎えた高度経済成長期、若年層の村外流出が始まり、遠山郷は急激に過疎化が進みます。児童数も減少の一途をたどり、平成3年、閉校となった最後の春の児童数は26名でした。卒業生が8名と、在校生が18名。

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 平成12年に完全に廃校となった後、木沢の精神的な支柱であったこの木造校舎を残すために、様々な取組みがなされて来ました。行政や教育委員会との軋轢も少なからずある中で、木沢の人々は、できるだけそのままの姿で校舎を残す方法を模索したのです。
 廃校となった木造校舎というと、多くの場合が立入禁止になって管理され、あるいは放置され、地域のフィルムコミッションなどによって、映画や写真の撮影の時だけ貸し出される仕組みになっていたり、そうでなければ、少し人の集まりやすい場所に移築され、商業施設として再利用されたりすることが多いと思います。ですが、この旧木沢小学校は、そのどれとも違う形をとっています。
 学校として使われていた頃の姿をできるだけ残し、当時そこにあった教材や机、黒板、教室のいろいろな道具を、今もそのまま、そこに置いているのです。

 南信濃村が飯田市に合併された後、現在、この校舎の所有は飯田市観光課になっていますが、維持管理は、木沢地区活性化推進協議会が中心となって、木沢の人々によって行なわれています。
 正面玄関を入った突き当たりの廊下に、大きなガラス瓶が置かれていて、ここを訪れた有志が、その中に協力費を入れるようになっています。校舎を存続させるための維持費は、このガラス瓶に集まった、有志の人々の協力費によって賄われています。
 当時の形をできるだけ残しながら、霜月祭の道具や写真を展示した教室を作ったり、木沢の家々から歴史的な遺物を持寄って、少しずつ展示を充実させたり、廊下や階段には、古い木沢を撮影した写真展が常設されています。

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 最後の一年生の教室には、当時使われていたピアノが、そのままの姿で残されていました。とても珍しい形をしたアップライト・ピアノです。ほとんど調律されていない様子なのですが、大きな胴の鳴りが特徴的な、何とも魅力的な音をしたピアノです。このピアノを、この長い時間と空気に鍛錬された性質そのままに、ほんの僅かだけ音を整えて、ちゃんと魂のこもった演奏をする演奏者によるコンサートを開いてみたいものです。さぞかし奥深い、いろいろな想像が掻立てられる演奏会になるに違いありません。

 正面玄関を入った取っ付きの階段を上がると、踊り場上の、天井裏のような部屋の壁に、運動会の大玉送りで使う紅白の大玉が仕舞われています。まるで、最後の運動会が終わった後ここに片付けられて、そのまま今日まで置かれているみたいです。竹で編んで布張りされた大玉の、手に触れた一瞬たわんで、適度な重みと竹の軋む音を残しながら後ろの方へ転がって行くかんじが、秋の運動会の冴えた空気のかんじが、瞬間的に記憶の中に甦って来ます。
 薄暗くなった2階の廊下で、自分の小学校の頃の記憶が、忘れたまま一度も思い出したことのない記憶が、急に蘇った驚きで、暫く立ち尽くしました。それは、ちょっとほろっと来る、ちょっと嬉しい体験でした。

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 校舎の脇、渡り廊下の先に、木沢の人々が「宿直室」と呼んでいる棟があります。そこは、どうやら地域の人々がふらっと立ち寄る場所になっているようです。ある日の午後、その宿直室で、木沢を牽引して来た2人の方に話を聞きました。
 この厳しい生活環境と歴史を持つ木沢を、永きに渡って牽引して来た、とてもインディペンデントなふたりのじっちゃんです。とても面白い話でした。

 つづきは「遠山郷・旧木沢小学校 ~下~」で。

【Ngene掲載:2008年3月16日】

|~上~|~下~

遠山郷・旧木沢小学校 ~下~

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 南信州、遠山郷の山あいに建つ木造校舎・旧木沢小学校は、昭和7年、1932年の春建築。五・一五事件が起きた年です。軍事クーデターが起きて総理大臣が暗殺され、軍国主義の時代へ入って行く年に、この校舎はここに建てられ、それ以降続いている日本の迷走を、この谷間から見続けてきたわけです。
 その間、ここ遠山郷では、軍用材確保のための森林開発による好景気、人口急増と、乱開発を要因とする衰退、高度経済成長期の若年層の流出、急激な過疎化を経験しました。76年という齢の中で、コミュニティーの膨張と収縮を見て来た近代史の精髄が、この校舎には含有されているように感じます。

