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中国高校生訪日団・善光寺参拝

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 6月26日、中国の高校生達が善光寺を参拝しました。中国高校生訪日団です。
 これは、両国の政府が日中友好協会(中国側は中日友好協会)に委託する形で数年前から行なわれている高校生交流事業。今年度は中国から4回に分けて850人の高校生が日本を訪れます。反対に、日本からは春と秋の2回に分けて200人の高校生が中国を訪れることになっているようです。

 6月24日に成田空港に降りた一行は、いろいろな行事をこなしながら東京に2泊。3日目に長野を訪れたわけです。
 朝、新幹線で長野に到着。歓迎式やオリエンテーションを経て、午後は企業参観と善光寺参拝。長野市の信濃毎日新聞社とみすずコーポレーションを2グループに分かれて見学した後、大門周辺に再集結しました。

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 今回訪日した高校生は、河北省、河南省、そして山西省の高校から選抜された成績優秀な生徒さんたちということです。中国の高校は6年制なので、年齢的には日本の中学生と高校生にあたります。
 パティオ大門の前や表参道の中ほど、計4台のバスから降りてきた一行はみんな明るくて、よくニコニコ笑います。てんでにデジカメやビデオカメラを持って、周囲の珍しいものを撮ったり記念撮影したりしています。
 善光寺へ向かうまでの間そこかしこで思い思いにすごしている彼らの様子は、なんだか純朴で大陸的、のびやかな微笑ましいものでした。

 彼らの住んでいる地域は中国の比較的中心地域にあたります。河北省は北京市と天津市をぐるりと取り囲み、その西側に山西省、南側に河南省があります。ひょっとしたら、日本でいうと関東地方から北関東、東海、甲信地方あたりのかんじだったりするのでしょうか。もっとも、国土が広大すぎて比較のしようもないと思いますが。

 善光寺御開帳のときに使う徳行坊の黄色いたすきをかけて善光寺本堂へ向かって出発します。途中、仁王門や山門では、今回の受入れを依頼された「平和を願う僧侶の会」代表の徳行坊住職・若麻績隆史さんに説明を受けながら、てんでに楽しそうにガヤガヤと進みます。

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 この時期に中国高校生訪日団が善光寺を訪れることになったのは、日中友好協会の働きかけがあったからだそうです。北京オリンピックの聖火リレーを辞退した善光寺に、オリンピックを悲願として聖火リレーに強い想念を抱いていた中国の若者達を呼んだのです。

 それは当然「騒ぎが起きると迷惑だから」辞退した善光寺なのではなく、「国家や民族を越えてひとりひとりが慈しみ合い理解し合う幸福と平和への理念」に従って動き、漢族もチベット族も等しく犠牲者を法要した善光寺だからです。そして、その理念が今どれだけ重要なものであるかということなのだと思います。
 しかるに、その受け入れを「平和を願う僧侶の会」に委託してきたのです。

 案内役を買って出た若麻績さんたちはこの日東京に行く予定が組まれていたのですが、その重要性を理解し、何が本当に大切なのかをわかっていない僧侶に善光寺の説明をしてほしくない、という気持ちから、2日前に舞い込んだ依頼にも関わらず引き受けたのでした。

 チベット対中国という単純な対立軸、事件性にしか反応しないメディアはほとんど関心を示さなかったようですが、今回のこのプログラムは、僕たちの未来が平和で幸福である可能性について少し明るい展望を提供してくれているように思います。

 チベットに対して直接弾圧を行なっているのは中国共産党政府です。それは批判されるべき野蛮で非人間的な愚挙ですが、それを止めさせる方法は中国共産党を批判することだけではないかもしれません。今回のように、イデオロギーを越えたところにあるプランに理解を示し承認するのです。僕たちは、ここにある本当の意味を考えるべきなのかもしれません。

 この数年、中国と日本の間で相互にネガティブ・キャンペーンが行なわれています。両国で同時に、互いの国に対する嫌悪感や恐怖心を植えつける強烈なキャンペーンが行なわれていることの不自然さについて、僕たちはそろそろ疑念を向けるときなのかもしれません。

 悪いのは本当に国家でしょうか。この子たちの住む国を忌み嫌って良いのでしょうか。

 本堂で法話を聴き戒壇巡りをして出て来た高校生達は、もう随分と善光寺に打ち解けた様子です。本堂前の広い庭でのびのびとざわめいて出発時間を待っています。
 ひとりの先生が記念写真を撮ろう!と言い出しました。全員本堂を背に集合です。今回の一行は150人くらいでしょうか、みんな素直にすんなりと集まります。みんな並んだところで、中央に徳行坊住職・若麻績隆史さんと白蓮坊住職・若麻績敏隆さん、「平和を願う僧侶の会」のふたりを招き入れて和やかに写真撮影。

 中国の高校生のみんなは、松代で一泊したあと、長野、諏訪、飯田、松本の4地区に分かれます。各地でそれぞれの行事を行ない、ホームステイしたり、その地域の高校と学校交流をしたり、そば打ちや観光地の訪問をして、週末に富士五湖巡りをしながら東京に戻ることになっています。

 ねがわくば、こうして訪れる高校生のみんなが、見当違いなくだらない反中感情によって嫌な目に遭ってませんように。ねがわくば、日本に住んでいる人々も自分たちと同じ、幸福を求め平和を願いながらそれぞれの街で暮らしているということに愛着と慈悲を覚えて帰ってくれますように。
 そして、利己的支配勢力の暴力によってこの子たちののびやかな笑顔が喪失されることがありませんように。

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【Ngene掲載:2008年6月28日】

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「Compassion」~チベットからの風~
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「Compassion」~チベットからの風~

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 2008年5月、重要な冊子が発行されました。「悲・コンパッション~compassion」というタイトルがオフホワイトの地に記されています。風に舞うタルチョ(チベットの経文が書かれた五色の旗)のイメージが、
そのタイトルに呼応して、風を運んで来るみたいです。シリーズで発行されるものなのか「vol.1 チベットからの風」という表記があります。

