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「羅針盤」抜粋 〜市村次男さん《1》〜

「町並み修景事業」とブランディングの符号

 1980年から87年まで実施された「小布施町並み修景事業」を皮切りに、小布施のまちづくりを牽引した小布施堂社長・市村次男さん。古来、異文化を寛容に、真摯に受け入れ、豊かな地域文化を育んで来た小布施の歴史に、敬意と誇りを持ちながら、世界から旅行者を誘う、深い魅力のある街を創り上げて来られた方です。
 2009年の4月、市村家本宅・築100有余年の古い大きな屋敷で、日本の文化とまちづくりをテーマに、お話を伺ったことがあります。歴史を今に活かす手法、街並、地域を、ひいては社会を文化的に創ってゆくためのさまざまな手法についての、まる一日かけた対話だったのですが、その中から、まちづくりとブランディングの両方に符合する部分を抜粋してみました。いろいろな系列で符合する、このふたつのテーマは、経済と文化、地域と産業など、ブランディングについての多面的な考察を加えて行くときに、有効な視点を提示してくれるはずです。

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市村次男さん


デザインのための伝承

 デザインというのは、もともと、歴史とか風景とか、その場にある事象を、すべて踏まえるべきだと思うのですが、日本の、建築も含めて、デザインというのは、そういう部分がおざなりにされてきているように感じます。現状の自己実現の範囲を出ていなかったり、踏まえるべきものを踏まえていないために、突飛だったり、うそっぽかったり、ちょっと迷惑なデザインが出てくることが多いですよね。けれど、小布施の町の出来事を見ると、80年代くらいからもう、デザインはどうあるべきかということが考えられている印象がありました。当時からその認識はありましたか?

市村 ありましたね。いちばん分かりやすい例が、その頃、80年代の中頃から使っている栗のパターン模様です。そのときにこだわったのは、栗にまつわる小布施の歴史です。室町時代から栗の栽培が始まったという小布施の歴史がありますから、じゃあ、やっぱり栗は、なろうことなら「室町時代の栗」というのがいいんじゃないか、ということで、その時代の手箱の横に彫られた栗の模様を取り出して、それをコンピューターでパターン化した。今なら簡単にできるんですけどね、30年前の話ですから、それは大変な作業でした。
 やっぱり室町時代だから、栗の模様なんだけれども、広い意味の唐草模様、葡萄唐草なんですね。ですから、よく見ると、栗以外に蔓のようなものがあって、ぶどうの実らしいものも入っている。それは、現代に考えられた作為的なデザインではなくて、鎌倉時代、あるいは南朝、吉野朝廷の時代、つまり13世紀から14世紀の頃に、南宋あたりから、シルクロード周辺の文化が入ってきた、それを日本が受け入れた当時の模様なんです。だから、なんともいえず、600年前の雰囲気というのは、感じるられるんじゃないかと思うんですね。

 市村さんが、ご自分のお仕事として、この小布施堂や升一酒造のことを始められたのは、いつぐらいのことで、何代目の当主に当たるのですか?

市村 年齢でいうと31歳で、年代でいうとまさに1980年、昭和55年の1月からです。小布施堂の社長としては、たぶん4代目くらいだし、酒屋でいえば10代目くらいですが、ただ、この場所で一族が商売を始めてからは17代目です。

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複合性、全体性の面白さ

 ちょうど1980年、大学生だった頃に、僕は小布施に来ているんです。そのとき、小布施っていうイメージが既にあって、たぶん観光地というイメージがあって、観光を目的にして来ているんですね。で、升一酒造でお酒を買って帰ったんですが、じつは、今ほど街に降り立ったときに、はっきりとした景観の印象、美しい街並という印象はなかった。今は、この街全体がものすごく印象深い、美しい景観ができているんですが、どんなふうにして、この街の景観は形成されたんですか?

