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〜勝山ゆかこインタビュー [前編] 〜
【Ngene掲載:2007年3月1日】

テントギャラリー。
広場の片隅や、野原、林の中や近所の河原に、突然、白いテントが現れて、その中に、いろいろな造形表現が並んでいる。犬の散歩の途中で「なんだろう」って覗いてみる、アートのありかた。
勝山さんの表現活動には、それによってオーソライズされたいとか、成功したいというような意欲が見られません。誰もいないところで、独りで、ひっそりと、その活動を営んで、へたをしたら、そのまま何も起こらなくても良いと思っているかんじがするのです。
その表現の素になっているのは、いったい何だろう、どこから、その力が湧いて来て、どんなふうに、見る者に伝わって来るのだろう、そんな、表現の源泉を知りたくて、勝山さんを訪ねてみました。
〜勝山ゆかこインタビュー [前編] 〜
ーテントギャラリーは、どんなことから発想したんですか?
やっぱり、最初は形にこだわってて、普通のギャラリーを探したんです。けど、とっても高いんですね、借りるには。美術館も、あんまり、これだっていうかんじじゃなかった。美術館だと入場料が必要じゃないですか。観る人にお金を払ってもらうっていうこと自体が、もう自由ではないんじゃないかって。
フランスに行ったときのことなんですけど、ギャラリーはもちろん、もっと気軽に入れるような施設が、いっぱいあったんです。それで、日本でもなんとかできないかなって思った。何かを観に行こうって、身構えて立ち寄るところじゃなくて、散歩してたら偶然、そんなものが、いつもないところにあって、立ち寄ったら偶然そういうものが観れるっていうふうに、普通の景色の延長線上にしたかったんです。
ー例えば、商店街の人なんかと一緒に、街の中に作品を展示するとか、そういう方法もあると思うんですけど
たぶん「100%自分の城」が良かったんですね。誰とも関わりたくないというか、何か、隣のものに影響されたくなかったし、それは、やっぱり、制限とか出てくるものだし。自分の聖域を侵されたくないからなんですよね。100%自分でっていうのが理想だった。
ー他者の干渉を受けたくないっていうのは、もともと、勝山さんにはそういう性質がありますか?
そうですね、もともとそうですね。親でさえも、幼い頃には、そうでした。自分が絵を描くときは、家の中に誰もいて欲しくないんですね。で、みんなが出かけてる時には、絵が描けるんですよ。
ずうっと、自分を演じてたんです。人に、親に、自分はイイ子でいなきゃいけないっていう。なんか、自分でない自分でいたんですね。ほんとはネクラで、あんまり言葉も喋りたくなくて、人とも関わりたくなかったんですけど、親からは「明るい子で、明朗活発で」っていうふうに強要されてる気がして、それを演じなきゃいけないって感じてた。
ほんとのところは、ひとりが好きで、昆虫とかいじってる方が好き。わりと、節足動物が好きみたいですね。小さい頃は、生まれ変わったら節足動物になりたいと(笑)思ってました。なんか、人間の世界より、動物の世界にすごく憧れてました。人間の良さっていうのが、まったくわからなかったんですね。ほんとに、ここ最近、一年ぐらいですね(笑)、ひとの良さっていうのに気づいたのは。
ー一番最初に、自分の表現として絵を描いたのは、いくつぐらいのときですか?
小学校入ってすぐですね。スケッチブックと、あとは、普通の2Bとかの鉛筆1本で。
ーそのときは、別に絵を習ってたわけではないですよね?
そうです、習ってないです。絵は、まったく一度も習ったことないです、小学校で、普通の授業で絵を描いたりする以外は。絵を描いても、誉められたことがなかったんで、私は絵が下手なんだな、としか思ってなかったですね。
ー人と接するのが苦手で、絵をとにかく描いてて、でも、その絵も誉められたことなくて、という子供時代
そうですね(笑)。二面性があって、ほんとはネクラなのに明るい子を装ってた。けど、わりと、いじめられてることが多かったので、どんどんネクラになっていきましたね。小学校の頃は、まだ、普通に冷やかされたりするくらいだったんですけど、いじめられても泣かない子だったので、逆に、いじめられ続けちゃって。友達は、かろうじて一人か二人。高校までずっと、そんなかんじでした。クラスメイトの名前も言えないです、たぶん。誰がいたのかもわかんない。本とか、あんまり読むの好きじゃないんですけど、休み時間とか、やることないから、仕方なく本を読むフリをして時間つぶしたり。そういうことしてましたね。
ーで、ひとりになると絵を描いて。
そうですね、家に帰って。油絵はもう小学校の頃からやってたんで、それは、たまたま学校の授業で油絵を教えてくれる教科があったので、それがきっかけで、ずっと自分で続けてましたね。でも、家でやると、やっぱり絨毯が汚れたりするんで、親には反対されて(笑)。
ーとにかく、絵を描くことが好きだったんですね、絵を勉強しようと思ったことはないんですか?
そうですね、たぶん好きっていうより、絵を描いているときだけは自分でいられるっていう……。
けど、勉強しようと思ったことはないですね。やっぱり、上手いって言われたことがまずなかったんで。親も「汚すだけだからやめてくれ」っていうかんじだったから(笑)。作品が出来ても、やっぱ、あの、「いらないんなら捨てるけど……」って言う(笑)そういう親だったんで。なんかわりと、ドライな関係だったんで。うっかりしてると、ほんとに捨てられちゃうんですよ。
ー大きくなったら何になる、とか、進路の問題が出て来る時期がありますよね?そのあたりは、どうやって乗り切ってたんですか。
普通に、平凡に生きていられればいいかなって、平凡に生活できればいいって思ってましたね。何か特別な職に就きたいとか、偉くなりたいとか、まったく思ってなかったです。夢はなかった(笑)。田舎だったから、華やかな職種の人なんかも、まったく知らなかったし、たいがいは工場なんかに勤めて、普通にお母さんになって。
大学は、本当は行きたかったんです。ずっと高校までいじめられて、というか、友達があんまりよくできなかったから、大学に行けば、ちょっとこう、何か、変われると思ってたんですね、きっと。けど、まあ、親に反対されて。
ー高校まで、ずっとひとりぼっちで、大学は、行きたかったけど行かなくて
高校卒業して、すぐ就職しました。農協に入って3年間。わたしは、本所に行ってばりばり仕事したいと思っていたんですけど、支所に回されて、なかなか、その希望は聞き入れられなくて、他の人には、楽だからここにいた方がいいよって言われて、でも、自分の人生が終わっちゃうと思って、辞めたんです。それから、お金がいい方へとか、仕事に飽きちゃったりして、次から次へと、すぐに職を変えてましたね。途中からは、寮のある会社を選んで、家を出ました。
ーそのときも、ひとりでしたか?友達とか、仲の良い人とかは
いないですね。職場では、ほんとに友達とかまったくできなくて、逆に、敵が多かったですね。なんかわりと、やるからには真剣に本気でやりたいんで、他の人のちょっとした、そういう、楽だからっていうかんじが許せないんですよ。私は、けっこう、休みの日も仕事の関係のことをしてたり、まわりからは、それが理解できないって疎まれて、よくぶつかってましたね。
絵は、ずっと描いてました。職場が変わっても、画材だけは寮に持ち込んで、油絵、やってました。仕事に行く直前まで描いて、そのまま会社に行って、帰って来てまた描くっていう生活をしてました。けど、誰にもそんな話をしたことないし、誰も、それを知らない。
ー絵を売ろうとか、展覧会に出そうとか、そういうことは、なかったんですか?
なかったです。
誰かに言われたことがあって、「いい絵は、必ずいい出会いをする」って。だから、自分から言わなくても、自分がいい絵を描けたなら、きっと、その絵は、違う人といい出会いを、偶然どっかでするんだろうなあって、信じてたんです。だから、自分から公表する必要はないんだろうって思ってました。
ーずうっとひとりで絵を描き続けて、それは、いい絵が描けたら必ず何かあるっていう一点の希望だけで
そうですね(笑)。いじめられてるときも耐えられたのは、いじめられて耐えてるけども、絶対その分、何か、天が何かを与えてくれるはずだって、信じてたんですよ。人と同じにできなかった分、何か埋めてくれるんじゃないかっていう、期待があって。それで我慢できたんですね。いじめられてても、わたし一日も学校休んだことなくて、皆勤賞なんですよ(笑)。
§ § §
勝山さんは、静かで、にこやかな方です。けれど、よく聞いてみると、とても変わった感覚で生きて来ているようです。
勝山さんのように、何かひとつの、ほんの小さな信念に従って、ずっと生き続け、そして、生き続ける結果として、新しい創造物を生み続けている、そんな姿が、こんな世の中ではとても価値があると思います。時代の潮流に乗った美しいキャリアよりも、むしろ。
作品に対する評価とは別に、アーティストの動機や姿勢、そして、そこに創出されるエネルギーが、人を惹きつけることがあります。後編では、いよいよ、多角的に分岐して行ったアーティスト・勝山ゆかこの、表現の奔流に触れてみることになります。面白いですよー。
(インタビュー・構成:宮内俊宏)
|前編|後編|
=====

勝山ゆかこ
1975年長野県須坂市生まれ。長野市在住。
絵、オブジェ、インスタレーション、写真、イラストなど、手段・手法にとらわれず独自の切り口で創作活動を続けている。2006年から新たにハンドメイドの彫金ブランド百文[ momon ]を展開。
momon | Yukako Katsuyama
百文[ momon ]
Ricky

テントギャラリー。
広場の片隅や、野原、林の中や近所の河原に、突然、白いテントが現れて、その中に、いろいろな造形表現が並んでいる。犬の散歩の途中で「なんだろう」って覗いてみる、アートのありかた。
勝山さんの表現活動には、それによってオーソライズされたいとか、成功したいというような意欲が見られません。誰もいないところで、独りで、ひっそりと、その活動を営んで、へたをしたら、そのまま何も起こらなくても良いと思っているかんじがするのです。
その表現の素になっているのは、いったい何だろう、どこから、その力が湧いて来て、どんなふうに、見る者に伝わって来るのだろう、そんな、表現の源泉を知りたくて、勝山さんを訪ねてみました。
〜勝山ゆかこインタビュー [前編] 〜
ーテントギャラリーは、どんなことから発想したんですか?
やっぱり、最初は形にこだわってて、普通のギャラリーを探したんです。けど、とっても高いんですね、借りるには。美術館も、あんまり、これだっていうかんじじゃなかった。美術館だと入場料が必要じゃないですか。観る人にお金を払ってもらうっていうこと自体が、もう自由ではないんじゃないかって。
フランスに行ったときのことなんですけど、ギャラリーはもちろん、もっと気軽に入れるような施設が、いっぱいあったんです。それで、日本でもなんとかできないかなって思った。何かを観に行こうって、身構えて立ち寄るところじゃなくて、散歩してたら偶然、そんなものが、いつもないところにあって、立ち寄ったら偶然そういうものが観れるっていうふうに、普通の景色の延長線上にしたかったんです。
ー例えば、商店街の人なんかと一緒に、街の中に作品を展示するとか、そういう方法もあると思うんですけど
たぶん「100%自分の城」が良かったんですね。誰とも関わりたくないというか、何か、隣のものに影響されたくなかったし、それは、やっぱり、制限とか出てくるものだし。自分の聖域を侵されたくないからなんですよね。100%自分でっていうのが理想だった。
ー他者の干渉を受けたくないっていうのは、もともと、勝山さんにはそういう性質がありますか?