 「チベットからの風」。
 これは、チベットの悲劇性を訴えるだけの本ではありません。もっと重要なことを考えようとしている本です。

 発行者は「チベット(問題)を考える真言宗智山派青年僧侶有志の会」。篠ノ井にある長谷寺のご住職・岡澤慶澄さんや、現地を何度も訪れてその現状を熟知している上田・海禅寺の飯島俊哲さんを中心に、各地のいろいろな宗派の僧侶、チベットに友人を持つ方、チベット仏教普及協会の方、さまざまな立場からの寄稿によって構成されています。
 2008年3月10日に、チベットで何があったのか。そして50年前、1959年の同じ日には何があったのか。これまでチベットは、どんな状態に置かれてきたのか。それは、この世界でどういう意味があるのか。そういった、チベットを巡る理不尽な出来事について、いろいろな観点からの評論を集め、他の何でもない、人の幸せを守るための思索を目指した本なのではないかと思います。
 誰かが捩じ曲げた歴史認識ではない、通り一遍の事件記録ではない、ひたすら人間の生命という根源的な視点で編纂された証言集です。

 「コンパッション」、チベットのことを考えるときに、いや、それだけではない、現代を生きて行くのに必要な理念を宣言した序文から、この本は始まります。この難題にどういう姿勢で臨むのか、という覚悟のことです。
 チベットやダラムサラ(チベット亡命政府のある北インドの町)を何度も訪れている、飯島俊哲さんの記述がそれを受けます。
 チベットのこの問題にも、チベットだけではない、世界的で強大な悪因が潜んでいます。それに対面したときに突きつけられる、不可能にも近い困難と、それでも人々の幸福のために闘おうとする、無尽の悲しみと怒りを孕んだ決意を、僕達はこの必死に堪えている一文から感じ取ります。

 チベットはかつて自由な独立国家であり、中国(元~明~清)は、信仰の拠り所として、チベットに敬意を抱きながら共生していました。この関係が変わったのは、ヨーロッパの植民地政策がこの地に及んでからです。清はアヘンを流し込まれて侵略され、植民地化され、その侵略者から政治的軍事的な概念を移植された結果、中国はチベットへの弾圧を始めたのです。
 その勢力というのが非人間的な利己経済思想であり、18世紀以降世界中で戦争や紛争、動乱を起こしている要因なのです。アメリカの第一次世界大戦参戦、日本の真珠湾攻撃、ベトナム戦争、カンボジアの内戦、ルワンダの大殺戮、そのほかあらゆる紛争。煽動によって混乱を引き起こし人々を悲劇に追い込むその手法は今も変わっておらず、日本も現在その渦中にあります。
 人間の、とどまることを知らない暴力的な欲望。
 中国共産党政府を批判するだけでは表層の波紋に過ぎません。暴力を止めさせるために、僕達はまず、そこで何が起きているのかを正確に知らなければいけないのです。

 続いて、チベットに友人を持つあるひとりの女性が仮名で書き記した3月10日を巡る記録。仮名で寄稿しているのは現地チベットの友人に危害の及ぶ可能性があるからです。この誠実な文章により、そこで本当は何が起きているのかが僕達に伝わってきます。

 3月10日の夕方、チベットのラサで始まったのは、拘束された仲間の解放を求める平和的なデモでした。列になって歩き声を上げるだけの平和的なデモです。ところが途中で武装警官に包囲され、何人かが逮捕されます。同じようなことがチベットの他の地域や青海省、四川省などでも起きました。
 翌日、デモによって逮捕者が出たことに抗議した僧侶や一般市民によるデモが各地で行なわれます。今度はいきなり催涙弾を撃ち込まれ、寺院は封鎖され、チベット各地に軍隊が配備されて戒厳令が敷かれ、四川省では警察によるチベット人の射殺にまで至りました。武器を持たない市民の平和的なデモにここまでする異常さ。
 ラサではそこに一般市民の参加が増え、暴動のような様相を呈していったのです。
 日本のニュースで繰り返し放映されたのはこの部分でした。しかも、袈裟を着た暴徒の姿がとりわけ印象的に映し出されています。こんなときはもうお人よしな僕らも騙されません。違和感のあるあれはやっぱり、当局が放ったニセモノの僧侶だったようです。

 この日の出来事から起草して、この項では中国共産党がチベットを侵略してから半世紀の間にどれだけのことをしたのかが冷静に記述されています。僕達のような平和に生きている(?)境遇では想像もできない殺戮と破壊が行なわれていたことがわかります。

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 この絵は、北インド、ダラムサラへ歩いて亡命した子供の絵です。7歳の少年です。子供達は約一ヶ月かけてヒマラヤを越え、ここに辿り着きました。国境で中国軍から発砲され、自分の前を歩いていた友達が足を撃ち抜かれたのです。
 子供達は服の下に小さな入れ物にはいった仏像を下げて歩いて来ました。チベットの家を出るときに両親が持たせてくれたのだそうです。思案の果てに最善の方法として我が子を危険な道程へ送り出さなければならない、今のチベットの親達ができる最大の庇護です。僕達にもヒマラヤを越える険しさを想像することはできます。7歳。小学校2年生です。

     ◇◆◇◆

 この本には、チベットにおける仏教の存在意義、創成期からの歴史、国家という概念、ダライ・ラマの思想と苦難、智慧と慈悲への祈り、そのほかいろいろな評論が掲載されています。知っておかなければならない情報や知識や概念が、いろいろな手法で記述されています。そのひとつひとつが誠実な筆致によって僕達に本当のことを届けてくれます。

 真言宗の立場で編集されたものなので仏教の本かと思うかもしれません。仏教の思想を記している部分も多く仏教用語もあちこちにあります。けれど、それは仏教の思想を伝えようとしているのではなく、仏教者の視点で、僕達が人間としての幸福を守るためにどういう考え方をしたら良いのか、というアイディアを伝えようとしているものです。

 チベットとチベットの問題、それが地球規模の問題であることを提起しながら、編集部のあとがきは俯瞰した視点でこの本の内容を読み替え、これからの可能性を示唆します。
 「慈悲の再生」
 慈悲という言葉に現代はとても鈍感になってしまったと思います。慈悲について正しく考えるということを僕達はして来ませんでした。世の中で起きている多くのことから慈悲が抜け落ちています。人の命が軽々しくやり取りされたり、他人の財布から掠め取るように利益を上げることが礼賛されたり、自分のことしか考えず、そこで何が起きているかを知ろうともしない。
 この社会からこれ以上慈悲が抜け落ちて行くのをなんとか食止めなければなりません。たとえ強大な悪意が厳然とそこにあっても。