市村 大きな流れとして、小布施の産業の変遷があります。「栗菓子」というビジネスが、明治、大正、それから戦前の昭和、戦後の昭和30年代か40年代ぐらいまでは、産業としては農業と工業であり、メーカーだったんですね。それが、昭和30年代あるいは40年代くらいから、やっぱり直接お客さまに売って行こうという、言ってみれば、メーカーが川下に降りるようになって行ったんですね。それと、北斎館のような、歴史に着目した施設ができて、もともと人が訪れる街ではないのが、少しずつ人が訪れる街になってきた。そうなると、この街をどういう形でリニューアルしていくのか?という、これが重大なテーマになりますね。
 そうしたときに、まず考えたのは、生産拠点もこの一角にあるのが面白いだろう、ということでした。あまりゾーニングされちゃって、ここは観光客に来てもらう場所、ここは住む場所、ここは生産する場所っていうふうに分かれて行ったら、街は面白くなくなってしまう。だから、基本的に、いろんな機能を同じ場所に配置して行った。そのころ、それを表現する言葉がなかったので、我々は「機能の複合性を追求することによって、街は面白くなる」という言い方をしていたんですね。10年以上経ってから、ようやく、都市計画とか都市工学の世界で、「混在性の重要性」みたいな言葉で言われるようになってきたんですけど、そういう、共通して認識された言葉がなくて、理解してもらうのに、ちょっと苦労した記憶があります。
 けれど、やっぱりあの、子どもの頃に暮らしていた街の、混在性の面白さってあったわけで、それは、今よりもう少し農業というものに近い形だったのですが。今は、この建物の裏手は、ほとんど栗菓子の工場になってしまいましたけれど、私が子どもの頃は、酒屋の桶を干す場所であり、夏は畑であり、敷地内で鶏も飼っていたし、牛も豚も飼っていた。やっぱり混在していたんですね、いろいろなものが。一方で、酒も造っている、羊羹も作っている。それが、農業から少し離れて商業の方へ、店舗であるとか、飲食であるとか、そっちへシフトしては行っていますが、いろんな機能がこの場所にある面白さっていうのは、やっぱり大事だろうと。

 日本というのは戦後、どんどん細分化して、分けて、分けて、分かりやすく分類して行く方へ進んで来ましたね。その流れの中で、市村さんはどういうところから、そのことを感じ取られたんですか?

市村 私はかつて化学の会社に勤めていました。とりわけ、茨城県の鹿島コンビナートに3年ぐらい生活していたのですが、そこで、ゾーニングというものの味気なさを、いやというほど感じました。
 地図上では美しいんですよ。ここは生産エリア、ここは商業エリア、住宅エリアって。でもそこに生活してみると、あんな面白くない街はない。
 今でこそ、そういうのは面白くないって、社会的にも認知されましたけれど、よく、20年前、30年前は、住宅の適地っていうのは、閑静な住宅街だという考え方が濃厚だったわけですね。しかし私はずっと、生活の場っていうのは、いろんなものがごちゃごちゃしていた方が絶対に面白いと思っていました。閑静な住宅街っていうのは、学者を養成するとか、そういうことだったらともかく、ライブ感のある人間を養成するには、ああいう、住宅だけっていう場所はけして適してない。それから、商業施設だけというのも、それはそれで面白くないことはないけれど、どこかそれは、リアリティーというよりも、イリュージョンの世界に近いものになって行ってしまうし、なんだか、地から舞い上がっちゃったみたいな街になっている。それから、昔の生産と違って、今の生産というのは大変機械化されていますから、生産地帯っていうのも言いようのない寂しさがあるんですね、人気が少ないという。だからやっぱり、地図上ではごちゃごちゃしているかもしれないけれど、いろんな機能があることによって、温もりもあるし、変化もあるし、非常にそれは楽しいことだ、という実感がありましたね。

 たぶん、それに類することが、いろんな分野であって、学問も分類されて細分化されて、特殊な知識はその中で研究されて先鋭化して行くんですが、それを社会でどう使って行くべきか、というところが、細分化されて全体性を失って、わからずに進んでいる。

市村 細分化すると、すぐ専門家に振っちゃうんですよ。専門家、専門性は必要なんですが、専門家に丸投げするのはあんまり良くないんですね。ディテールは確かに詳しいし、細かいんだけど、スケール感は出てこない。全体の方向性とか、あるいは面白みとか、そういうのは芽が摘み取られちゃうところありますね。
 ヨーロッパやアメリカでは、都市の在り方として、ゾーニングもひとつの考え方ではあったけれども、それぞれが分けられることで、モノカルチャー化しちゃうということが実は面白くない、という考え方も、かなり強くあったんですね。けれど、日本はなぜか、ゾーニング一色になってしまった。今はだいぶ、そうではない方向の考え方が広がってきていますが、たとえば、わかりやすい例では、東京の大手町、丸の内とか。オフィス街に商業施設が入り込んで来ているのは、その方向のことだろうなと思うんですね。ただ、「住」、住むということが、まだ入って来てはいないけれども。