そうですね、もともとそうですね。親でさえも、幼い頃には、そうでした。自分が絵を描くときは、家の中に誰もいて欲しくないんですね。で、みんなが出かけてる時には、絵が描けるんですよ。
ずうっと、自分を演じてたんです。人に、親に、自分はイイ子でいなきゃいけないっていう。なんか、自分でない自分でいたんですね。ほんとはネクラで、あんまり言葉も喋りたくなくて、人とも関わりたくなかったんですけど、親からは「明るい子で、明朗活発で」っていうふうに強要されてる気がして、それを演じなきゃいけないって感じてた。
ほんとのところは、ひとりが好きで、昆虫とかいじってる方が好き。わりと、節足動物が好きみたいですね。小さい頃は、生まれ変わったら節足動物になりたいと(笑)思ってました。なんか、人間の世界より、動物の世界にすごく憧れてました。人間の良さっていうのが、まったくわからなかったんですね。ほんとに、ここ最近、一年ぐらいですね(笑)、ひとの良さっていうのに気づいたのは。
ー一番最初に、自分の表現として絵を描いたのは、いくつぐらいのときですか?
小学校入ってすぐですね。スケッチブックと、あとは、普通の2Bとかの鉛筆1本で。
ーそのときは、別に絵を習ってたわけではないですよね?
そうです、習ってないです。絵は、まったく一度も習ったことないです、小学校で、普通の授業で絵を描いたりする以外は。絵を描いても、誉められたことがなかったんで、私は絵が下手なんだな、としか思ってなかったですね。
ー人と接するのが苦手で、絵をとにかく描いてて、でも、その絵も誉められたことなくて、という子供時代
そうですね(笑)。二面性があって、ほんとはネクラなのに明るい子を装ってた。けど、わりと、いじめられてることが多かったので、どんどんネクラになっていきましたね。小学校の頃は、まだ、普通に冷やかされたりするくらいだったんですけど、いじめられても泣かない子だったので、逆に、いじめられ続けちゃって。友達は、かろうじて一人か二人。高校までずっと、そんなかんじでした。クラスメイトの名前も言えないです、たぶん。誰がいたのかもわかんない。本とか、あんまり読むの好きじゃないんですけど、休み時間とか、やることないから、仕方なく本を読むフリをして時間つぶしたり。そういうことしてましたね。
ーで、ひとりになると絵を描いて。
そうですね、家に帰って。油絵はもう小学校の頃からやってたんで、それは、たまたま学校の授業で油絵を教えてくれる教科があったので、それがきっかけで、ずっと自分で続けてましたね。でも、家でやると、やっぱり絨毯が汚れたりするんで、親には反対されて(笑)。
ーとにかく、絵を描くことが好きだったんですね、絵を勉強しようと思ったことはないんですか?
そうですね、たぶん好きっていうより、絵を描いているときだけは自分でいられるっていう……。
けど、勉強しようと思ったことはないですね。やっぱり、上手いって言われたことがまずなかったんで。親も「汚すだけだからやめてくれ」っていうかんじだったから(笑)。作品が出来ても、やっぱ、あの、「いらないんなら捨てるけど……」って言う(笑)そういう親だったんで。なんかわりと、ドライな関係だったんで。うっかりしてると、ほんとに捨てられちゃうんですよ。
ー大きくなったら何になる、とか、進路の問題が出て来る時期がありますよね?そのあたりは、どうやって乗り切ってたんですか。
普通に、平凡に生きていられればいいかなって、平凡に生活できればいいって思ってましたね。何か特別な職に就きたいとか、偉くなりたいとか、まったく思ってなかったです。夢はなかった(笑)。田舎だったから、華やかな職種の人なんかも、まったく知らなかったし、たいがいは工場なんかに勤めて、普通にお母さんになって。
大学は、本当は行きたかったんです。ずっと高校までいじめられて、というか、友達があんまりよくできなかったから、大学に行けば、ちょっとこう、何か、変われると思ってたんですね、きっと。けど、まあ、親に反対されて。
ー高校まで、ずっとひとりぼっちで、大学は、行きたかったけど行かなくて
高校卒業して、すぐ就職しました。農協に入って3年間。わたしは、本所に行ってばりばり仕事したいと思っていたんですけど、支所に回されて、なかなか、その希望は聞き入れられなくて、他の人には、楽だからここにいた方がいいよって言われて、でも、自分の人生が終わっちゃうと思って、辞めたんです。それから、お金がいい方へとか、仕事に飽きちゃったりして、次から次へと、すぐに職を変えてましたね。途中からは、寮のある会社を選んで、家を出ました。
ーそのときも、ひとりでしたか?友達とか、仲の良い人とかは
いないですね。職場では、ほんとに友達とかまったくできなくて、逆に、敵が多かったですね。なんかわりと、やるからには真剣に本気でやりたいんで、他の人のちょっとした、そういう、楽だからっていうかんじが許せないんですよ。私は、けっこう、休みの日も仕事の関係のことをしてたり、まわりからは、それが理解できないって疎まれて、よくぶつかってましたね。
絵は、ずっと描いてました。職場が変わっても、画材だけは寮に持ち込んで、油絵、やってました。仕事に行く直前まで描いて、そのまま会社に行って、帰って来てまた描くっていう生活をしてました。けど、誰にもそんな話をしたことないし、誰も、それを知らない。
ー絵を売ろうとか、展覧会に出そうとか、そういうことは、なかったんですか?
なかったです。
誰かに言われたことがあって、「いい絵は、必ずいい出会いをする」って。だから、自分から言わなくても、自分がいい絵を描けたなら、きっと、その絵は、違う人といい出会いを、偶然どっかでするんだろうなあって、信じてたんです。だから、自分から公表する必要はないんだろうって思ってました。
ーずうっとひとりで絵を描き続けて、それは、いい絵が描けたら必ず何かあるっていう一点の希望だけで
そうですね(笑)。いじめられてるときも耐えられたのは、いじめられて耐えてるけども、絶対その分、何か、天が何かを与えてくれるはずだって、信じてたんですよ。人と同じにできなかった分、何か埋めてくれるんじゃないかっていう、期待があって。それで我慢できたんですね。いじめられてても、わたし一日も学校休んだことなくて、皆勤賞なんですよ(笑)。
§ § §
勝山さんは、静かで、にこやかな方です。けれど、よく聞いてみると、とても変わった感覚で生きて来ているようです。
勝山さんのように、何かひとつの、ほんの小さな信念に従って、ずっと生き続け、そして、生き続ける結果として、新しい創造物を生み続けている、そんな姿が、こんな世の中ではとても価値があると思います。時代の潮流に乗った美しいキャリアよりも、むしろ。
作品に対する評価とは別に、アーティストの動機や姿勢、そして、そこに創出されるエネルギーが、人を惹きつけることがあります。後編では、いよいよ、多角的に分岐して行ったアーティスト・勝山ゆかこの、表現の奔流に触れてみることになります。面白いですよー。
(インタビュー・構成:宮内俊宏)
|前編|後編|
=====
勝山ゆかこ
1975年長野県須坂市生まれ。長野市在住。
絵、オブジェ、インスタレーション、写真、イラストなど、手段・手法にとらわれず独自の切り口で創作活動を続けている。2006年から新たにハンドメイドの彫金ブランド百文[ momon ]を展開。
momon | Yukako Katsuyama
百文[ momon ]
Ricky
〜勝山ゆかこインタビュー [後編] 〜
【Ngene掲載:2007年3月9日】

ー勝山さんの絵は何かを写生しようという絵ではないですよね
子供の頃は、そっくりに描かなきゃいけないって教えられて、それを真剣にやってましたね。だんだん変わってきたんです。すごく観察して、そっくりに描くことはできるんですけど、観察すればするほど、実際はそうじゃないんじゃないかって思い始めたんです。たとえば、花を描いてても、花びらの側面とその隣にある空間が繋がっているように感じてきたんです。その境目は、肉眼では確かに存るんだけど、それは、私という人間の視点であって、本当は境はないんじゃないかって、思ったんですよ。21くらいのときかな、境は必要ないって。それまでは、わりと写実的だった。
ーじゃあ、絵を描く、つまり平面上になんらかの形を取る根拠っていうのは、どのへんにあるんですか?何を、そこに描こうと思うんですか?
たとえば、雲とか、ずっと観察し続けて、雲の流れや形を全部忠実に描き写してくと、見えてくるものがあって。書道で言う「入って抜けて」なんですけど、そういう、美しい自然の流れっていうのは、ほとんど全部一緒なんですね。音楽も一緒。書道も一緒。美とされているものは一緒なんだって思ったんですね。
そうなると、絵を描くことや表現することが、自分にとっては哲学みたいになってきます。絵とは?っていうところから入って、こういう、自然界の物体とは?ということになってく。そういう自然の波動だったりとか、絶対的な元のものを表現したくなってきて、だんだん形はなくなってきました。
ーあのオブジェもそうですね?なんかこう、向き合って波動を出し合っているっていう。あの形をとってるけど、ひょっとして、人間もそういうふうに見えますか?
見えてますね。もう、そんなふうにしか、見えてなかったですね、以前は。嫌いだったんで、人間は。その、何かいい波動を出すんじゃなくて、いがみ合ってたりとか、そういう波動しか見えて来なかったんで。なんて言うんですか?セキュリティーの、こういう赤い光線、ああいうかんじだったんです(笑)。しがらみっていうか、どこを触っても、いやなことばっかりがあって。
ー仕事がお休みの日とか、何してました?
なんか、ずっと絵を描いたりしてましたね。
ーオブジェとか、ああいう作品も?
作ってましたね、絵を描くのと同じような感じで。部屋の中は、いつもガラクタだらけでしたね。会社の上司も、いらないものをくれるんです(笑)。シュレッダーで、業務用の紙とか出るじゃないですか。「持ってくか?」って言われて、「持ってきます」って、もらって来るんです。別に、何かやってるって知ってるわけじゃないんですけど、ちょっと変わったヤツだっていうのは、みんな知ってて(笑)、いらないゴミが出ると「持ってくか?」って。
ーベニヤ板に描いた絵があるじゃないですか。あれは、なんで板に描き始めたんですか?
最初は、単純に、キャンバスが高かったからなんです。キャンバスって、高くて完成されたものじゃないですか。あるときふと、この、商品として完成されたキャンバスを越えられる絵って、わたし描けるの?って思っちゃったんですよ。キャンバスはキャンバスのまま、もう完結した方がいいんじゃないかって。
で、ベニヤ板だったら、大きさも自分でノコギリで切れるし、いらなくなったら燃やせる。最初は、そんなところから入ったんですけど、実は、ベニヤ板に描いた方が照りもいいし、だんだんキャンバスに描くよりも好きになりました。
ーそこで、紙とか、いろいろ試すんじゃなくて、ベニヤ板に行ったのはなぜですか?
力強さかな。オイルも結構使うんで、耐久性とかも。布に直接描いてみたこともあったんですけど、うまくいかなくて。布って思った時に、すぐ部屋にあるもので、カーテンに描いてみたこともあるんですけど。
ー彫金をやろうと思ったのは、なぜですか?