 この本は当初関係者向けに発行されたものだったのですが、今後、一般書店でも販売されることになったようです。詳しい販売情報は今わかりませんが、是非、読んで欲しい一冊です。

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【Ngene掲載:2008年6月24日】

チベットの風ホームページ

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~勝山ゆかこインタビュー [前編] ~

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 テントギャラリー。
 広場の片隅や、野原、林の中や近所の河原に、突然、白いテントが現れて、その中に、いろいろな造形表現が並んでいる。犬の散歩の途中で「なんだろう」って覗いてみる、アートのありかた。

 勝山さんの表現活動には、それによってオーソライズされたいとか、成功したいというような意欲が見られません。誰もいないところで、独りで、ひっそりと、その活動を営んで、へたをしたら、そのまま何も起こらなくても良いと思っているかんじがするのです。
 その表現の素になっているのは、いったい何だろう、どこから、その力が湧いて来て、どんなふうに、見る者に伝わって来るのだろう、そんな、表現の源泉を知りたくて、勝山さんを訪ねてみました。

~勝山ゆかこインタビュー [前編] ~

ーテントギャラリーは、どんなことから発想したんですか?

 やっぱり、最初は形にこだわってて、普通のギャラリーを探したんです。けど、とっても高いんですね、借りるには。美術館も、あんまり、これだっていうかんじじゃなかった。美術館だと入場料が必要じゃないですか。観る人にお金を払ってもらうっていうこと自体が、もう自由ではないんじゃないかって。

 フランスに行ったときのことなんですけど、ギャラリーはもちろん、もっと気軽に入れるような施設が、いっぱいあったんです。それで、日本でもなんとかできないかなって思った。何かを観に行こうって、身構えて立ち寄るところじゃなくて、散歩してたら偶然、そんなものが、いつもないところにあって、立ち寄ったら偶然そういうものが観れるっていうふうに、普通の景色の延長線上にしたかったんです。

ー例えば、商店街の人なんかと一緒に、街の中に作品を展示するとか、そういう方法もあると思うんですけど

 たぶん「100%自分の城」が良かったんですね。誰とも関わりたくないというか、何か、隣のものに影響されたくなかったし、それは、やっぱり、制限とか出てくるものだし。自分の聖域を侵されたくないからなんですよね。100%自分でっていうのが理想だった。

ー他者の干渉を受けたくないっていうのは、もともと、勝山さんにはそういう性質がありますか?

 そうですね、もともとそうですね。親でさえも、幼い頃には、そうでした。自分が絵を描くときは、家の中に誰もいて欲しくないんですね。で、みんなが出かけてる時には、絵が描けるんですよ。

 ずうっと、自分を演じてたんです。人に、親に、自分はイイ子でいなきゃいけないっていう。なんか、自分でない自分でいたんですね。ほんとはネクラで、あんまり言葉も喋りたくなくて、人とも関わりたくなかったんですけど、親からは「明るい子で、明朗活発で」っていうふうに強要されてる気がして、それを演じなきゃいけないって感じてた。

 ほんとのところは、ひとりが好きで、昆虫とかいじってる方が好き。わりと、節足動物が好きみたいですね。小さい頃は、生まれ変わったら節足動物になりたいと(笑)思ってました。なんか、人間の世界より、動物の世界にすごく憧れてました。人間の良さっていうのが、まったくわからなかったんですね。ほんとに、ここ最近、一年ぐらいですね(笑)、ひとの良さっていうのに気づいたのは。

ー一番最初に、自分の表現として絵を描いたのは、いくつぐらいのときですか?

 小学校入ってすぐですね。スケッチブックと、あとは、普通の2Bとかの鉛筆1本で。

ーそのときは、別に絵を習ってたわけではないですよね?

 そうです、習ってないです。絵は、まったく一度も習ったことないです、小学校で、普通の授業で絵を描いたりする以外は。絵を描いても、誉められたことがなかったんで、私は絵が下手なんだな、としか思ってなかったですね。

ー人と接するのが苦手で、絵をとにかく描いてて、でも、その絵も誉められたことなくて、という子供時代

 そうですね(笑)。二面性があって、ほんとはネクラなのに明るい子を装ってた。けど、わりと、いじめられてることが多かったので、どんどんネクラになっていきましたね。小学校の頃は、まだ、普通に冷やかされたりするくらいだったんですけど、いじめられても泣かない子だったので、逆に、いじめられ続けちゃって。友達は、かろうじて一人か二人。高校までずっと、そんなかんじでした。クラスメイトの名前も言えないです、たぶん。誰がいたのかもわかんない。本とか、あんまり読むの好きじゃないんですけど、休み時間とか、やることないから、仕方なく本を読むフリをして時間つぶしたり。そういうことしてましたね。

ーで、ひとりになると絵を描いて。

 そうですね、家に帰って。油絵はもう小学校の頃からやってたんで、それは、たまたま学校の授業で油絵を教えてくれる教科があったので、それがきっかけで、ずっと自分で続けてましたね。でも、家でやると、やっぱり絨毯が汚れたりするんで、親には反対されて(笑)。

ーとにかく、絵を描くことが好きだったんですね、絵を勉強しようと思ったことはないんですか?

 そうですね、たぶん好きっていうより、絵を描いているときだけは自分でいられるっていう……。
 けど、勉強しようと思ったことはないですね。やっぱり、上手いって言われたことがまずなかったんで。親も「汚すだけだからやめてくれ」っていうかんじだったから(笑)。作品が出来ても、やっぱ、あの、「いらないんなら捨てるけど……」って言う(笑)そういう親だったんで。なんかわりと、ドライな関係だったんで。うっかりしてると、ほんとに捨てられちゃうんですよ。

ー大きくなったら何になる、とか、進路の問題が出て来る時期がありますよね?そのあたりは、どうやって乗り切ってたんですか。

 普通に、平凡に生きていられればいいかなって、平凡に生活できればいいって思ってましたね。何か特別な職に就きたいとか、偉くなりたいとか、まったく思ってなかったです。夢はなかった(笑)。田舎だったから、華やかな職種の人なんかも、まったく知らなかったし、たいがいは工場なんかに勤めて、普通にお母さんになって。
 大学は、本当は行きたかったんです。ずっと高校までいじめられて、というか、友達があんまりよくできなかったから、大学に行けば、ちょっとこう、何か、変われると思ってたんですね、きっと。けど、まあ、親に反対されて。