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《2》へつづく

※2009年4月に行なわれたインタビューから「地域のデザイン・プラクティス」ブランドのトータル・デザインに関する部分を抜粋しました。
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「羅針盤」抜粋 〜市村次男さん《2》〜

新しい共有、新しい公共のかたち

 一方、小布施の街は、いろいろなお店や家が、銀行とか、公共スペースとか、複雑に組み合わさっていたり、共有していたり、全体性を感じます。それぞれの敷地で、それぞれのことをやっているんだけれども、空間として占有してないかんじがあるんですね。

市村 都会と地方、とりわけ戦後の都会と地方、戦前の都会と地方というのを、いろいろ考えてみると、30年前に景観をやり始めたときに、わかって来たことは、都会といえども、戦前あるいは関東大震災の前っていうのは、そんなに、「自分の土地はここだ」っていう主張をする必要がなかったんですね。しかし、関東大震災の後、あるいは太平洋戦争の後、所有者が曖昧になったときに、土地の取り合いや権利争いみたいなことが起こって、それ以来、とにかく不動産は、ぼやぼやしていたら人に盗られてしまう、みたいな考えが一般化して、よしゃいいのに、田舎にまで、そういう考えが来てしまった。戦前は、都会でもそんなに強くなかったものが、戦後は、田舎ですら、そんな考え方が蔓延してしまっている。むしろ田舎であるならば、都会と違って、どこが境だっていうことがわかっているし、分かっていなかったら、境だけきっちり目印をつけておけば、あとはたとえば、グランドカバーを変えるとか、ペーブメントを変えるとか、そんなことで、ここからここは誰々のもの、みたいなことを主張しない方が、ゆったりできるんじゃないかという、それはもうかなり意識してやりましたね。

 でもそれは、市村さんだけがそう考えるんじゃなくて、この町の人みんながそう考えないと実現しませんよね?

市村 ええ、ですから、私一人で考えたというよりも、街並修景事業っていうのを、町も一当事者として、それから銀行であったり、個人であったり、小布施堂であったり、みんなで寄り集まって、景観の再構築をやっていたんですけど、その中で、みんなそういうことに気がついて、あまり、土地の所有権を自己主張するような構築物を作って行くのはやめよう、ということになった。で、そういうふうにやっていくと、だんだん町内にそのスタイルっていうのは伝播するんです。こういった小さいコミュニティーでは、なまじ法律とか条例でやるよりは、実体を作った方が実効性はあるんじゃないかとか、そういうことも話し合いましたね。
 ですから、曖昧性、誰の所有か分からない曖昧性、何のための土地か、目的の曖昧性、その曖昧性こそが快適さを生むんだろうという、あまり合目的に、あまり、これは誰それのもの、みたいなそういう主張はやめとこう、それは個人だけではなくて、公もやめておこう、そういう考え方が、修景事業を通して全体に広がって行ったんです。

 小布施の街はとても「いい感じ」です。景観が美しいのはもちろんですが、空気の感触や、その場の持つ、なにか、土地から発せられるエネルギーのようなものが、とても落着いて良いのです。
 みんなが自分の土地だという主張をやめ、全体が良くなることを目指して長いあいだ話し合いを重ねながら、等価交換を重ね、街並を創り上げて行く。この手法は「小布施方式」と呼ばれ、まちづくりの良い方法として注目されました。
 地域全体の認識の高さ、我田引水をしない良識、豊かな精神性、文化や歴史を大切に思う知性が重なって、この「いい感じ」がある。街を歩いているうちに、そう思えて来るのです。街は人が創ります。