いろいろな仕事をしながら、ずっと、作品を作ってきたわけなんですけど、どっちもなんか、仕事にしても、作品を作るにも、プロじゃないし、プロとして何かをやりたいって、思い始めたんです。プロっていうのはつまり、お金が発生するもので、お金になるもので、表現しながらできるものはなんだ、って考えた時に、たまたまそれが彫金だった。
ー仕事として成立させようっていうのが、最初からあったわけですね?
そうですね。でも、本当に最終的な目標は、発言権が欲しいんです。
少数派は、いつも取り上げてもらえなくて、みんなと同じ意見の方に絶対流れるんですよ。いつも、それを疑問に思ってて、自分のアイディアは、結構いいアイディアだと思ってるんだけど、誰も聞いてくれないって。だけど、いつか発言権を得られたら、それを言いたいって、言わせてくださいっていう、言う場が欲しいっていうか。何かの実績があれば、多少は、まったくはじいてた人も、多少は、耳を傾けてくれるかなって思って。
ー発言権ですか。それは、何か具体的なことを目指してのものなんですか?
最終的には、言い方はちょっと違うんですけど、ボランティアのようなことじゃないかと。なぜか常に、精神的に悩んでいる人とか、貧しい国にたまたま生まれちゃって、生活が出来ない子供たちを、なんとかしてあげたいっていう気持ちがあったんです。ボランティア活動をしたいっていうかんじとは、ちょっと違うんですけど。
一時期、親に相談したことがあるんですね。給料を全部寄付したらいいんじゃないかって言われて、それはできないって思った時に、自分の考えてることは偽善なんだろうかって、思ったんですけど、でも、やっぱり、そういうことじゃなくて。
今は、お客さんが結構来てくれて、会社でこういう悩みがあるんですっていう話まで、なぜか行ってしまって、私も、結構経験がある方なんで(笑)、そういう相談にのってることの方が、商売していることよりも、すごく嬉しくて。「あ、役に立てた」みたいな(笑)。
ー今の日本の社会って、勝山さんにはどんなふうに写ってるんですか?
なんか、やっぱり、お金持ち優遇の社会の延長に歪んでしまって、それが、子供達にも影響が来てて、歪みに歪みきってるって感じます。
私、小学校の頃から、日本はもう終わりだって思ってたんですよ。日本から脱出しなきゃって。日本を動かしている人達のやってることが、到底正しいことだと思えなくて、この人達が動かしているんだったら、もう日本は終わりだと思ってましたね。
で、社会人になりたての頃は、大人の社会はきっと大丈夫、日本のトップがああであっても、小さな社会を見れば、大人の人達はきっと大丈夫って、思ってたんです。けど、就職して知ったのは、子供よりひどい世界だったっていう。
もうどうしようもないなあと思って、24ぐらいのときに、わたしはもういいって、思ったんですよ。絶望しちゃったんですね。憧れてた大人の世界はないんだ、もっと歪んでるんだって、もう死にたいって。まあでも、ただ死ぬのもなんだからって、旅に出たんです。ニュージーランドに行って来たんですけど。
ーニュージーランド?どういう経緯でニュージーランド行ったんでしょうか?
なんで行ったんですかねえ……。別に、理由はなかったと思うんですけど、どこでも良かったんですけどね。衝動的で、もう、保険とか、一切みんな解約して、有り金ぜんぶ持って行ったんです。帰って来ようっていうつもりも、なかったですからね。2、3週間くらいいたのかな、ちゃんとしたホテルじゃなくって、だいたい、停まってる車に潜り込んだりとか、安いところで相部屋で寝たりとか、そう、公園の水道で頭を洗ったりしながら、転々と、一周、まわってきました。雄大な、壮大な大自然で、やっぱり、こっちの方がいいなって思いましたね。動物になった気分。
ーそこで何か、絵を描いたりとかは、してましたか?
描いてましたね。画材は、持って行きましたね。それで、やっぱり木の板が必要なんで、木工所を探して、探したけどなくて、お店の人に教えてもらって、訪ねて行って、木工所の人に「どんなのがいいんだ?」とか「こういう素材だけど大丈夫なのか?」「どのくらいの大きさに切るんだ?」とか、なんか、そういう、向こうの人達との会話の中で、やっと、「あ、人っていいな」って、思えたんですよ。
郵便局に行って、分からなくて困ってたら、なぜか、おばあちゃんが手伝ってくれたり、世話を焼いてくれるんですよ、みんな、言葉もわかんないのに。そこが、すごく良くって。木工所の人も、この板を3等分にしてくれって言ったら、ああいいよって、切ってくれたんですけど、手元に来たら、ぜんぜん3等分じゃないんですよ。ばらばら(笑)。3枚だけど、等分にはされてないんですよ。ああ、このくらいでいいんだなあって思って。この適当さでいいんだって思って。
ーニュージーランドで救われて、良かったですね。
ほんっとに良かったですよ(笑)。そこから、再出発ですね。
で、ニュージーランドの後に、フランスとグアムに行ったんです、ほとんど同時期に。まったく文化が違うじゃないですか、かたや、理屈っぽい文化を重んじるような、かたや、裸でチャモロダンスしてるような、全く異文化で。けど、実際に行ってみたら、あ、同じなんだって思ったんですよ。たまたまこっちはネクタイしてるけど、こっちは、たまたま裸なだけで、でも、一緒なんだなって思ったんですよ。そこに境界線みたいなものはやっぱりないんだって。
ーそれは、何でそう感じたんですか?
なんでですかねえ、なぜ思ったのかは、わからないんですけど、踊ってる人達の顔とか、まあ、踊ってるとこを見てたら、そう思ったんです。ただ脳天気に踊ってるわけじゃないんだっていうか。
フランスに憧れはあったんですけど、街の造りとか、街全体を、そこに住んでる人が、楽しんで、愛してるのであれば、理想のところだって思って行ったんです。けど実際は、もちろん、街はすごく良くできてるんですけど、すごく、貧富の差が激しくて、パン屋さんの前でパンをせびってる女の子とかいっぱいて、あ、楽しいばっかりじゃないんだなって、思ったんですよ。
だけど、自分は、お金を持ってる人にも持ってない人にも、みんなに平等でありたいから、理想は無料で、無料で何かを提供したいっていうのが理想なんですけど。お金がないからこの曲が聴けない、とか、お金がないから絵が見れないって、そうじゃないじゃないですか。
ーどんな世の中が理想で、どんな世の中になって欲しくて、自分は、何をしていたいですか?
自分は、貧乏でいたいですね。貧乏で、絵を描いたりして、物々交換をして、生活したいですね。困ってたら、お米作ってる人が「じゃあ、お米あげるよ」って、「じゃあ、その絵あげるよ」みたいなかんじの(笑)。
ほんとうの意味で助け合える世の中がいいと思います。だから、みんなが、もっと貧乏だったらいいなって思います。もっと野生に近い、でも、高等動物だから、絵も描けるし、字も書けるし、言葉も交わせる。
なんか、ちょっと、人間は、もうちょっとアタマ悪くても良かったんじゃないかなって。それか、もっと、突き抜けて本当に良ければ、戦争なんて起こす必要もないし、みんなが、もっと平和に生活できるように考えることが、いくらでもできるじゃないですか。必要なものって、そんなにないと思うんです、生きていくうえで。
§ § §
多岐にわたる表現の変遷を伺っているうちに、とても大きなアイディアの話になっていました。もしかしたら、理想という部類に入るアイディアではあるけれど、世の中のすべてが幸せであって欲しいという、本当に、みんなが持つべき気持ちです。自分だけが良ければいいのではなくて、自分が良くあるためには、全体も、みんなが良くなければ、世の中は歪んでしまう。
お話を伺った彼女のアトリエは、片隅に彫金のための作業台があったり、壁には作品が無造作に掛かってたり、漆黒のちびっこい愛犬が、控え目な愛くるしさで出迎えてくれたりします。一杯のお茶で、ずいぶん長居をしてしまいました。
(インタビュー・構成:宮内俊宏)
|前編|後編|
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勝山ゆかこ
1975年長野県須坂市生まれ。長野市在住。
絵、オブジェ、インスタレーション、写真、イラストなど、手段・手法にとらわれず独自の切り口で創作活動を続けている。2006年から新たにハンドメイドの彫金ブランド百文[ momon ]を展開。
momon | Yukako Katsuyama
百文[ momon ]
Ricky

ー勝山さんの絵は何かを写生しようという絵ではないですよね
子供の頃は、そっくりに描かなきゃいけないって教えられて、それを真剣にやってましたね。だんだん変わってきたんです。すごく観察して、そっくりに描くことはできるんですけど、観察すればするほど、実際はそうじゃないんじゃないかって思い始めたんです。たとえば、花を描いてても、花びらの側面とその隣にある空間が繋がっているように感じてきたんです。その境目は、肉眼では確かに存るんだけど、それは、私という人間の視点であって、本当は境はないんじゃないかって、思ったんですよ。21くらいのときかな、境は必要ないって。それまでは、わりと写実的だった。
ーじゃあ、絵を描く、つまり平面上になんらかの形を取る根拠っていうのは、どのへんにあるんですか?何を、そこに描こうと思うんですか?
たとえば、雲とか、ずっと観察し続けて、雲の流れや形を全部忠実に描き写してくと、見えてくるものがあって。書道で言う「入って抜けて」なんですけど、そういう、美しい自然の流れっていうのは、ほとんど全部一緒なんですね。音楽も一緒。書道も一緒。美とされているものは一緒なんだって思ったんですね。
そうなると、絵を描くことや表現することが、自分にとっては哲学みたいになってきます。絵とは?っていうところから入って、こういう、自然界の物体とは?ということになってく。そういう自然の波動だったりとか、絶対的な元のものを表現したくなってきて、だんだん形はなくなってきました。
ーあのオブジェもそうですね?なんかこう、向き合って波動を出し合っているっていう。あの形をとってるけど、ひょっとして、人間もそういうふうに見えますか?
見えてますね。もう、そんなふうにしか、見えてなかったですね、以前は。嫌いだったんで、人間は。その、何かいい波動を出すんじゃなくて、いがみ合ってたりとか、そういう波動しか見えて来なかったんで。なんて言うんですか?セキュリティーの、こういう赤い光線、ああいうかんじだったんです(笑)。しがらみっていうか、どこを触っても、いやなことばっかりがあって。
ー仕事がお休みの日とか、何してました?
なんか、ずっと絵を描いたりしてましたね。
ーオブジェとか、ああいう作品も?
作ってましたね、絵を描くのと同じような感じで。部屋の中は、いつもガラクタだらけでしたね。会社の上司も、いらないものをくれるんです(笑)。シュレッダーで、業務用の紙とか出るじゃないですか。「持ってくか?」って言われて、「持ってきます」って、もらって来るんです。別に、何かやってるって知ってるわけじゃないんですけど、ちょっと変わったヤツだっていうのは、みんな知ってて(笑)、いらないゴミが出ると「持ってくか?」って。
ーベニヤ板に描いた絵があるじゃないですか。あれは、なんで板に描き始めたんですか?
最初は、単純に、キャンバスが高かったからなんです。キャンバスって、高くて完成されたものじゃないですか。あるときふと、この、商品として完成されたキャンバスを越えられる絵って、わたし描けるの?って思っちゃったんですよ。キャンバスはキャンバスのまま、もう完結した方がいいんじゃないかって。
で、ベニヤ板だったら、大きさも自分でノコギリで切れるし、いらなくなったら燃やせる。最初は、そんなところから入ったんですけど、実は、ベニヤ板に描いた方が照りもいいし、だんだんキャンバスに描くよりも好きになりました。
ーそこで、紙とか、いろいろ試すんじゃなくて、ベニヤ板に行ったのはなぜですか?