ー高校まで、ずっとひとりぼっちで、大学は、行きたかったけど行かなくて

 高校卒業して、すぐ就職しました。農協に入って3年間。わたしは、本所に行ってばりばり仕事したいと思っていたんですけど、支所に回されて、なかなか、その希望は聞き入れられなくて、他の人には、楽だからここにいた方がいいよって言われて、でも、自分の人生が終わっちゃうと思って、辞めたんです。それから、お金がいい方へとか、仕事に飽きちゃったりして、次から次へと、すぐに職を変えてましたね。途中からは、寮のある会社を選んで、家を出ました。

ーそのときも、ひとりでしたか?友達とか、仲の良い人とかは

 いないですね。職場では、ほんとに友達とかまったくできなくて、逆に、敵が多かったですね。なんかわりと、やるからには真剣に本気でやりたいんで、他の人のちょっとした、そういう、楽だからっていうかんじが許せないんですよ。私は、けっこう、休みの日も仕事の関係のことをしてたり、まわりからは、それが理解できないって疎まれて、よくぶつかってましたね。

 絵は、ずっと描いてました。職場が変わっても、画材だけは寮に持ち込んで、油絵、やってました。仕事に行く直前まで描いて、そのまま会社に行って、帰って来てまた描くっていう生活をしてました。けど、誰にもそんな話をしたことないし、誰も、それを知らない。

ー絵を売ろうとか、展覧会に出そうとか、そういうことは、なかったんですか?

 なかったです。
 誰かに言われたことがあって、「いい絵は、必ずいい出会いをする」って。だから、自分から言わなくても、自分がいい絵を描けたなら、きっと、その絵は、違う人といい出会いを、偶然どっかでするんだろうなあって、信じてたんです。だから、自分から公表する必要はないんだろうって思ってました。

ーずうっとひとりで絵を描き続けて、それは、いい絵が描けたら必ず何かあるっていう一点の希望だけで

 そうですね(笑)。いじめられてるときも耐えられたのは、いじめられて耐えてるけども、絶対その分、何か、天が何かを与えてくれるはずだって、信じてたんですよ。人と同じにできなかった分、何か埋めてくれるんじゃないかっていう、期待があって。それで我慢できたんですね。いじめられてても、わたし一日も学校休んだことなくて、皆勤賞なんですよ(笑)。

 §  §  §

 勝山さんは、静かで、にこやかな方です。けれど、よく聞いてみると、とても変わった感覚で生きて来ているようです。
 勝山さんのように、何かひとつの、ほんの小さな信念に従って、ずっと生き続け、そして、生き続ける結果として、新しい創造物を生み続けている、そんな姿が、こんな世の中ではとても価値があると思います。時代の潮流に乗った美しいキャリアよりも、むしろ。
 作品に対する評価とは別に、アーティストの動機や姿勢、そして、そこに創出されるエネルギーが、人を惹きつけることがあります。後編では、いよいよ、多角的に分岐して行ったアーティスト・勝山ゆかこの、表現の奔流に触れてみることになります。面白いですよー。

【Ngene掲載:2007年3月1日】

|前編|後編

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勝山ゆかこ
1975年長野県須坂市生まれ。長野市在住。
絵、オブジェ、インスタレーション、写真、イラストなど、手段・手法にとらわれず独自の切り口で創作活動を続けている。2006年から新たにハンドメイドの彫金ブランド百文[ momon ]を展開。
momon | Yukako Katsuyama
百文[ momon ]
Ricky

~勝山ゆかこインタビュー [後編] ~

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ー勝山さんの絵は何かを写生しようという絵ではないですよね

 子供の頃は、そっくりに描かなきゃいけないって教えられて、それを真剣にやってましたね。だんだん変わってきたんです。すごく観察して、そっくりに描くことはできるんですけど、観察すればするほど、実際はそうじゃないんじゃないかって思い始めたんです。たとえば、花を描いてても、花びらの側面とその隣にある空間が繋がっているように感じてきたんです。その境目は、肉眼では確かに存るんだけど、それは、私という人間の視点であって、本当は境はないんじゃないかって、思ったんですよ。21くらいのときかな、境は必要ないって。それまでは、わりと写実的だった。

ーじゃあ、絵を描く、つまり平面上になんらかの形を取る根拠っていうのは、どのへんにあるんですか?何を、そこに描こうと思うんですか?

 たとえば、雲とか、ずっと観察し続けて、雲の流れや形を全部忠実に描き写してくと、見えてくるものがあって。書道で言う「入って抜けて」なんですけど、そういう、美しい自然の流れっていうのは、ほとんど全部一緒なんですね。音楽も一緒。書道も一緒。美とされているものは一緒なんだって思ったんですね。
 そうなると、絵を描くことや表現することが、自分にとっては哲学みたいになってきます。絵とは?っていうところから入って、こういう、自然界の物体とは?ということになってく。そういう自然の波動だったりとか、絶対的な元のものを表現したくなってきて、だんだん形はなくなってきました。

ーあのオブジェもそうですね?なんかこう、向き合って波動を出し合っているっていう。あの形をとってるけど、ひょっとして、人間もそういうふうに見えますか?

 見えてますね。もう、そんなふうにしか、見えてなかったですね、以前は。嫌いだったんで、人間は。その、何かいい波動を出すんじゃなくて、いがみ合ってたりとか、そういう波動しか見えて来なかったんで。なんて言うんですか?セキュリティーの、こういう赤い光線、ああいうかんじだったんです(笑)。しがらみっていうか、どこを触っても、いやなことばっかりがあって。

ー仕事がお休みの日とか、何してました?

 なんか、ずっと絵を描いたりしてましたね。

ーオブジェとか、ああいう作品も?

 作ってましたね、絵を描くのと同じような感じで。部屋の中は、いつもガラクタだらけでしたね。会社の上司も、いらないものをくれるんです(笑)。シュレッダーで、業務用の紙とか出るじゃないですか。「持ってくか?」って言われて、「持ってきます」って、もらって来るんです。別に、何かやってるって知ってるわけじゃないんですけど、ちょっと変わったヤツだっていうのは、みんな知ってて(笑)、いらないゴミが出ると「持ってくか?」って。

ーベニヤ板に描いた絵があるじゃないですか。あれは、なんで板に描き始めたんですか?