 校舎から広い校庭を見た右脇に、木沢の人たちが「宿直室」と呼んでいる棟があります。雑然とした、共同炊事場のような雰囲気なのですが、なんだかほっとする、居心地の良い場所です。
 ある晩、ここで、木沢地区活性化推進協議会・会長の松下規代志さん、霜月祭保存会・会長の鎌倉博登司さん、おふたりとお話しすることができました。話の中から感じた遠山郷、木沢のことなどを少し記述しておこうと思います。

 過疎化が進んでいる木沢では、日常的に、いろいろな困ったことがあります。
 まずは、やっぱり、霜月祭という側面から、そのことは語られます。高齢化と若年層流出による氏子減少、霜月祭の担い手不足。祭の準備から本祭まで、およそ年代別に、それぞれの役割を担うわけですが、村に住む若者が減ってしまい、人手が足りなくなっているのです。
 お年寄りたちは、外出することも少なくなっているようです。足腰が痛く、車にも乗れないので、自然と家の中にこもりがちになり、ご近所同士のお喋りも少なくなってしまいました。
 昨年末、木沢正八幡神社の霜月祭に来たときに、神社の下にある鎌倉商店のおじいちゃんに聞いた、農地の荒廃も深刻です。鎌倉商店のおじいちゃんは、農地荒廃の解決が、いちばん急務だとおっしゃっていました。
 これは、単純に休耕地が増えて行くというだけでなく、シカやサルやイノシシが畑を荒らす被害も、年々増加しているようです。けものが増えたのは、畑や草刈場の縮小、エサになる雑木の減少、温暖化による発情期の長期化、高齢化や山肉相場の下落による狩猟の減少など、いろいろな理由が考えられています。

 けれど、けして、木沢の人達は、希望を失ってしょんぼりしているわけではありません。木沢地区活性化推進協議会は、「話さまい会」というワークショップを通して「木沢の宝・大発見マップ」を作ったり、お年寄りが外出する機会や、コミュニケーションをはかったり、その中から、解決すべき問題を洗い出したり、また、南信州の他の地域と恊働するための「愉快な仲間たち」ネットワークに参加したり、独自のアイディアで、ぐいぐいと問題の解決に挑んでいます。

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 「限界集落」という言葉があります。65歳以上の人が人口の50%以上を占める集落を、「高齢化が進んで共同体の維持が限界に達している集落」と定義付けています。統計的には、何らかの根拠でそういう定義が生ずるのかもしれませんが、その概念の中には、人のエネルギーや集落の持つ個性、文化や精神性、人々の誇りなど、数値に変換できない要素は含まれていません。
 統計的な思考、数量でものごとを解釈する、定量的な方法ばかりが、日本では着目される傾向があります。数字で表せば、確かにわかりやすいわけですが、昨今の日本の社会は、とにかく、わかりやすいものしか受取ろうとしない風潮があります。けれど、そのわかりやすさは、問題を正確に把握し、解決する方法を覆い隠してしまう場合があります。
 ここで必要なのは、人口や所得水準ではなく、そこにどういう人がいて、どういうアイディアが生きているのか、ということになってくるのです。人のアイディアが持っているエネルギーのことを視野に入れないと、人が集まってかたちづくっている社会は、前へ進めないのです。

 「自分たちのことは自分たちでするんです」

 いろいろな話をする中で、松下さんや鎌倉さんは、何度かそうおっしゃっていました。それは、ごく普通の言葉なのですが、与えられる利便性に馴れきってしまった現代の人々に、どれだけそれができるでしょうか。
 木沢のような山間の集落では、生活のすべてに渡って利便性が低く、互いに助け合うことで、いろいろな問題を解決して来たということを、ここの人々は、ごく当たりまえのこととして認識しています。便利なものがたくさん用意されている、他の地域と比べて嘆くようなことは、まったく考えていません。

 南信濃村が飯田市に合併したことについて訊ねると、情報発信に広がりができること、負担の分散が可能になることなど、長期的に見て有益な要素が大きい、という答えでした。行政の中心が離れた分、当然、末梢感は強くなっているけれど、もともと自分たちは、自分たちで助け合いながらやって来たから、平気なんだ、ということなのです。たぶん、この地域の根底には、極太の精神が一本、通っているんですね。