力強さかな。オイルも結構使うんで、耐久性とかも。布に直接描いてみたこともあったんですけど、うまくいかなくて。布って思った時に、すぐ部屋にあるもので、カーテンに描いてみたこともあるんですけど。
ー彫金をやろうと思ったのは、なぜですか?
いろいろな仕事をしながら、ずっと、作品を作ってきたわけなんですけど、どっちもなんか、仕事にしても、作品を作るにも、プロじゃないし、プロとして何かをやりたいって、思い始めたんです。プロっていうのはつまり、お金が発生するもので、お金になるもので、表現しながらできるものはなんだ、って考えた時に、たまたまそれが彫金だった。
ー仕事として成立させようっていうのが、最初からあったわけですね?
そうですね。でも、本当に最終的な目標は、発言権が欲しいんです。
少数派は、いつも取り上げてもらえなくて、みんなと同じ意見の方に絶対流れるんですよ。いつも、それを疑問に思ってて、自分のアイディアは、結構いいアイディアだと思ってるんだけど、誰も聞いてくれないって。だけど、いつか発言権を得られたら、それを言いたいって、言わせてくださいっていう、言う場が欲しいっていうか。何かの実績があれば、多少は、まったくはじいてた人も、多少は、耳を傾けてくれるかなって思って。
ー発言権ですか。それは、何か具体的なことを目指してのものなんですか?
最終的には、言い方はちょっと違うんですけど、ボランティアのようなことじゃないかと。なぜか常に、精神的に悩んでいる人とか、貧しい国にたまたま生まれちゃって、生活が出来ない子供たちを、なんとかしてあげたいっていう気持ちがあったんです。ボランティア活動をしたいっていうかんじとは、ちょっと違うんですけど。
一時期、親に相談したことがあるんですね。給料を全部寄付したらいいんじゃないかって言われて、それはできないって思った時に、自分の考えてることは偽善なんだろうかって、思ったんですけど、でも、やっぱり、そういうことじゃなくて。
今は、お客さんが結構来てくれて、会社でこういう悩みがあるんですっていう話まで、なぜか行ってしまって、私も、結構経験がある方なんで(笑)、そういう相談にのってることの方が、商売していることよりも、すごく嬉しくて。「あ、役に立てた」みたいな(笑)。
ー今の日本の社会って、勝山さんにはどんなふうに写ってるんですか?
なんか、やっぱり、お金持ち優遇の社会の延長に歪んでしまって、それが、子供達にも影響が来てて、歪みに歪みきってるって感じます。
私、小学校の頃から、日本はもう終わりだって思ってたんですよ。日本から脱出しなきゃって。日本を動かしている人達のやってることが、到底正しいことだと思えなくて、この人達が動かしているんだったら、もう日本は終わりだと思ってましたね。
で、社会人になりたての頃は、大人の社会はきっと大丈夫、日本のトップがああであっても、小さな社会を見れば、大人の人達はきっと大丈夫って、思ってたんです。けど、就職して知ったのは、子供よりひどい世界だったっていう。
もうどうしようもないなあと思って、24ぐらいのときに、わたしはもういいって、思ったんですよ。絶望しちゃったんですね。憧れてた大人の世界はないんだ、もっと歪んでるんだって、もう死にたいって。まあでも、ただ死ぬのもなんだからって、旅に出たんです。ニュージーランドに行って来たんですけど。
ーニュージーランド?どういう経緯でニュージーランド行ったんでしょうか?
なんで行ったんですかねえ……。別に、理由はなかったと思うんですけど、どこでも良かったんですけどね。衝動的で、もう、保険とか、一切みんな解約して、有り金ぜんぶ持って行ったんです。帰って来ようっていうつもりも、なかったですからね。2、3週間くらいいたのかな、ちゃんとしたホテルじゃなくって、だいたい、停まってる車に潜り込んだりとか、安いところで相部屋で寝たりとか、そう、公園の水道で頭を洗ったりしながら、転々と、一周、まわってきました。雄大な、壮大な大自然で、やっぱり、こっちの方がいいなって思いましたね。動物になった気分。
ーそこで何か、絵を描いたりとかは、してましたか?
描いてましたね。画材は、持って行きましたね。それで、やっぱり木の板が必要なんで、木工所を探して、探したけどなくて、お店の人に教えてもらって、訪ねて行って、木工所の人に「どんなのがいいんだ?」とか「こういう素材だけど大丈夫なのか?」「どのくらいの大きさに切るんだ?」とか、なんか、そういう、向こうの人達との会話の中で、やっと、「あ、人っていいな」って、思えたんですよ。
郵便局に行って、分からなくて困ってたら、なぜか、おばあちゃんが手伝ってくれたり、世話を焼いてくれるんですよ、みんな、言葉もわかんないのに。そこが、すごく良くって。木工所の人も、この板を3等分にしてくれって言ったら、ああいいよって、切ってくれたんですけど、手元に来たら、ぜんぜん3等分じゃないんですよ。ばらばら(笑)。3枚だけど、等分にはされてないんですよ。ああ、このくらいでいいんだなあって思って。この適当さでいいんだって思って。
ーニュージーランドで救われて、良かったですね。
ほんっとに良かったですよ(笑)。そこから、再出発ですね。
で、ニュージーランドの後に、フランスとグアムに行ったんです、ほとんど同時期に。まったく文化が違うじゃないですか、かたや、理屈っぽい文化を重んじるような、かたや、裸でチャモロダンスしてるような、全く異文化で。けど、実際に行ってみたら、あ、同じなんだって思ったんですよ。たまたまこっちはネクタイしてるけど、こっちは、たまたま裸なだけで、でも、一緒なんだなって思ったんですよ。そこに境界線みたいなものはやっぱりないんだって。
ーそれは、何でそう感じたんですか?
なんでですかねえ、なぜ思ったのかは、わからないんですけど、踊ってる人達の顔とか、まあ、踊ってるとこを見てたら、そう思ったんです。ただ脳天気に踊ってるわけじゃないんだっていうか。
フランスに憧れはあったんですけど、街の造りとか、街全体を、そこに住んでる人が、楽しんで、愛してるのであれば、理想のところだって思って行ったんです。けど実際は、もちろん、街はすごく良くできてるんですけど、すごく、貧富の差が激しくて、パン屋さんの前でパンをせびってる女の子とかいっぱいて、あ、楽しいばっかりじゃないんだなって、思ったんですよ。
だけど、自分は、お金を持ってる人にも持ってない人にも、みんなに平等でありたいから、理想は無料で、無料で何かを提供したいっていうのが理想なんですけど。お金がないからこの曲が聴けない、とか、お金がないから絵が見れないって、そうじゃないじゃないですか。
ーどんな世の中が理想で、どんな世の中になって欲しくて、自分は、何をしていたいですか?
自分は、貧乏でいたいですね。貧乏で、絵を描いたりして、物々交換をして、生活したいですね。困ってたら、お米作ってる人が「じゃあ、お米あげるよ」って、「じゃあ、その絵あげるよ」みたいなかんじの(笑)。
ほんとうの意味で助け合える世の中がいいと思います。だから、みんなが、もっと貧乏だったらいいなって思います。もっと野生に近い、でも、高等動物だから、絵も描けるし、字も書けるし、言葉も交わせる。
なんか、ちょっと、人間は、もうちょっとアタマ悪くても良かったんじゃないかなって。それか、もっと、突き抜けて本当に良ければ、戦争なんて起こす必要もないし、みんなが、もっと平和に生活できるように考えることが、いくらでもできるじゃないですか。必要なものって、そんなにないと思うんです、生きていくうえで。
§ § §
多岐にわたる表現の変遷を伺っているうちに、とても大きなアイディアの話になっていました。もしかしたら、理想という部類に入るアイディアではあるけれど、世の中のすべてが幸せであって欲しいという、本当に、みんなが持つべき気持ちです。自分だけが良ければいいのではなくて、自分が良くあるためには、全体も、みんなが良くなければ、世の中は歪んでしまう。
お話を伺った彼女のアトリエは、片隅に彫金のための作業台があったり、壁には作品が無造作に掛かってたり、漆黒のちびっこい愛犬が、控え目な愛くるしさで出迎えてくれたりします。一杯のお茶で、ずいぶん長居をしてしまいました。
(インタビュー・構成:宮内俊宏)
|前編|後編|
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勝山ゆかこ
1975年長野県須坂市生まれ。長野市在住。
絵、オブジェ、インスタレーション、写真、イラストなど、手段・手法にとらわれず独自の切り口で創作活動を続けている。2006年から新たにハンドメイドの彫金ブランド百文[ momon ]を展開。
momon | Yukako Katsuyama
百文[ momon ]
Ricky
大鹿歌舞伎・片桐登インタビュー(上)
【Ngene掲載:2008年12月30日】

片桐登さん。芸域の高い浄瑠璃弾語りで鍛え上げられたその語りは絶品。普段の話も、とても面白いおじいちゃんです。1928年、昭和3年3月の生まれ。大鹿歌舞伎保存会常務理事、全国地芝居連絡協議会会長。いわば、日本古来、固有の文化・地芝居の第一人者です。人々の大切ないとなみである文化を次々と壊死させてきた戦後の日本の社会で、その本質を認識し、守り、誇り高い文化として大鹿歌舞伎を発展させて来た、当代を代表する師匠の話は、面白いだけではない、意義の深さ、大切さを感じます。
2008年春、今年、片桐さんは師匠の立場を後進に託しました。5月に大磧神社で行なわれた春の定期公演で、片桐さんの後継者、大鹿村教育委員会に勤める北村尚幸さんの、太夫襲名披露があったのです。その年の暮れ、半世紀に渡って担って来た肩の荷を下ろして、少しほっとした様子の片桐さんのお話を伺おうと、大鹿村鹿塩の山の上にある片桐さんのご自宅を訪ねました。N-gene、久しぶりのインタビューです。
※大鹿歌舞伎についてはこちらをご覧下さい。「大鹿歌舞伎・薫風新緑の野外劇」
地芝居の発祥は江戸時代、元禄の頃といわれます。今から300年以上も前のことです。江戸では初代市川団十郎、上方では、近松門左衛門、坂田藤十郎、竹本義太夫が、それぞれの芝居を完成させて好評を博していた頃のこと。つまり、全国各地に散在する地芝居は、都の大歌舞伎にも劣らない、長い歴史をもつ芸能なのです。地芝居というのは、江戸と上方の間を往来した座や旅芸人に触発されて、各地で勃興したもので、特に、愛知県、岐阜県、静岡県、長野県の、農村、山村、漁村に、多く存在します。その多くが、人形浄瑠璃と歌舞伎。
大鹿村は、芸能の道・秋葉街道の途上にあります。険しい山岳によって、江戸幕府の禁令、倹約令から守られながら、非常に芸域の高い歌舞伎が伝えられて来ました。村人は、難儀な農作業や山仕事の間にも芝居を想い、修練を重ね、禁を犯して、神社の祭礼に芝居を奉納し、300年の永きに渡って、神事であり娯楽であるこの行事を続けて来たのです。
片桐さんのお話からは、昭和前期から現在までの、大鹿村や南信地方の日々の様子が、いきいきと伝わって来ます。まだ、あちこちに日本古来の文化が残っていた美しい時代に始まり、強力に流布された市場経済が、生活や産業を圧迫して極端な過疎化を招き、自分たちの流儀の継承について考えなければならなくなった現代まで至る、歴史の裏を辿る話でもあります。
§ § §
この日の朝、健康診断の再検査を受けに、診療所に行って来たという片桐さん。今年の春の定期公演後に体調を崩し、目が見えにくくなるなどの症状に悩まされたそうです。今ではもう、不具合はなくなっているとのことですが、あちこちの病院で診察を受け、原因不明。最終的に、過労が原因と考えられ、休養を厳命されたそうです。
ー大鹿歌舞伎は、村の外での公演や海外公演なんかも多いですが、片桐さんの普段のお仕事、農業は毎日の仕事ですよね?大変だったんじゃないですか?