 最初は、単純に、キャンバスが高かったからなんです。キャンバスって、高くて完成されたものじゃないですか。あるときふと、この、商品として完成されたキャンバスを越えられる絵って、わたし描けるの?って思っちゃったんですよ。キャンバスはキャンバスのまま、もう完結した方がいいんじゃないかって。
 で、ベニヤ板だったら、大きさも自分でノコギリで切れるし、いらなくなったら燃やせる。最初は、そんなところから入ったんですけど、実は、ベニヤ板に描いた方が照りもいいし、だんだんキャンバスに描くよりも好きになりました。

ーそこで、紙とか、いろいろ試すんじゃなくて、ベニヤ板に行ったのはなぜですか?

 力強さかな。オイルも結構使うんで、耐久性とかも。布に直接描いてみたこともあったんですけど、うまくいかなくて。布って思った時に、すぐ部屋にあるもので、カーテンに描いてみたこともあるんですけど。

ー彫金をやろうと思ったのは、なぜですか?

 いろいろな仕事をしながら、ずっと、作品を作ってきたわけなんですけど、どっちもなんか、仕事にしても、作品を作るにも、プロじゃないし、プロとして何かをやりたいって、思い始めたんです。プロっていうのはつまり、お金が発生するもので、お金になるもので、表現しながらできるものはなんだ、って考えた時に、たまたまそれが彫金だった。

ー仕事として成立させようっていうのが、最初からあったわけですね?

 そうですね。でも、本当に最終的な目標は、発言権が欲しいんです。
 少数派は、いつも取り上げてもらえなくて、みんなと同じ意見の方に絶対流れるんですよ。いつも、それを疑問に思ってて、自分のアイディアは、結構いいアイディアだと思ってるんだけど、誰も聞いてくれないって。だけど、いつか発言権を得られたら、それを言いたいって、言わせてくださいっていう、言う場が欲しいっていうか。何かの実績があれば、多少は、まったくはじいてた人も、多少は、耳を傾けてくれるかなって思って。

ー発言権ですか。それは、何か具体的なことを目指してのものなんですか?

 最終的には、言い方はちょっと違うんですけど、ボランティアのようなことじゃないかと。なぜか常に、精神的に悩んでいる人とか、貧しい国にたまたま生まれちゃって、生活が出来ない子供たちを、なんとかしてあげたいっていう気持ちがあったんです。ボランティア活動をしたいっていうかんじとは、ちょっと違うんですけど。
 一時期、親に相談したことがあるんですね。給料を全部寄付したらいいんじゃないかって言われて、それはできないって思った時に、自分の考えてることは偽善なんだろうかって、思ったんですけど、でも、やっぱり、そういうことじゃなくて。
 今は、お客さんが結構来てくれて、会社でこういう悩みがあるんですっていう話まで、なぜか行ってしまって、私も、結構経験がある方なんで(笑)、そういう相談にのってることの方が、商売していることよりも、すごく嬉しくて。「あ、役に立てた」みたいな(笑)。

ー今の日本の社会って、勝山さんにはどんなふうに写ってるんですか?

 なんか、やっぱり、お金持ち優遇の社会の延長に歪んでしまって、それが、子供達にも影響が来てて、歪みに歪みきってるって感じます。

 私、小学校の頃から、日本はもう終わりだって思ってたんですよ。日本から脱出しなきゃって。日本を動かしている人達のやってることが、到底正しいことだと思えなくて、この人達が動かしているんだったら、もう日本は終わりだと思ってましたね。
 で、社会人になりたての頃は、大人の社会はきっと大丈夫、日本のトップがああであっても、小さな社会を見れば、大人の人達はきっと大丈夫って、思ってたんです。けど、就職して知ったのは、子供よりひどい世界だったっていう。
 もうどうしようもないなあと思って、24ぐらいのときに、わたしはもういいって、思ったんですよ。絶望しちゃったんですね。憧れてた大人の世界はないんだ、もっと歪んでるんだって、もう死にたいって。まあでも、ただ死ぬのもなんだからって、旅に出たんです。ニュージーランドに行って来たんですけど。

ーニュージーランド?どういう経緯でニュージーランド行ったんでしょうか?

 なんで行ったんですかねえ……。別に、理由はなかったと思うんですけど、どこでも良かったんですけどね。衝動的で、もう、保険とか、一切みんな解約して、有り金ぜんぶ持って行ったんです。帰って来ようっていうつもりも、なかったですからね。2、3週間くらいいたのかな、ちゃんとしたホテルじゃなくって、だいたい、停まってる車に潜り込んだりとか、安いところで相部屋で寝たりとか、そう、公園の水道で頭を洗ったりしながら、転々と、一周、まわってきました。雄大な、壮大な大自然で、やっぱり、こっちの方がいいなって思いましたね。動物になった気分。

ーそこで何か、絵を描いたりとかは、してましたか?

 描いてましたね。画材は、持って行きましたね。それで、やっぱり木の板が必要なんで、木工所を探して、探したけどなくて、お店の人に教えてもらって、訪ねて行って、木工所の人に「どんなのがいいんだ?」とか「こういう素材だけど大丈夫なのか?」「どのくらいの大きさに切るんだ?」とか、なんか、そういう、向こうの人達との会話の中で、やっと、「あ、人っていいな」って、思えたんですよ。
 郵便局に行って、分からなくて困ってたら、なぜか、おばあちゃんが手伝ってくれたり、世話を焼いてくれるんですよ、みんな、言葉もわかんないのに。そこが、すごく良くって。木工所の人も、この板を3等分にしてくれって言ったら、ああいいよって、切ってくれたんですけど、手元に来たら、ぜんぜん3等分じゃないんですよ。ばらばら(笑)。3枚だけど、等分にはされてないんですよ。ああ、このくらいでいいんだなあって思って。この適当さでいいんだって思って。

ーニュージーランドで救われて、良かったですね。

 ほんっとに良かったですよ(笑)。そこから、再出発ですね。
 で、ニュージーランドの後に、フランスとグアムに行ったんです、ほとんど同時期に。まったく文化が違うじゃないですか、かたや、理屈っぽい文化を重んじるような、かたや、裸でチャモロダンスしてるような、全く異文化で。けど、実際に行ってみたら、あ、同じなんだって思ったんですよ。たまたまこっちはネクタイしてるけど、こっちは、たまたま裸なだけで、でも、一緒なんだなって思ったんですよ。そこに境界線みたいなものはやっぱりないんだって。

ーそれは、何でそう感じたんですか?