 そもそも、昔から借景ということをやってきた日本の国民が、なぜ、あのような東京の街を作ってしまったのか。

市村 自分でお金を出したから、法律の許す限り何をやってもいいだろう、っていうのは、実は戦後の日本の特徴です。昔の日本は違っていた。欧米は戦前の日本と同じで、建物というのは社会的な責任があるので、金を出したやつが何をやってもいい、ということではなない。金は出せるけれども、あんまりセンスと見識がないというケースが一般的ですから。ですから、建築を頼む建築家以外に、それをクライアントの代わりに考える建築家も登場するわけですよね。むしろ、素養とセンスがないのに、お金を出した人間が直接口出しするというのは、社会的に許されない。戦前まではそういう作法があったと思うんですね、日本にも。
 ひとつは、法学者がいけなかったと思うんですね。日本は、あくまでも、実質的には慣習法の国、慣習法がかなり支配する社会であったのに、成文法すぎた。だから、法律で全て規定するんだと。逆にいえば、法律の範囲内なら何やってもいいんですね、みたいになっちゃった。これが決定的な間違いでした。法律になくても、そういう慣習的なものを守る必要があった。社会的には生きてる部分もあるわけですから。そのあたりは、法学者がもう一度考え直してほしいですね。
 明らかに日本の場合、山林、森、これは山であれ平地であれ、その所有者の権利というのは非常に制限された所有権だと思うんです。それに対して宅地とか、あるいは田畑、これについては、今の所有権とあんまり変わりない所有権が認められている、これは、非常に日本の社会が長い間に創り上げてきた慣習、社会が発明したことなんですね。
 ところが成文法主義ですと、法律が許せば、ということになっちゃったから、あっという間に、平地林が消えたんですよ。農地よりも先に。これなんかは本当に、せっかく日本が1945年まで守ってきた慣習法を破ってしまった、ということですね。
 今になって、森の大切さ、林の大切さが分かってきて、ようやく気運が盛り上がったのはいいんですけれど、でも今度はね、そういう、現在残ったみどりを持っている人たちは、戦前までの慣習に従って、なんとか守って来ているわけなのに、それに対する感謝の念というのは、ないでしょ?そもそも、山っていうのは、はなっから私有財産という概念はないでしょ?自分の庭木を、ガレージを造るためにって、平気で切り倒しながら、山の木を切ったら自然破壊だとかね、そんな風潮もあるんですけど、そういうことを主張する方々も、もう少し、過去の日本というのを勉強された方がいいと思うんです。

 田んぼや畑の、山林の、昔の日本の所有の仕方っていうのは、日本という国土も含めて、みんなで良くして行くために、うまくできた仕組みだった。小布施の町の雰囲気っていうのが、日本の山村社会が持っていた社会の精神性を思い起こさせます。田んぼは区切られているんだけど、その田んぼを貸し借りしながら、みんなで作って行く、共有林があって、みんなで共有しながらやって行くという。

 共有林はもちろんですが、それだけじゃなくて私有林でさえ、やっぱり、下草刈りは近隣の人がみんなでするとか、あるいはキノコも、特定の持ち主じゃなくて、周辺の人の共通の権利であるとか、非常に面白い権利意識だったわけですね。もっと言えば、その山林を所有してもいいけど、それは山林として利用するから所有が許される、みたいな考え方ですね。それを、他の目的でするんだったら、話は別だよ、そもそも所有者になる資格はないよ、みたいな考え方ですね。
 だいたい、おれの土地だとか、ああいうのって、引いて考えれば非常に馬鹿げた話だと思いませんか。象の背中に蚤がいて、蚤が「これは俺の象だ」って言ったら、みんな笑うだろう。地球、大地を相手に「これは俺の土地だ」っていうのは、それに等しいっていうか、それよりももっと滑稽かもしれない。大きさの比率から考えると。
 ですから、我々は新たなことを考えたというよりも、むしろ、超守旧派というか、保守主義というか、あるいは伝統的な考え方を、もう一度、現代向けに焼き直すとこうじゃないか?みたいなことをしてきたような気がしますね。

 土地もそうですし、いろいろなモノもそうですし、お金も言ってみれば共有物なのではないかと。たとえば、市村家というのは古くから商いをしてきて、裕福だったわけですよね?

市村 商いを盛んに行なっているというのと裕福っていうのは、ちょっと違うと思うんですね。裕福かどうか、というのはストックだと思うんです。ストックは大したことないですよ、どの時代も。