大鹿の歌舞伎は、あれなんです、もう毎年、毎月のように、去年だっていろいろ、今年に入ってもいろいろ、ずっと続いとるわけなんです。休むときがないです。企画をして、外題を教えて行くにはどうしたらいいのか、どんなふうにしたら、どうなるのか、みんな全部ひとりでやってきたもんで、結果的に、歌舞伎を休む時はない。うちなんかもう、家内もあんまり若かないし、畑はいっくらでもあるんだけど、草だらけになって。とにかく、野菜だけは作っとるけれども、できるだけやってかにゃあならんもんでね、荒らしとくわけにはいかんし。
ーですよねぇ、畑の作物は休んでられない……。
そのうえに、老人クラブのこともあり、神社の関係のこともあり、もとの歌舞伎のこともあって、そんなようなことっきりで、長いあいだ引き回されちゃって。
ー神社の関係っていうのは、どういうことですか?
神社は、ここ(大鹿村)に、いま八つあるんですけど、各神社に総代っちゅう者がついとって。たとえば、大河原の上蔵(わぞ)っていうところにあります信濃宮なんていうのは、宗良親王っていう皇族を祀っとるんで、奉賛会(神社を崇敬する全国組織)に、大鹿だけじゃなくて、全国的なレベルで、寄付をしてもらったり、中学の生徒がみんな来て、勤労奉仕で、敷地の手入れや、素人でもできることをやってくれたんです。
そういうことでできた神社だもんだから、いわゆる村全体の神社なんです。で、そういう神社なので、総代が14人ばかおるんです、私を筆頭に。他んところはだいたい、5、6人なんです。それだって、へえ、40人だか、50人になっちまうもんで。その会長をやってるもんで、信濃宮をやりながら、全神社の責任者ということなんです。そんな中で、いろいろの神事を行なう場合には、宮司を頼んで来てやるもんで。
ー頼んで来るっていうのは、外からですか?
松川からです。大鹿の宮司は、おととし、きのこ採りに行って、クマに掻かれて亡くなっちゃったんです。大鹿でたった一人の宮司が。ここから奥に10分以上車で入ってった所の家の人だったんだけど。
それもまた、まことにまずいことになん。
……奥様が、旅行に行ったんな。それでその、松川のインターに迎えに行く途中に、ちょっと早く行って、こっから行くと、トンネルがいくつもあるところに、川向こうへ渡る赤い橋があるんだけど、あそこから西の峯へ上がってった所に、えらいたくさん松茸出るっていうとこがあって、早く出てって、松茸採りに行って、そこにクマが出て、やられちゃったんですよ。そのまま、奥様、いくら待っとったって来ない。で、どういうわけだっていうことで連絡が来て、いや、うちは出てったっちゅうことで、それからいろいろ捜索して、明くる日から消防が出て、大騒ぎして探した。ぜんぜん見つからなんで、今度は、山岳救助隊が出てって、岩場のようなところへ行ったら、見つけて。
こういうふうに、後ろから抱かれて、こう、右の目を抉られちゃった。まあ、それだけで亡くなったんだから、随分痛かったと思うんですなあ。どっか急所をやられりゃあ、これは、わりあい楽に逝けるだろうけど、こんなとこを掻かれたことにゃ、これ、早く手当てできりゃあ生きとったってことですので、出血多量で、きっと、亡くなったんだと。さぞ痛かったことだろうと。
だから結局、今は松川町から頼んで来てもらっとるんです。
ーその宮司さんを継ぐ人はいなかったんですか?
それがいなかった。……息子さんが継いでくれることが一番いいということで、その話をして、幾度か講習会に行っとるんだけど、今は、なかなかくれないんです。相当の金をかけないと。
ー大鹿歌舞伎は神社との結びつきが大きいわけですよね。
そう。それで、わしがいま総代を、今年で39年、来年でちょうど40年。そんなにやっとる人は、ひとりもいないんで(笑)。なんでやめれんかっていうのは、歌舞伎が繋がってるもんで。歌舞伎は、大鹿の民俗芸能は、いわゆる、地域の人たちの信仰によって生まれたものであるので。信仰っていって、えらいその、恐ろしい布教をしとるとか、なんとかいうことじゃなくって、地域の拠りどころとして。
昔は、貧しいもんだから、貧しい生活の中で、お互いに手を取り合って、お互いに協力し合って生きていこうとする、ひとつの拠りどころを鎮守の森へ求めて、それぞれの神を信仰して来た。それで、それに寄り合って、苦しい中にもまた楽しみを得るために、民俗芸能というものを育ててきておるわけで。
この鍵を捨てたら、もう劇団のようなものになるで、これはもう、絶対に潰れてしまうと考えましたんで、いっくらえらくてもなんでも、神社のこともやってかなければ意義をなさん。歌舞伎っきりやってったってだめだ、というのが、わしの考え方なんで。民俗芸能の基本原則はそこだと思う、と、わしもそう思っとるんですね、間違っとらんと思うんです。

§ § §
元来、芸能とか芸術の起源は神事にあるといわれます。大鹿歌舞伎の魅力、古くから地域にある芸能の魅力は、その起源、発生源に近い、ということがいえると思います。日々の生活の中から、祈りとともに生まれた民俗芸能の、根本動機を重視して来た片桐さんは、歌舞伎保存会だけではなく、中学生の指導も、長年積極的に続けて来ています。最近、その大鹿中学校から、片桐さんに感謝状が渡されました。インタビューの2日前、全校生徒、教育委員会、PTA、みなさん総出で中学校の音楽棟へ集まって、贈呈式が行なわれたそうです。
「えらい大掛かりで新聞に出ました(笑)」と、新聞記事を見せてくれた片桐さん。塩湯荘(鹿塩温泉の旅館)へ呼ばれて一杯いただき、家まで送ってもらって帰って来たそうです。片桐さんはお酒が大好きです。
ー中学校での指導を33年間やってらしたんですね。
そういうことなんです。昭和50年からであります。
ーそれ以前というのは、学校では、やってなかったんですか?
中学ではね。学校へそんな歌舞伎を持ち込むなんていうのはね、やってなかった。
どうしたって子役は必要なんで、いつやるにしても。子役は必要だけれども、その時には、親に、再三あたまを下げて、頼んで出てもらってたわけで。学校の先生がやれなんとは言わない。そんなどこじゃあないんで。民俗芸能なんていうものは、そんなに価値のあるものだとは、先生は思っとらない。お祭り騒ぎの道具だと思っとったもんで。まだ、わしが教育長になる5年前なんだけど、これはなんとしても、学校と一緒にやらにゃあと。
しばらく後になってから「学社連携」とか、学校だけの教育じゃない、地域の人たちが、もっと学校との緊密な連携を持って、お互いに支えあって、先生だけに任しとくのはだめだって言い出したのは、もっと、しばらく後だったんです。わしの考えは、それだから、絶対に間違っとらなんだと思って、今、自負しとるんです(笑)。
(昭和)50年というのは、いい成績を修めて高校へ合格しなけりゃあ、校長はここから出ても行かれん、ていう時期で、ときには、ひとりしか合格しなかった年があって、そんな校長は、下の下に見られちまうわけで、県の教育委員会から見ればねえ。
……みんな落っこちちゃったことがあったんですよ。みんなが実力以上のところを狙っちゃって。今の村長が教育長のときのことですよ。今の村長が、わしの後に教育長になったんです。もう重大問題(笑)。
……協力し合ってやっていくんだって、今は、みんなが認識してくれていると思いますが。
ー片桐さんが、歌舞伎に関わり始めたのは、いくつくらいのときですか?
17です。
ーじゃあ、いまでいうと、高校生くらいですね?そのころは、だいたいみんな、そのくらいの年齢になると、歌舞伎を始めてたんですか?
もう、ほとんどそうですなん。小学校を出たら、昔は、中学高校はなかったから、小学校を卒業すると、そういう道に入る。まあ、中には、子役は、もっと小さい子供がやることはありましたけれども。
……わしは、体が、今も小さいけども、ほんと小さかったもんだから、学校、義務教育を抜けても、まだだいぶ子役に使われた(笑)。
ーえ、子役やってたんですか?
いや、それが、学校卒業する前には、やってなかったんです。わしは、お袋が、わしと弟とあって、三人目の子供の出産でやりそこなって、お袋が死んじゃったので。わしが、今の満でいう、四つ、弟が二つのとき。で、おばあさんがぴんぴんしとってくれたもんで、おばあさんに育てられたんです。だから、小さいときに、歌舞伎をやるなんちゅう気持ちは、何もなかった。
ー17のときに、何がきっかけで歌舞伎を始めたんですか?
まあ、興味を持ったっちゅうのは、小学校5年のときに手を痛めてね。手をおしょったんです。左手のここのところを。
なぜ、おしょったかっていうとね、今は、そんな大きな「はざ」は作らないけど、昔は、稲はざを、畑が遠いもんだから、ここらの衆はみんな、もう、刈ると同時に、うちへ持って来てしまうんです。それで、うちの住まいにはざを、何段も何段も高いはざを結って、火の見やぐらを広くしたようなのが、そういうのが、どこのうちにもあったんです、このあたりは。
その一番上のところに登って、わりあいに、そういう高いところが、わしは好きだったもんで(笑)、一番上に腰をかけておったら、一緒に登っとった、この上隣りのうちの大将が、福島っちゅうあにいが横におって、ぽおんと跳んだんです。ぐいっと踏んで跳んだもんだから、その、昔は縄でしばってなくて、藤蔓でしばってあったんですよ。その藤蔓が切れてね、この横木が、ずるっと下がったんです。そのときに、こんな呑気な顔をして座っとったもんで、ごろんと行って、手をついて、下が硬いんで、折れたんですよ。
それから、まだそんな時分は、飯田へ行く道には何んにも車が通ってないもんで、おやじの背中にしょってってもらって、松川までは電車が来とったと、松川までおぶってってもらって、松川から電車に乗って、飯田まで行って。
……で、2週間までおったか、2週間弱、久田(ひさた)っていう接骨医に、今も覚えてますわ、駅のじき下にある、そこへ、おやじとふたりで2週間、旅館に泊まって通っておったんです。
ところが、さすがに芸能の街といわれる飯田だもんで、毎日どっかで歌舞伎が掛かっていて、本職の歌舞伎が。それだから、毎日、こうやって腕を吊ったっきりで、あんまり痛くもないもんで、毎日行っちゃあ、見る。ただこうやっとるだけで、何んにもできんもんで。おやじも飯田へ行っとったって、何んにもやるわけじゃあねえもんで。
……その頃は、酒があんまりない頃で、配給の頃で、おやじが、並んじゃあ酒を買っとるとこを見た覚えがある。
ー昭和?何年くらいの話ですか?