 なんでですかねえ、なぜ思ったのかは、わからないんですけど、踊ってる人達の顔とか、まあ、踊ってるとこを見てたら、そう思ったんです。ただ脳天気に踊ってるわけじゃないんだっていうか。
 フランスに憧れはあったんですけど、街の造りとか、街全体を、そこに住んでる人が、楽しんで、愛してるのであれば、理想のところだって思って行ったんです。けど実際は、もちろん、街はすごく良くできてるんですけど、すごく、貧富の差が激しくて、パン屋さんの前でパンをせびってる女の子とかいっぱいて、あ、楽しいばっかりじゃないんだなって、思ったんですよ。
 だけど、自分は、お金を持ってる人にも持ってない人にも、みんなに平等でありたいから、理想は無料で、無料で何かを提供したいっていうのが理想なんですけど。お金がないからこの曲が聴けない、とか、お金がないから絵が見れないって、そうじゃないじゃないですか。

ーどんな世の中が理想で、どんな世の中になって欲しくて、自分は、何をしていたいですか?

 自分は、貧乏でいたいですね。貧乏で、絵を描いたりして、物々交換をして、生活したいですね。困ってたら、お米作ってる人が「じゃあ、お米あげるよ」って、「じゃあ、その絵あげるよ」みたいなかんじの(笑)。
 ほんとうの意味で助け合える世の中がいいと思います。だから、みんなが、もっと貧乏だったらいいなって思います。もっと野生に近い、でも、高等動物だから、絵も描けるし、字も書けるし、言葉も交わせる。
 なんか、ちょっと、人間は、もうちょっとアタマ悪くても良かったんじゃないかなって。それか、もっと、突き抜けて本当に良ければ、戦争なんて起こす必要もないし、みんなが、もっと平和に生活できるように考えることが、いくらでもできるじゃないですか。必要なものって、そんなにないと思うんです、生きていくうえで。

 § § §

 多岐にわたる表現の変遷を伺っているうちに、とても大きなアイディアの話になっていました。もしかしたら、理想という部類に入るアイディアではあるけれど、世の中のすべてが幸せであって欲しいという、本当に、みんなが持つべき気持ちです。自分だけが良ければいいのではなくて、自分が良くあるためには、全体も、みんなが良くなければ、世の中は歪んでしまう。
 お話を伺った彼女のアトリエは、片隅に彫金のための作業台があったり、壁には作品が無造作に掛かってたり、漆黒のちびっこい愛犬が、控え目な愛くるしさで出迎えてくれたりします。一杯のお茶で、ずいぶん長居をしてしまいました。

【Ngene掲載:2007年3月9日】

前編|後編|

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勝山ゆかこ
1975年長野県須坂市生まれ。長野市在住。
絵、オブジェ、インスタレーション、写真、イラストなど、手段・手法にとらわれず独自の切り口で創作活動を続けている。2006年から新たにハンドメイドの彫金ブランド百文[ momon ]を展開。
momon | Yukako Katsuyama
百文[ momon ]
Ricky

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路地サミットを駆足で振り返る

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 2003年、昭和初期の商店街が多く残る東京の下町・十条から始まった「全国路地サミット」。再開発やマンション化によって潰され消えて行こうとしている路地の魅力、価値、必要性を再認識し、これからの日本の社会でどうあるべきかを考え、普及して行こうというムーヴメントです。
 2年目の2004年は大阪市中央区の空堀。大阪市の中心部に位置し、大阪城や難波宮(飛鳥時代の宮殿)周辺の歴史のあるエリアで、戦災を逃れた古い長屋、町家が多く残る街です。翌2005年、古くは花街、昭和初期までの文人が足繁く通った典雅な商店街、東京新宿区の神楽坂で、2006年は市長みずから率先して「辻と小径の景観支援事業」を立ち上げた諏訪。寺社や酒蔵、味噌蔵、共同浴場などが形成する古い路地が特徴です。そして昨年は静岡県、浜名湖の西岸、海辺にある東海道関所の街・新居町。毎年それぞれ歴史的にも地理的にも特徴のある興味深い開催地が続いて来ています。

 そして今年は長野市でした。

 歴史的にも景観的にも魅力のある善光寺周辺の小路や歴史物語をモチーフにしたまち歩きと、既に数年前から「遊学都市」という概念を推進し、市民による文化的な街づくり「エコール・ド・まつしろ」が定着してきている松代のまち歩きを骨子にした2日間にわたるシンポジウムとなりました。

 今回の「全国路地サミット」の企画者は、その「エコール・ド・まつしろ」のプロデューサーでもある石川利江さん。北信地域を中心にあちこちで文化的な地域振興に携わっていらっしゃる方です。
 2日間の参加者はのべ200人以上。石川さんのコーディネイトで集まった豊富なアイディアと人材、街づくりや文化に対する高い認識を持った大勢の人々のエネルギーによって、善光寺も松代も、すべてのプログラムがとても充実した有意義なイベントになりました。

 路地は人々の生活と街の往来を繋ぐ空間です。生活の場の一部なので、その街にある歴史や文化、風土、人々の気風が色濃く表れます。歴史や文化は、誰かの作為ではなく社会や人間によって自然に積み重ねられたいとなみの集積です。
 経済効率や大量輸送、利便性、汎用性の追求を進めて来た日本の街は、戦後、そこに住む人々の存在を街から消滅させる方向に進んで来ました。すごいスピードで進んで来ました。お金によって作られた街は全国どこへ行っても同じ街で、歴史も文化もきれいに刈り取られたコンクリート詰めのトレンディー(笑)な街が全国あちこちに量産されて行ったのでした。

 そんな街では人々は楽しく暮らすことができません。人のちからによって作られた街を求める人々があちこちに現れて、日本全国いろいろな街で面白くて楽しい街づくりの方法が進んで来ています。

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 25日の朝は善光寺界隈のまち歩き。

 コースはふたつ用意されていました。
 ひとつは善光寺七小路。善光寺の境内から門前にある7つの小路を、伝説を繙きながら巡ります。案内人は善光寺平の歴史や街のことについて膨大な研究や表現を続けていらっしゃる「歴史の町長野を紡ぐ会」代表の小林玲子さん。街の隅々まで、歴史の隅々まで、魅力的な物語をたくさんご存知の方です。絵解き口演家でもいらっしゃるので面白いこと請け合い。