 つまり、「豊か」っていうことの中に、高井鴻山に代表されるような、自分のところに蓄財するということではない豊かさがあったと思うんですけど。

市村 それは、たぶん我々の一族だけではなくて、日本全国そうだろうと思います。わかりやすい例で言えば、天明の飢饉なんか一番典型ですけど、飢饉の後の復興事業的に、母屋を造るとか、庭園を造るとか、土蔵を造るとか、いわゆる普請を一斉にやるんですね。これなどは、自分の側にそれを造りたいと希望があっても、すぐには造らないで、飢饉が起きたときにそれをする。まずは炊き出しとか、そういう援助活動なんですけれど、その後は、復興事業というのは雇用創出ですよね。仕事をつくる。そういう意味合いが非常に強いと思います。そういうことで、江戸時代っていうのは、確かに蓄財はするんだけれども、一方で、そういう危機に際しては、それを放出して行く。これもまた大事なところで、それを日本の社会は、営々とやって来ているんですね。
 農作業そのものもそうなんですが、農作業には結構共同土木事業みたいなものも必要ですから、そうすると共同賦役みたいな、共同で事に当たらなきゃならないというのは必ずある。そうした場合に、ひとつの集落が共同体です。
 それから、労働じゃなくて、いざというときにお金が必要っていう場合もある。お金になると今度は、集落共同体というよりも、親類縁者、一族、こういうものにストックしておかないといけない。ストックする場所が本家と言われて、だいたい、一族のルーツに富を蓄積させる。事があったら、それが一族の、今でいうと共済活動というか、あるいは事業資金の場合もあるし、そういう仕組みだと思うんですね。
 ところが、明治になってから、社会的な金融機関も発達すれば、お金によって、かなりの労力が必要な事業を請け負うところとか、そういうところが出てきますから、地域共同体も少し必要性が薄くなるのと同時に、一族の共同体っていうのが、意味が薄れるんですね。不思議なことに、本当にそれが必要で機能しているときには無いんですが、機能が薄れて来て、形だけを強要すると、だいたい良くないことになって行く。
 ある面では、会社などの組織もそうだと思います。勃興期っていうのは、誰が誰よりも位が上だっていうのはあまり問題にしないんですよ。ところが成長が止まると、急に、必要もそんなに無くなっているのに、ピラミッド組織みたいなものに拘ってくるわけです。ですから、それは地域もそうだし、一族もそうだし、会社みたいな組織もそうで、その共同体が何を目指しているのか、常にわかっていた方がいいですよね。

 いま、いろいろなコミュニティーが、どうやって行ったらいいか解らなくなっているんですが、今お話しされていた一連の日本の歴史、古来の社会の在り方や文化っていうのは、全体が良くなって行く方向を目指したものだったと思うんですけれど。

 日本という社会は、マルクスだエンゲルスだなんて、たった200年前のことなんですが、日本の社会は2000年も前から、わりと結果平等主義なんですよね。それは非常に美しいことだと思うし、できれば世界にも広げたいくらいです。
 しかし、日本的な社会を過去何百年、何千年と繰り返すことのできた地域はむしろ少数だということがある。それからもうひとつ、20年前と見るか30年前と見るかは別として、日本だけで完結した社会としてやって行くことは、主として経済的な面から、もう難しくなっている。この中でどう考えるんだ?ということですね。
 それから、全体的に移動社会になって来ている。移動社会っていう意味は、旅行とか出張とか、そういうことでもそうですし、自分の稼ぎの場所をどこにするかということが選択自由ですし、結構動くという点でも、移動社会になっているんですね。で、伝統的な共同体の必要性みたいなものは、もっともっと、明治時代よりもまた数段階薄れて来ているわけですから、その中で、コミュニティーの必要性ってなん何だろうとか、もう一度、ある面では編成し直すということが必要だろうと思いますね。単純に、昔からこうなんだから、こうだ、というのは無理なんじゃないですかね。

 つまり、21世紀の今の状況に合わせた概念を、生み出さないといけないですね。

 とりわけ日本の場合は、高度経済成長期には企業が共同体、運命共同体の役割も負ってましたからね。企業に属してさえいれば、冠婚葬祭すべて、滞りなくやってくれるみたいな。企業というのは、ある面では、運命共同体よりも利益共同体であって、それを混同してはいけない。ましてリタイアしたら、余計そうだよと。そして、長寿社会になってきましたから、リタイアした後が長くなって来たんですよね。すると、企業そのものが、共同体としての意識が希薄になって来ているし、リタイアしたら、どこへ帰属すればいいんだ?というのが、重要なテーマになって来ているんですね。
 やっぱり、過去に学ぶということが大事じゃないでしょうかねえ。社会の命題っていうのは時代によって変わる。日本というのは一番早くに奴隷社会から脱却してるんですけど、世界では、つい最近までやってましたからね。ギリシアの国家だって奴隷を前提にしていたわけです。そういう意味では、本当の歴史を、その国の通史ということも大事なんですが、そのときの社会構造、社会の価値観みたいなものも含めて、そのおさらいから入って行かないと、「べきだ」論ではなかなか説得できないところがあるでしょうね。ある程度は帰納法的な方法は必要だろうと思うし、切り貼りになりますけど、実例はいくつもあると思うんですね、いろんな社会のいろんな過去に。

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自分の土俵をつくる

 今、僕らはこの日本にいて、日本の国土を利用しながら暮らして行くんですけど、この小布施の町の在り方、コミュニティーの在り方っていうのは、もっといろいろなところに応用できますか?