わしが小学校5年、昭和13年です。そのときも、何か、不況みたいなことがあったと思うんです。
ー第一次世界大戦後の、最初の世界恐慌の頃ですね。
……配給っていうか、お酒が少なくて、並んで買っとるんな。
そんな頃、わしは、歌舞伎なんていったって、まだ小学校5年だな、何の興味も、あんまりないし、他へ行ってみるっちゅう気持ちもなかったし、おやじの後ついちゃあ、歌舞伎を観に行っとるうちに興味を持ち出したことは事実だと思いますが、それだからといって、あと、手が良くなってからすぐ歌舞伎をやり始めたわけではないんですが。
ここから車で2、3分行ったところに、葦原っていうお宮がありますけれども、うちは、そこが氏子だもんだから、ここが中峰で、そっちの奥に梨原、沢井、入沢井と、いま四つ(の集落)が氏子ですけども。……まだそのころは、こっちの反対の方の、北入の一、二、北川の一、二、という、八つの集落がひとつになっとったんですよ。それが、北入と北川の衆が、どうして分かれたか知らんけど、あるときに向こうへ分社しちゃって、今は四つなんですが。
その葦原神社に「お祭り青年」があって、学校を卒業してから、今度は、ここにいて百姓やっとれば、もう、否が応でもそれに入らなけりゃあ人間じゃないっちゅうような(笑)、ボイコットされちゃうから、何でもかんでも、その歌舞伎に入って。
やってるうちに、何か、上手いじゃねえかっちゅうような評判が立ち出したもんで。「おみゃあの、やってみろ、うまいぞ」ちゅうようなことを、そこらから言われるようになって、本気になって、上手いか下手かわからんが、いくらか手を叩かれ出したもんだから、一生懸命勉強しようと思って、始めたんですよ。
ーそれは、役者としてということですね。そのころから、大鹿歌舞伎は太夫の弾語りだったんですか?
そうでした。いわゆる、お師匠といわれる人が4人おって、その頃は。そのうちふたりは、わしのうちから出た人の子がやっとったんですよ。それでまあ、あんまり気兼ねがなかったっていうことで、教えてくれる方も自由に教えてくれとったんです。
ーその頃は、大鹿では、年中歌舞伎が行なわれてたんですか?
年中。
年2回、それぞれの神社で歌舞伎をやってました。なんですが、昭和32年くらいから、どこの神社でも、順に順に、できないようになってきたもんだから、村全体でやらなけりゃあだめだっていうことで、好きな者が集まって、歌舞伎愛好会を作ったんです。そうしておったら、村でも、なんとしてもやらにゃあ、これはどうにもならん、潰れちまうっていう、どっかから「これは大事なもんだ」ということが、いくらか行政の方にも聞こえて来るようになってきて、それじゃあ、村でも考えましょうっていうことになって、昭和33年に、歌舞伎保存会というのができたんです。
それまでは、各神社ごとに、てんでにやっとったんです。その頃は、上青木っていうとこに諏訪社っていうの(「引ノ田諏訪神社」)があって、大河原の一番奥の釜沢っていうところに「三正坊神社」ちゅうのがあって、それから、信濃宮のある上蔵っちゅうところに「野々宮神社」ちゅうのがあって、それから、いつも(春の定期公演を)やる「大磧神社」、それから、もうちょっと下ってって、今の交流センターの、もうちょっと奥へ入ったとこに「松平神社」ちゅうのがあった。それから、ここの、ダムの埋没地になってしまったけども、桶谷っていうところに「白沢神社」だったかな。川向こうにあった神社。それから、鹿塩の、秋(の定期公演)やる「市場神社」、それからさっき話した、そこの奥にある「葦原神社」と分社してったところの北入の「北入神社」と、九つの神社でした。
§ § §
江戸時代、歌舞伎が入って来た大鹿では、芝居熱が一気に高まって、村内のあちこちに舞台が建設されました。太夫座や花道、回り舞台や奈落のある、本格的な舞台です。歌舞伎の舞台というと江戸幕府の禁令に抵触するので、神社の付帯設備として、「直会殿(なおらいでん)」として建設されて行ったそうです。江戸時代から明治年間にかけて建設された舞台は、村内全域、十三カ所の神社にありました。その神社が、片桐さんが中心になり始めた昭和中期には九カ所。その後、過疎化とともに、どんどん減って行ってしまうわけです。ここから、片桐さんの、大鹿歌舞伎を守る闘いが始まります。日本古来の文化を不要物あるいは障害物とするグローバリズムとの闘いだったのかもしれません。
そんな大変な物語を、片桐さんは豊かな語り口で語ってくれます。面白いです。
後半(下)へ続きます。

【Ngene掲載:2008年12月30日】 文:宮内俊宏、写真:駒村みどり
|(上)|(下)|

片桐登さん。芸域の高い浄瑠璃弾語りで鍛え上げられたその語りは絶品。普段の話も、とても面白いおじいちゃんです。1928年、昭和3年3月の生まれ。大鹿歌舞伎保存会常務理事、全国地芝居連絡協議会会長。いわば、日本古来、固有の文化・地芝居の第一人者です。人々の大切ないとなみである文化を次々と壊死させてきた戦後の日本の社会で、その本質を認識し、守り、誇り高い文化として大鹿歌舞伎を発展させて来た、当代を代表する師匠の話は、面白いだけではない、意義の深さ、大切さを感じます。
2008年春、今年、片桐さんは師匠の立場を後進に託しました。5月に大磧神社で行なわれた春の定期公演で、片桐さんの後継者、大鹿村教育委員会に勤める北村尚幸さんの、太夫襲名披露があったのです。その年の暮れ、半世紀に渡って担って来た肩の荷を下ろして、少しほっとした様子の片桐さんのお話を伺おうと、大鹿村鹿塩の山の上にある片桐さんのご自宅を訪ねました。N-gene、久しぶりのインタビューです。
※大鹿歌舞伎についてはこちらをご覧下さい。「大鹿歌舞伎・薫風新緑の野外劇」
地芝居の発祥は江戸時代、元禄の頃といわれます。今から300年以上も前のことです。江戸では初代市川団十郎、上方では、近松門左衛門、坂田藤十郎、竹本義太夫が、それぞれの芝居を完成させて好評を博していた頃のこと。つまり、全国各地に散在する地芝居は、都の大歌舞伎にも劣らない、長い歴史をもつ芸能なのです。地芝居というのは、江戸と上方の間を往来した座や旅芸人に触発されて、各地で勃興したもので、特に、愛知県、岐阜県、静岡県、長野県の、農村、山村、漁村に、多く存在します。その多くが、人形浄瑠璃と歌舞伎。
大鹿村は、芸能の道・秋葉街道の途上にあります。険しい山岳によって、江戸幕府の禁令、倹約令から守られながら、非常に芸域の高い歌舞伎が伝えられて来ました。村人は、難儀な農作業や山仕事の間にも芝居を想い、修練を重ね、禁を犯して、神社の祭礼に芝居を奉納し、300年の永きに渡って、神事であり娯楽であるこの行事を続けて来たのです。
片桐さんのお話からは、昭和前期から現在までの、大鹿村や南信地方の日々の様子が、いきいきと伝わって来ます。まだ、あちこちに日本古来の文化が残っていた美しい時代に始まり、強力に流布された市場経済が、生活や産業を圧迫して極端な過疎化を招き、自分たちの流儀の継承について考えなければならなくなった現代まで至る、歴史の裏を辿る話でもあります。
§ § §
この日の朝、健康診断の再検査を受けに、診療所に行って来たという片桐さん。今年の春の定期公演後に体調を崩し、目が見えにくくなるなどの症状に悩まされたそうです。今ではもう、不具合はなくなっているとのことですが、あちこちの病院で診察を受け、原因不明。最終的に、過労が原因と考えられ、休養を厳命されたそうです。
ー大鹿歌舞伎は、村の外での公演や海外公演なんかも多いですが、片桐さんの普段のお仕事、農業は毎日の仕事ですよね?大変だったんじゃないですか?
大鹿の歌舞伎は、あれなんです、もう毎年、毎月のように、去年だっていろいろ、今年に入ってもいろいろ、ずっと続いとるわけなんです。休むときがないです。企画をして、外題を教えて行くにはどうしたらいいのか、どんなふうにしたら、どうなるのか、みんな全部ひとりでやってきたもんで、結果的に、歌舞伎を休む時はない。うちなんかもう、家内もあんまり若かないし、畑はいっくらでもあるんだけど、草だらけになって。とにかく、野菜だけは作っとるけれども、できるだけやってかにゃあならんもんでね、荒らしとくわけにはいかんし。
ーですよねぇ、畑の作物は休んでられない……。
そのうえに、老人クラブのこともあり、神社の関係のこともあり、もとの歌舞伎のこともあって、そんなようなことっきりで、長いあいだ引き回されちゃって。
ー神社の関係っていうのは、どういうことですか?
神社は、ここ(大鹿村)に、いま八つあるんですけど、各神社に総代っちゅう者がついとって。たとえば、大河原の上蔵(わぞ)っていうところにあります信濃宮なんていうのは、宗良親王っていう皇族を祀っとるんで、奉賛会(神社を崇敬する全国組織)に、大鹿だけじゃなくて、全国的なレベルで、寄付をしてもらったり、中学の生徒がみんな来て、勤労奉仕で、敷地の手入れや、素人でもできることをやってくれたんです。
そういうことでできた神社だもんだから、いわゆる村全体の神社なんです。で、そういう神社なので、総代が14人ばかおるんです、私を筆頭に。他んところはだいたい、5、6人なんです。それだって、へえ、40人だか、50人になっちまうもんで。その会長をやってるもんで、信濃宮をやりながら、全神社の責任者ということなんです。そんな中で、いろいろの神事を行なう場合には、宮司を頼んで来てやるもんで。
ー頼んで来るっていうのは、外からですか?
松川からです。大鹿の宮司は、おととし、きのこ採りに行って、クマに掻かれて亡くなっちゃったんです。大鹿でたった一人の宮司が。ここから奥に10分以上車で入ってった所の家の人だったんだけど。
それもまた、まことにまずいことになん。
……奥様が、旅行に行ったんな。それでその、松川のインターに迎えに行く途中に、ちょっと早く行って、こっから行くと、トンネルがいくつもあるところに、川向こうへ渡る赤い橋があるんだけど、あそこから西の峯へ上がってった所に、えらいたくさん松茸出るっていうとこがあって、早く出てって、松茸採りに行って、そこにクマが出て、やられちゃったんですよ。そのまま、奥様、いくら待っとったって来ない。で、どういうわけだっていうことで連絡が来て、いや、うちは出てったっちゅうことで、それからいろいろ捜索して、明くる日から消防が出て、大騒ぎして探した。ぜんぜん見つからなんで、今度は、山岳救助隊が出てって、岩場のようなところへ行ったら、見つけて。
こういうふうに、後ろから抱かれて、こう、右の目を抉られちゃった。まあ、それだけで亡くなったんだから、随分痛かったと思うんですなあ。どっか急所をやられりゃあ、これは、わりあい楽に逝けるだろうけど、こんなとこを掻かれたことにゃ、これ、早く手当てできりゃあ生きとったってことですので、出血多量で、きっと、亡くなったんだと。さぞ痛かったことだろうと。
だから結局、今は松川町から頼んで来てもらっとるんです。
ーその宮司さんを継ぐ人はいなかったんですか?