 もうひとつは善光寺東之門界隈のお地蔵様巡り。仲見世の堂跡地蔵尊からはじまり院や坊の並ぶ境内を抜けて東へ、新町、岩石町、東町界隈のお地蔵様、庵を訪ねます。夏の夕方には地蔵盆が行なわれる風雅な一隅。城山から東南方向に小高い丘を下る傾斜地で、庵や神社も多く、由来や伝承も豊富なところです。こちらは長野郷土史研究会の小林竜太郎さんがナビゲート。

 午後はメイン会場の大本願明照殿でフォーラム。

 「まち歩きが観光を変える~長崎さるく博でわかったこと」という基調講演で始まり、新居町、別府市、神楽坂、飯田市、諏訪市、そして次回開催都市・神戸市、全国6つの街の事例発表、善光寺と松代、長野市で行なわれているまち歩き2事例の発表、石川さんがリードするパネルディスカッション。かなり濃密な内容がぎゅっと詰め込まれた、栄養たっぷり食べ応えのあるおやきみたいなフォーラムになりました。

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 基調講演を行なった茶谷幸治さんは、2006年に話題を呼んだ「長崎さるく博」の仕掛人。ハウステンボスという巨費を投じたテーマパークが完全に潰えた長崎で、取って付けたハリボテではなく、そこにある、足下にある街の事実、魅力、歴史や文化や人の物語を利用して観光人口の増加を誘発した成功事例を持っていらっしゃる方です。

 観光誘客というと、立派な施設を作ったり東京からタレントを呼んで来てイベントしたり、というような判りやすいことでないと不安でたまらない人たちを上手に導きながら、博覧会を大成功に導いたエピソードです。その経緯を通して、お金の力ではない、人間の感性や知恵の力で街に人を呼び、活性し、経済に好況をもたらす可能性が伝わりました。苦労話や興味深い話が満載。とても面白い講演でした。

 「さるく」というのは「ぶらぶら歩く」という意味の長崎弁。出島やキリシタン大名、ヨーロッパ列強による侵略の水際という特異な歴史風土に彩られた長崎の街、迷路のような街路で構成されたわかりにくい街を、市民ガイドが街のうんちくを語りながら案内するのです。
 半年間の博覧会期間中、参加した人数はのべ1,000万強。75パーセントが長崎市外からやってきた観光客。2次的3次的な波及効果も含めた経済効果は856億円という推計がされている大きな成功事例です。
 なにより、博覧会閉幕後もその仕組みが残り、ひきつづき市民の力、そこに住む人々の力でその状況を維持し続けているという事実が大きな成果です。テーマパークや巨大ショッピングモール、立派な建造物と違って維持費はほとんどかかりません。

 いわゆる「まち歩き」という方法を博覧会として開催した「長崎さるく博」はとても画期的な事例となりましたが、長野市でもこのようなプログラムは数年前から始まっています。

 「エコール・ド・まつしろ」です。
 戦国時代からの波乱に富んだ歴史と豊かな文化によって形成された松代の街を舞台に、市民の生活を本位にした大人のための観光施策を、2003年から数年来ずっと展開しているのです。
 日常生活に隣接している文化財を通して市民が学び、趣味を深め、市民の手で文化財を手入れし、その文化財を活用して松代を訪れる人を迎え、市民によって街の魅力を外に発信して行く仕組みです。松代の美しい街には、ロゴを染め抜いた紺色の暖簾や市民ガイドのみなさんのエプロンをよく見かけます。市民ガイドに連れられた観光客があちこちを行き交い、あちこちで街の文化を踏まえたイベント、園遊会、音楽会とかシンポジウムなどが盛んに行なわれています。
 「大人の遊学城下町・松代」。これによって、松代の街は文化を基軸にした個性的な街として全国に知られるようになりました。

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 26日の朝は、その松代でのまち歩きでした。

 日曜日。
 松代の街の中ではほかにもイベントが行われています。「路地サミット IN 長野」の首謀者・石川利江さんは、街の一番中心にある歴史的遺構・文武学校で「まつしろ・きもの縁遊会」というイベントも同時開催。毎週末、松代では各種のイベントが盛んなようです。
 
 松代の街は善光寺平、長野盆地の南端、蛇行する千曲川の東岸にあります。標高1,000メートル程度の里山に袋状に囲まれた少し手狭な扇状地。北向きに広がる扇状地のほぼ中央に皆神山という標高659メートルの溶岩ドームが異様な姿でボッコリと隆起しているのが特徴です。

 松代城。本名は海津城。築城当時の石垣が風景に馴染んで想像力を掻立てます。

 集合場所の松代城址公園から出発する松代のまち歩きは全部で3コース。
 第1コース「武家屋敷」コースは、文武学校から「れきみち(歴道:歴史の道)」を抜けて武家屋敷群を巡りながら象山の麓を流れる神田川沿いに扇状地の奥へ、象山神社や松代藩の重要人物・山寺常山の邸宅へ至ります。
 第2コース「町家・寺町」コースは第1コース・武家屋敷群の東側に位置する町家、寺町界隈。真田家や筆頭家老・矢沢家、御用商人八田家など松代藩中枢の居所と代々に由縁のある寺がいくつも集まった裕福な地域を回ります。
 第3コース「路地裏探検隊」コースは更に東。江戸時代以降の比較的近代に形成された街区の路地裏を探索。3コースの中でもっとも路地サミットっぽい内容です。

 このほかに、午後のオプションコースとして、象山地下壕に入るプログラムも用意されていました。いわゆる路地ではありませんが、これはとても重要な日本の歴史遺産です。日本の歴史の表裏が見えてきます。

 さて、【路地月間!⑦】で高井さんが「路地裏探検隊」コースのレポートをしてくれたので、ここでは第1コース「武家屋敷」コースの様子をお伝えします。

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 松代は塀と門の街です。どの辻を曲がっても路地に土塀が続きます。ここまで塀が多い街というのもあまり他にはないと思います。松代独特の個性です。職業や武士の階級ごとに居住区が決まっていたため、塀の色彩、高さなどの形状から醸し出される雰囲気の違いも、その路地ごとの物語が感じられて面白いものです。

 そんな松代の街を「夢空間松代のまちと心を育てる会」のガイドさんと一緒に歩きました。波乱に富んだ歴史と経済的な豊かさゆえ、文武にわたる優れた人材を多く輩出した町です。まちへの愛情あふれるガイドさんのうんちくに耳を傾けながら、景観的にも魅力のある街を歩き回るのはとても楽しいものです。