市村 個人も企業も、国も、同じだと思うのは、土俵というのは、普遍的な土俵もあれば、自分で造った土俵もある。自分で造った土俵というのを常に用意しておくのが、個人にとっても企業にとっても必要なんじゃないかなって思うんですね、国にとっても。で、言葉を変えれば、自分の土俵ってどういうことかっていうと、自分が家元になることですよ、端的に言っちゃえば。たとえば、大きな土俵、一般的に、こういう林檎がいい林檎、っていう大きな土俵がありますね。それとは別に、需要は少ないけど、大きい土俵とは違う尺度の土俵がある、という考え方もあると思うんです。たとえば、ものすごく酸っぱい林檎っていうのは、その利用法を自分で考えることによって、その土俵では横綱ひとりしかいなくて、大関も関脇もいませんよ、という土俵。孤独な土俵ではありますけどね、それでも土俵は土俵ですよ。あるいは、お客がひとりでもいれば、立派な土俵ですよ。
 非常にシニカルな言い方をすると、なんだかんだ言ってラーメンというものは、ものすごい勢いでこの10年、新型ラーメンが出て、旧型ラーメンもそれにあおられて、ある程度美味くなって来たんですね。こんなまずいラーメンよく存在するなっていうラーメンが、昔はまあまあ見かけたのが、今は無くなっちゃったんですね。するとね、まじめにまずいラーメンを開発して、まじめに「懐かしいまずいラーメン」て売りにしたら、結構一定の需要があると思うんですね。プラスのチャンピオンがあるならマイナスのチャンピオンがあってもいいわけですから。そうするとね、結構面白いもので、それを捉えて、参加者もいるだろうし、そうなってくるとまた、需要も増えて来るかもしれませんね。
 「ひとつの尺度でみんなが」っていうのは無理なんです。自分の尺度を作っちゃうのが、いいんじゃないですかね。それぞれが自分の特徴を活かした土俵を作って行けるとね、極端なことを言えば、町と町、村と村の境界をまたぐたびに、違う味わいがあるっていったら、それは楽しいと思いますね。

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※2009年4月に行なわれたインタビューから「地域のデザイン・プラクティス」ブランドのトータル・デザインに関する部分を抜粋しました。

信州イノベーション大賞特別賞を受賞

2月10日(水曜日)長野市で「第5回信州イノベーション大賞」の授賞式が行なわれ、オーディオバイオグラフィー「羅針盤」が「地域ビジョンソリューション賞」という特別賞を受賞しました。

「信州イノベーション大賞」というのは、信州大学の産学官連携推進本部が2005年から行なっている表彰制度で、地域の活性化につながるアイディア、技術や施策に対して贈られるものです。
昨年、2009年に長野県飯田市で行なったプログラム「フォーラム南信州」がきっかけとなって、飯田市立上村中学校の「霜月祭神楽舞継承活動」が「地域文化継承賞」という大賞を受賞したことで、イノベーション大賞の存在を知ってはいたのですが、今年自分たちが受賞することになるとは……。

当日、僕は現場があって授賞式には行けなかったのですが、共同制作者である駒村みどりさんが代表して授賞式に出席してくれました。

受賞に際して駒村さんが行なったスピーチがとても的確に「羅針盤」の意義を伝えてくれたようです。
彼女のブログにその草稿が記されているので、お時間のある方は是非一度ご覧になってください。

【コマちゃんのティールーム|本日のおすすめメニュー】

「羅針盤」についてはこれから改めて伝えて行きたいと思っていますが、けしてわかりやすいとは言えないこのプロジェクトに価値を見出してくださる方々がいるということには、とても勇気づけられます。

受賞へと導いてくださった皆様、本当にありがとうございました。
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プロフィール

宮内俊宏

Author:宮内俊宏
音楽・文化・アートを柱に、社会が、おもしろく、少し幸せになるような、いろいろなことを試みています。

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