それがいなかった。……息子さんが継いでくれることが一番いいということで、その話をして、幾度か講習会に行っとるんだけど、今は、なかなかくれないんです。相当の金をかけないと。
ー大鹿歌舞伎は神社との結びつきが大きいわけですよね。
そう。それで、わしがいま総代を、今年で39年、来年でちょうど40年。そんなにやっとる人は、ひとりもいないんで(笑)。なんでやめれんかっていうのは、歌舞伎が繋がってるもんで。歌舞伎は、大鹿の民俗芸能は、いわゆる、地域の人たちの信仰によって生まれたものであるので。信仰っていって、えらいその、恐ろしい布教をしとるとか、なんとかいうことじゃなくって、地域の拠りどころとして。
昔は、貧しいもんだから、貧しい生活の中で、お互いに手を取り合って、お互いに協力し合って生きていこうとする、ひとつの拠りどころを鎮守の森へ求めて、それぞれの神を信仰して来た。それで、それに寄り合って、苦しい中にもまた楽しみを得るために、民俗芸能というものを育ててきておるわけで。
この鍵を捨てたら、もう劇団のようなものになるで、これはもう、絶対に潰れてしまうと考えましたんで、いっくらえらくてもなんでも、神社のこともやってかなければ意義をなさん。歌舞伎っきりやってったってだめだ、というのが、わしの考え方なんで。民俗芸能の基本原則はそこだと思う、と、わしもそう思っとるんですね、間違っとらんと思うんです。

§ § §
元来、芸能とか芸術の起源は神事にあるといわれます。大鹿歌舞伎の魅力、古くから地域にある芸能の魅力は、その起源、発生源に近い、ということがいえると思います。日々の生活の中から、祈りとともに生まれた民俗芸能の、根本動機を重視して来た片桐さんは、歌舞伎保存会だけではなく、中学生の指導も、長年積極的に続けて来ています。最近、その大鹿中学校から、片桐さんに感謝状が渡されました。インタビューの2日前、全校生徒、教育委員会、PTA、みなさん総出で中学校の音楽棟へ集まって、贈呈式が行なわれたそうです。
「えらい大掛かりで新聞に出ました(笑)」と、新聞記事を見せてくれた片桐さん。塩湯荘(鹿塩温泉の旅館)へ呼ばれて一杯いただき、家まで送ってもらって帰って来たそうです。片桐さんはお酒が大好きです。
ー中学校での指導を33年間やってらしたんですね。
そういうことなんです。昭和50年からであります。
ーそれ以前というのは、学校では、やってなかったんですか?
中学ではね。学校へそんな歌舞伎を持ち込むなんていうのはね、やってなかった。
どうしたって子役は必要なんで、いつやるにしても。子役は必要だけれども、その時には、親に、再三あたまを下げて、頼んで出てもらってたわけで。学校の先生がやれなんとは言わない。そんなどこじゃあないんで。民俗芸能なんていうものは、そんなに価値のあるものだとは、先生は思っとらない。お祭り騒ぎの道具だと思っとったもんで。まだ、わしが教育長になる5年前なんだけど、これはなんとしても、学校と一緒にやらにゃあと。
しばらく後になってから「学社連携」とか、学校だけの教育じゃない、地域の人たちが、もっと学校との緊密な連携を持って、お互いに支えあって、先生だけに任しとくのはだめだって言い出したのは、もっと、しばらく後だったんです。わしの考えは、それだから、絶対に間違っとらなんだと思って、今、自負しとるんです(笑)。
(昭和)50年というのは、いい成績を修めて高校へ合格しなけりゃあ、校長はここから出ても行かれん、ていう時期で、ときには、ひとりしか合格しなかった年があって、そんな校長は、下の下に見られちまうわけで、県の教育委員会から見ればねえ。
……みんな落っこちちゃったことがあったんですよ。みんなが実力以上のところを狙っちゃって。今の村長が教育長のときのことですよ。今の村長が、わしの後に教育長になったんです。もう重大問題(笑)。
……協力し合ってやっていくんだって、今は、みんなが認識してくれていると思いますが。
ー片桐さんが、歌舞伎に関わり始めたのは、いくつくらいのときですか?
17です。
ーじゃあ、いまでいうと、高校生くらいですね?そのころは、だいたいみんな、そのくらいの年齢になると、歌舞伎を始めてたんですか?
もう、ほとんどそうですなん。小学校を出たら、昔は、中学高校はなかったから、小学校を卒業すると、そういう道に入る。まあ、中には、子役は、もっと小さい子供がやることはありましたけれども。
……わしは、体が、今も小さいけども、ほんと小さかったもんだから、学校、義務教育を抜けても、まだだいぶ子役に使われた(笑)。
ーえ、子役やってたんですか?
いや、それが、学校卒業する前には、やってなかったんです。わしは、お袋が、わしと弟とあって、三人目の子供の出産でやりそこなって、お袋が死んじゃったので。わしが、今の満でいう、四つ、弟が二つのとき。で、おばあさんがぴんぴんしとってくれたもんで、おばあさんに育てられたんです。だから、小さいときに、歌舞伎をやるなんちゅう気持ちは、何もなかった。
ー17のときに、何がきっかけで歌舞伎を始めたんですか?
まあ、興味を持ったっちゅうのは、小学校5年のときに手を痛めてね。手をおしょったんです。左手のここのところを。
なぜ、おしょったかっていうとね、今は、そんな大きな「はざ」は作らないけど、昔は、稲はざを、畑が遠いもんだから、ここらの衆はみんな、もう、刈ると同時に、うちへ持って来てしまうんです。それで、うちの住まいにはざを、何段も何段も高いはざを結って、火の見やぐらを広くしたようなのが、そういうのが、どこのうちにもあったんです、このあたりは。
その一番上のところに登って、わりあいに、そういう高いところが、わしは好きだったもんで(笑)、一番上に腰をかけておったら、一緒に登っとった、この上隣りのうちの大将が、福島っちゅうあにいが横におって、ぽおんと跳んだんです。ぐいっと踏んで跳んだもんだから、その、昔は縄でしばってなくて、藤蔓でしばってあったんですよ。その藤蔓が切れてね、この横木が、ずるっと下がったんです。そのときに、こんな呑気な顔をして座っとったもんで、ごろんと行って、手をついて、下が硬いんで、折れたんですよ。
それから、まだそんな時分は、飯田へ行く道には何んにも車が通ってないもんで、おやじの背中にしょってってもらって、松川までは電車が来とったと、松川までおぶってってもらって、松川から電車に乗って、飯田まで行って。
……で、2週間までおったか、2週間弱、久田(ひさた)っていう接骨医に、今も覚えてますわ、駅のじき下にある、そこへ、おやじとふたりで2週間、旅館に泊まって通っておったんです。
ところが、さすがに芸能の街といわれる飯田だもんで、毎日どっかで歌舞伎が掛かっていて、本職の歌舞伎が。それだから、毎日、こうやって腕を吊ったっきりで、あんまり痛くもないもんで、毎日行っちゃあ、見る。ただこうやっとるだけで、何んにもできんもんで。おやじも飯田へ行っとったって、何んにもやるわけじゃあねえもんで。
……その頃は、酒があんまりない頃で、配給の頃で、おやじが、並んじゃあ酒を買っとるとこを見た覚えがある。
ー昭和?何年くらいの話ですか?
わしが小学校5年、昭和13年です。そのときも、何か、不況みたいなことがあったと思うんです。
ー第一次世界大戦後の、最初の世界恐慌の頃ですね。
……配給っていうか、お酒が少なくて、並んで買っとるんな。
そんな頃、わしは、歌舞伎なんていったって、まだ小学校5年だな、何の興味も、あんまりないし、他へ行ってみるっちゅう気持ちもなかったし、おやじの後ついちゃあ、歌舞伎を観に行っとるうちに興味を持ち出したことは事実だと思いますが、それだからといって、あと、手が良くなってからすぐ歌舞伎をやり始めたわけではないんですが。
ここから車で2、3分行ったところに、葦原っていうお宮がありますけれども、うちは、そこが氏子だもんだから、ここが中峰で、そっちの奥に梨原、沢井、入沢井と、いま四つ(の集落)が氏子ですけども。……まだそのころは、こっちの反対の方の、北入の一、二、北川の一、二、という、八つの集落がひとつになっとったんですよ。それが、北入と北川の衆が、どうして分かれたか知らんけど、あるときに向こうへ分社しちゃって、今は四つなんですが。
その葦原神社に「お祭り青年」があって、学校を卒業してから、今度は、ここにいて百姓やっとれば、もう、否が応でもそれに入らなけりゃあ人間じゃないっちゅうような(笑)、ボイコットされちゃうから、何でもかんでも、その歌舞伎に入って。
やってるうちに、何か、上手いじゃねえかっちゅうような評判が立ち出したもんで。「おみゃあの、やってみろ、うまいぞ」ちゅうようなことを、そこらから言われるようになって、本気になって、上手いか下手かわからんが、いくらか手を叩かれ出したもんだから、一生懸命勉強しようと思って、始めたんですよ。
ーそれは、役者としてということですね。そのころから、大鹿歌舞伎は太夫の弾語りだったんですか?
そうでした。いわゆる、お師匠といわれる人が4人おって、その頃は。そのうちふたりは、わしのうちから出た人の子がやっとったんですよ。それでまあ、あんまり気兼ねがなかったっていうことで、教えてくれる方も自由に教えてくれとったんです。
ーその頃は、大鹿では、年中歌舞伎が行なわれてたんですか?