 木沢小学校が廃校になったとき、この校舎をどうするべきか、いろいろな議論が交わされました。その中から木沢の人々が選択したのは、そのままの姿を維持しながら、後の世代に、活きた意義や価値を残して行くことでした。なので、この校舎の中では、意図的に、廃校になったときそのままの状態を保存しています。
 けれど、それは単なるノスタルジーを求めて、死んだ標本として固定保存しているのとは違います。木沢の家々から徐々に集まって来る、木沢の生活文化の結晶ともいうべき物品が、時代に沿って、次第に展示を充実させていくのです。風化するものは、風化することを前提に、放置されるのではなく、掃除され磨かれながら時を経て、時間が経つほど豊かに、この谷間に宿る文化や精神を、活きたままここに存続させて行くのです。
 わかりにくいけれど、それは、とても大事なことで、そこに積み重ねられた文化や精神を、その場に、ほど良い姿で残して行くという方法は、いろいろな状況の中で、社会が誇りを持って活きて行くための、指針になるはずなのです。普遍的永続的な生命力を持ったアートのように、そこから、受取り手が、自分の解釈と想像力を駆使して、適時的なアイディアを創造するための、礎になるものなのです。

 廃校当時から校舎の保存の問題に取組んで来た、松下さんや鎌倉さんの言葉からは、そういった長期的、文化的な視野を含んだ、重層的な思考が伝わって来ます。松下さんも鎌倉さんも、別に、学術的な分野でそういうことを考えている方ではありません。生活の中から導き出されて来た考え方なのです。
 その考え方の理由を訊ねると、「そうすることがあたりまえなんだ」という答が返って来ます。
 きっと、そういうことなのです。

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 廊下や階段には、遠山出身の写真家・秦俊夫さんの作品が、常設展示されています。この谷間の人々の生活を、克明に愛情を持って記録した、秀逸なドキュメンタリー作品が並んでいます。
 校舎の中では、いろいろなテーマの写真展や、霜月祭に関する展示が常設されています。ここで長い年月を経て、これからも長い年月を過ごして行く生活の品々を、祭の道具を、教材やピアノやオルガンを、少しずつ手入れしながら、現存させて行くのです。そういった眼に見えないアイディアの蓄積が、ここを訪れる人々に大きな活力をもたらしてくれているのを感じます。

 ストーブで暖まった宿直室の、大きなテーブルで話をしていると、木沢の人達が三々五々集まって来ます。

 夕方、製材所での仕事を終えた帰りだという、高橋輝成さんが宿直室にやって来ました。高橋さんは、数年前から、木沢の人々と一緒に地域の問題に取組んでいる、経済アナリスト・藤原直哉さんが主宰する「遠山藤原学校」の事務局長として木沢に移り住み、住民として、地域のいろいろな仕事や祭に参画している、まだ20代前半の方です。
 数年前、大学時代に初めて木沢を訪れ、この旧木沢小学校の校舎の中で、直観的に「自分はここに住もう」と考えたそうです。どんな理由でそう思ったのかを訊き出そうとしたのですが、ご本人も、はっきりとはわからないそうです。遠山郷の大きな自然に触れ、厳しい谷間に人が住む有り様に驚きを感じ、この校舎の中へ足を踏み入れたときに、「そう決めた」ということなのですが。

 おそらく、こういうことが、アイディアのエネルギーの成せる技なのだと思います。わかりやすい数値やスローガンとは別の次元にある、目に見えない人間のアイディアのエネルギー。それは、この「旧木沢小学校の古い木造校舎」という、建築物の深層から発生する、そこに注ぎ込まれた遠山郷・木沢を取巻く、すべての人々のアイディアのエネルギーから、生まれて来るものなのだと思います。それが「文化」というものなのかもしれません。

 このことを、僕達が社会水準で理解するには、まだまだたくさん時間がかかると思いますが、こういう場所に来て、こういう場所で人と出逢って、いろいろな話を交わして行くことで、その本質に接近することができるかもしれません。
 松下さんと鎌倉さんと「もっとゆっくりできる日に、酒でも飲みながら、のんびり話をしましょう」という約束をして、日暮れ近く、旧木沢小学校を後にしたのでした。

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【Ngene掲載:2008年3月28日】

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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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