 そして、門。
 いろいろな形、大きさ、建築された年代もさまざまな門が、街のあちこちで個性的な存在感を発揮しています。
 それぞれの門は、過去のあるとき、それぞれの家の事情の中で築造されました。多くは戦国時代から江戸時代。そして時代が巡り巡って、その時々のいろいろな事情によって古びたり壊れたり、改築されたり増築されたり、壁が張り替えられたり屋根が葺き替えられたり、放置されていたり、それぞれの門の物語の中でいろいろな変遷を経てきたのだと思います。
 そして現在、歴史文化を尊ぶ松代の街で、いま住んでいる人々のそれぞれの事情に従っていろいろな佇まいを見せています。こんなに個性に富んだ、物語を感じさせる門があちこちにあると、松代じゅうの門を蒐集して歩いたら面白そうです。門マニアのメッカになるかもしれません。

 個人的に今回のナンバーワンはこの門。
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 ……かなり高度にトマソン化が進んでいます。

 ガイドさんといろいろな会話を交わしながら、一行は歴史を辿って松代のまちの奥深くまで入り込んで行きます。

 松代の個性を形成する中心的な要素のひとつに象山があります。松代扇状地の西南の縁を作っている標高476メートルの、いわゆる里山です。さほど特徴もなく高くも尖ってもいない凡庸な形の山ですが、なんだか妙に存在感があります。
 象山の麓には佐久間象山生誕の地があります。今は広い敷地がぐるりと土塀に囲まれているだけです。何もない広い敷地をこういう形で置いておくというのは、人物への敬愛の念を持っているからできることなのかもしれません。

 隣接する象山神社は佐久間象山を祀った学問の神様。しっかりした大地の力を感じる神社です。境内には象山の蟄居した庵が移築されています。幕末の動乱期に、坂本龍馬、高杉晋作、吉田松陰、勝海舟など、日本を良い方向へ引っ張ろうとした人々が夜な夜な議論に熱中した場所です。

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 象山神社の門前にあるお宅のお庭拝見です。滔々と水をたたえた池には美しい錦鯉がにぎやかに泳ぎ、鬱蒼と緑の茂る豊かな築山には散歩道がぐるりと一周庭を回ります。庭が立派なだけではなくて、縁側のある家屋は古い武家屋敷の造り。柱や壁に永い年月が滲み込んでいます。
 散策の途中で家の方と連絡を取り合ってこういうことができるのも、普通の観光ではない、地元の家々に顔の利く案内人と一緒にするまち歩きの良さですね。

 こういった古い武家屋敷の個人宅を公開してもらうイベントが、松代では1年に2回ほど行なわれているそうです。「お庭拝見」というイベントで、20軒くらいの庭を散策して回ります。今回のガイドをしてくれている「夢空間松代のまちと心を育てる会」の主催で、毎回100人くらいが集まるそうです。

 路地サミット一行は象山の周囲を神田川に沿って奥へ進みます。

 神田川というのは象山の北麓を流れるきれいな川で、ここから引水された豊富な水が松代扇状地の生活を潤しています。
 松代は水の街でもあります。この神田川から引かれた水は、高いところから低いところへ、一軒ずつ家屋敷を巡りながら里全体に広がり、最後に千曲川河岸にあるお城の堀に流れ込みます。それぞれの家の水場を繋ぐ水路を泉水路(せんすいろ)と呼びます。
 どの家の泉水路にも、自分の敷地から次の家へ伝う水路にゴミを濾し取る仕掛があります。下流の人々に奇麗な水を供給するように、最後に流れ込む堀に奇麗な水を供給するように、すべての家で水を大事に流して行くのです。
 全体最適です。「自分さえ良ければOK」という昨今の利己経済主義社会ではありえない考え方です。松代の魅力のひとつですね。

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 武家屋敷群の一番奥にある山寺常山邸の大きな池と泉水路。
 神田川から取水する最初のお屋敷です。池の出口の水門には竹で編んだ仕掛、そこから屋敷の端までは大小さまざまな小石を敷いた水路、屋敷を出はずれる塀の下にはもう少し細かく編んだ仕掛が仕込まれています。
 路傍を流れる水路にも、並んだ家の間口ごと、水路に架かる石橋ごとに竹で編んだ仕切りが組み込まれています。流量の豊富な水路が街のいたるところを流れている様は、街全体を美しくしようという松代の精神性を表すと共に、感性に瑞々しく響く豊かな景観にもなっています。

 ◆◇◆

「武家屋敷」コースはここまでで約3時間。ほんの短い間、街のうんちくを聞きながら歩いただけですが、この街への関心、愛着心は確実に上がります。ほんのちょっと聞きかじっただけですが、人に伝えたい松代の魅力をいっぱい感じてまち歩きは終わりました。にわか松代ファンがひとり出来上がったわけです。これですね、街の魅力を誘発、増幅、発信する仕組み。

 松代の街の中では、この紺色の揃いのエプロンを着たガイドさんに連れられて歩いている観光客のみなさんとあちこちで出会います。エコール・ド・まつしろ倶楽部のガイドさんたちです。今回訪れた日曜日の松代で、このガイドさんたちの姿は本当に頻繁に目にしました。
 みなさん、朗らかに、街のあちこちで立ち止まったり闊歩したりしながら、生き生きと松代の物語を語るのです。そうすると、僕みたいなにわか松代ファンが生まれて、これまたあちこちで松代の物語を語るのです。

 5年前、東京周辺のJR駅で盛んに目にした「エコール・ド・まつしろ」のポスター。そこに描かれていた松代の遊学城下町という理念が、今、こういう形で生き生きと続いているのです。
 全国路地サミット。
 あらためて、ほかでもない自分のところにある個性や魅力、歴史や文化、人々のいとなみを理解し活用することで、本当に地域は活性を取り戻すことができると確信した2日間でした。

 全国路地サミット、来年は神戸ということです。

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 さて、そのにわか松代ファンがいたく感動した物語ですが、これまたたくさんのエピソードで奥深く構築されている魅力的な物語なのです。これを是非、松代レポートとして別の機会にお伝えしたいと思っています。

【Ngene掲載:2008年11月2日】【路地月間!⑧】
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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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