年中。
年2回、それぞれの神社で歌舞伎をやってました。なんですが、昭和32年くらいから、どこの神社でも、順に順に、できないようになってきたもんだから、村全体でやらなけりゃあだめだっていうことで、好きな者が集まって、歌舞伎愛好会を作ったんです。そうしておったら、村でも、なんとしてもやらにゃあ、これはどうにもならん、潰れちまうっていう、どっかから「これは大事なもんだ」ということが、いくらか行政の方にも聞こえて来るようになってきて、それじゃあ、村でも考えましょうっていうことになって、昭和33年に、歌舞伎保存会というのができたんです。
それまでは、各神社ごとに、てんでにやっとったんです。その頃は、上青木っていうとこに諏訪社っていうの(「引ノ田諏訪神社」)があって、大河原の一番奥の釜沢っていうところに「三正坊神社」ちゅうのがあって、それから、信濃宮のある上蔵っちゅうところに「野々宮神社」ちゅうのがあって、それから、いつも(春の定期公演を)やる「大磧神社」、それから、もうちょっと下ってって、今の交流センターの、もうちょっと奥へ入ったとこに「松平神社」ちゅうのがあった。それから、ここの、ダムの埋没地になってしまったけども、桶谷っていうところに「白沢神社」だったかな。川向こうにあった神社。それから、鹿塩の、秋(の定期公演)やる「市場神社」、それからさっき話した、そこの奥にある「葦原神社」と分社してったところの北入の「北入神社」と、九つの神社でした。
§ § §
江戸時代、歌舞伎が入って来た大鹿では、芝居熱が一気に高まって、村内のあちこちに舞台が建設されました。太夫座や花道、回り舞台や奈落のある、本格的な舞台です。歌舞伎の舞台というと江戸幕府の禁令に抵触するので、神社の付帯設備として、「直会殿(なおらいでん)」として建設されて行ったそうです。江戸時代から明治年間にかけて建設された舞台は、村内全域、十三カ所の神社にありました。その神社が、片桐さんが中心になり始めた昭和中期には九カ所。その後、過疎化とともに、どんどん減って行ってしまうわけです。ここから、片桐さんの、大鹿歌舞伎を守る闘いが始まります。日本古来の文化を不要物あるいは障害物とするグローバリズムとの闘いだったのかもしれません。
そんな大変な物語を、片桐さんは豊かな語り口で語ってくれます。面白いです。
後半(下)へ続きます。

【Ngene掲載:2008年12月30日】 文:宮内俊宏、写真:駒村みどり
|(上)|(下)|
大鹿歌舞伎・片桐登インタビュー(下)
【Ngene掲載:2009年1月14日】

§ § §
アジア太平洋戦争後、少しずつ下火になり始めた大鹿歌舞伎に新しい目標を与え、時代に沿った新しい局面へと発展させてきた片桐さん。片桐さんが全国地芝居連絡協議会の会長を務めることでも伺えるように、いまや、大鹿歌舞伎は全国の地芝居の代表格です。2000年3月には、地芝居として初めて国立劇場で上演されました。
インタビュー後半は、村じゅうで賑やかに歌舞伎が上演されていた時代から、少し翳り始めた頃のこと。その精神性や流儀を守りながら、普及させるための保存会の設立に尽力した、昭和中期あたりのお話です。
ー大鹿の村には、一年じゅう歌舞伎があったわけですが、それぞれの神社で一年に2回ずつ定期公演があると、村全体では、一年間に18公演。……考えてみるとすごいことですね。
なぜできたかっちゅうのは、衣装を持っとったということですね。中峰で、自分たちで、かつらも衣装も持っとったんです。昔、大正天皇の即位記念に大芝居を打って、そのときに、寄付を募って衣装を作ったんです。そのおかげで、その衣装を方々に持ってって、いま話した九つあった神社どこでも持ってって、それで芝居をやっとったんです。
まあ、そういうふうにやっとるうちに、素人の作ったようなものばっかでもない、他所から買って来たものから、いろいろありましたけど、やっぱりその、いいものには目が利くようになるもんだから、そうすると、今度は、飯田にいろいろありまして。
鼎の上茶屋っつうとこに、綺羅屋(きらや・歌舞伎の衣装屋さん)がありましてな。上茶屋の綺羅屋は「秋山」っていう、「秋山綺羅屋」っていって、そこと、飯田駅から銀座へ通り抜ける中央通りの、あの下の四つ角のちょっと上がったとこに「河合」っちゅう写真屋さんがありますが、あそこが、元の年寄り衆は衣装屋さんだったんです。
そこのおじいさんが、どこの出の人だったか、ちょっとわしは知らんけども、その人が、男ながらなかなか裁縫の強い人で、自分でほとんど作ったって言っとったでな。で、その奥様が、松川の方から大鹿の方へずっと来たとこの生まれの人で、どういう関係だか知らんが、一緒になって衣装屋をやっとって、大鹿へもたまに衣装持っちゃあ来てくれたんです。
昭和22年かな、飯田が丸焼けになった時がありました。あのときに、みんな焼けたけえども、そのうちには地下があって、衣装だけ焼けなかった。カメラは上の方に置いてあったもんで、みんな焼けちゃったんだけど。それで、その火事になってっから、とてもへえ、こら飯田が立て直ったって歌舞伎なんかできんらで、衣装持っとったって商売にならんらで、買ってくれよって来たんな。ところがその、わしが頼んだ村長は、そんなもの村で買ったってどうしょうもねえって。そりゃあ、何百万ちゅうもんだもんで。
ー!何百万、なんですか。
そうな。……それで、細かい話するとおかしくなるで言わんけども、大鹿で買ってくれっちゅうことで来たんだが、そういうわけで、すぐに買えたわけじゃないもんで、そのあいだに、持って来た人の奥さんが具合悪くなっちゃって、どっかに売っちまうっちゅうことになって、冗談じゃねえじゃねえか、おれら買うって言ってるときに、そっちから持って来といてなんだって、トラブルみたいになりまして。結局、わしが農協から金借りて、保証人を、歌舞伎役者に幾人かなってもらって、買い取ったんな。それが、おかげで、今残っとる。
わしんとこの衣装の、一番高いのは、かつらが、ひとつ百五十万。それは、作ったのは「東京かつら」かどっかだけれども、取り扱ったのは「松竹衣装」で、京都の「長野かつら屋」っていうとこの人が、そのかつらを見たときに、「これはこういう人の作じゃないかな?」って言う。「やっぱりな!」。そのとおりで、今その人は亡くなって、このかつら作れる人は、もう日本にはおりません、というもので。
衣装は、今みんな公民館の2階にあるで、行って見てみれば、これがいくらのものかって、ちゃんとわかる。
恐れ入るのは、わしの方が恐れ入っちゃって、へえ、手が出なんだけど、六千両(「六千両後日之文章・重忠館の段」)の景清だとか、「日本太閤記十段目」の加藤っちゅう荒武者のような役が着る、金モールで刺繍したような「四天(よてん)」という衣装があるが、それは、使うようになってしばらくになるもんでね、まあ、おそらく、昭和のはじめか大正の頃からのもので、それが、襟が切れて、あちこちほつれて来たもんで、これを一枚なんとかしたいと思うけど、いくらかかるんな?っちゅったら、七百万だ。(驚!) ……一枚だに。……いやあああ、それでへえ、もうなん、その話はだめだっちゅって(笑)。
ーひとつがそんな値段ていうことは、大鹿歌舞伎は演目も多いし、衣装もかなりの量がありますよね?
そりゃもう、素晴らしい。NHKが来て見たときに「うちの衣装屋よりあるな」って。
ーそれ全部公民館なんですか?
置いとく所がないと困っちゃうで、絶対にきちっとしとかにゃ、盗まれたりするで、鹿塩の公民館の2階を、そういうふうに作ってもらって、衣装はそこにあるんです。
……あれ、せっかく作ってもらったのに、惜しいことをした。2階は、今になってみると、年をとったらかなわんのです(笑)。荷物は、手動式のエレベーターがあるんだに、衣装は、持って上がったり下がったり、まあず骨が折れるで(笑)。

§ § §
写真家・宮本辰雄さんが編纂した記録によると、この基礎的な衣装を整えたのは、片桐さんの一代先代の師匠である、古屋敷頼隆(ふるやしきよりたか)さんの父・古屋敷浅次郎さん。明治時代後期のことです。中峰綺羅(なかみねきら)と呼ばれ、前述(片桐登インタビュー・上)の、葦原神社の氏子たちが寄付を集め、女衆の手によって製作されたり、購入されたりしたものです。中峰は、大鹿の中でも特に歌舞伎が盛んで、片桐さんしかり、大勢の名優や師匠を輩出していますが、いろいろな面で、大鹿歌舞伎の中心地だったようです。
ーそのあたりから、片桐さんは、大鹿歌舞伎を率先してやっていたんですね。
ところが、そうしておったら今度は、公民館長が、歌舞伎の嫌いな人になって、なにかっちゅうと「歌舞伎なんかの話はうるせえわ!」って(笑)。
ーはあ、そんなときもあったんですか(笑)
あああ、それは、難儀な時がありました(笑)。
そうしとるうちに、今度は、わしが教育長になって。もう誰も、怒る人はおらんわけです(笑)。もう、どんどん、どんどん、村長と話をして、どんどん。
5千5百万円貰ってな、竹下登っちゅう総理大臣が、一億ばらまいたことがあって。……今度の、麻生さんも、いくらかくれるとか言っとるけど、給付金、一万だか二万だかもらっても、何の足しにもならん。(笑)……写真機も買えやしない。
1億くれた時の5千5百万を歌舞伎に……。歌舞伎にそれだけ貰うっちゅうことは、これもまた、難しいことだったんですが。村民が、何を、大鹿で大事にしなけりゃならないか、充実してかにゃならないか、というアンケートを取ったら、歌舞伎を充実しろっちゅうのが、六割の余(よ)もあって。
ーああ、それは素晴らしいですね。
それだもんで、へえ、村長も議会も、何も言わんの。5千5百万、どうしても用があるんで下さい、それ貰っといて、まだ、1千5百万、わしの後継者づくりの基金に積んでもらった。
その時の、5千5百万貰ったやつと、1千5百万の後継者基金に積んだのと、それから、信濃宮の建設や、いろいろなことがあって、歌舞伎が今日に繋がって来たっていうことなんです。
信濃宮は、あれは、さっき言ったように、地域の衆が作ったもんじゃないもんで。皇族を祀るために、県が、県社を建てるために作り始めたんだけど、一年くらいのことで戦争に負けちゃったもんで、それで、へえ、その計画が潰れちゃった。それだけど、もったいない、国有林から、もう、材料でも何でも、みんな伐ったったもんで、それで、奉賛会が中心になって、今の建物を建てた。もちろん、村の衆も一緒になってやったけど、もう、村の力じゃあ、とてもできなんだんです。
公民館で歌舞伎をやってったらどうか、という時があって。各自治会に分館長がおるもんで、その時分には部落っちゅったけど、部落の分館長に頼んで、その組織の中でやりゃあいいじゃねえかと、菅沼という村長の時に、そういう話になって。
それじゃあ、その話し合いをしますでって、会議を開いたら、えらい剣幕になっちゃって。歌舞伎のような厄介なもの、どれだけ手間がかかるんだか、歌舞伎なんていうのは。昔は昼間、弁当を持ってっちゃあ、練習を三ヶ月ぐらいやったんです。そういうことを知っとる衆がおるわけだもんで、公民館にそんなもの持って来たって誰がやるんだっちゅう。会議を一回やったら、どえれえ荒れて(笑)、村長も、へえ、もうだめだでこれは、公民館もだめだ、とにかく、保存会はおめえに任せるから、なんとしてもやってみろっちゅって。それから保存会を作り上げたんです。そのとき、一番初めは「大鹿村無形民俗文化財保存会」っちゅう名前だった。
ーそれが、昭和33年のことですね?その、国や県の文化財に指定されたのは、いつぐらいなんでしたっけ?
それは……、それより後だった。県がなん、昭和49年。国は、昭和52年。
ー当時は、そいうことが一切無い中で保存会が発足したんですね。で、それからずっと、片桐さんが中心になって進んで来ているんですね?
ええ、村では、そうしんとダメだと。「大鹿村の無形文化財という形にして、守ってかにゃあだめだ」ってわしが言い出したもんだから、村が、そういうことでやりましょうっちゅうわけで。
ーそのときは、片桐さんは師匠だったんですか?
師匠っちゅうよりも、とにかく、なんでもかんでも、わしが内容知っとるもんだから、わしが先に立ってやらなけりゃならんもんで。公民館の館長だっておったし、主事だって、その時分、二人おりました、鹿塩と大河原に。けれど、歌舞伎を先に立ってやるっちゅう力はないんで。これは、特殊な技術がいるもんだから、だから、村長から「片桐がやれ」という、これは特命だったんです。
§ § §
そのとき、大鹿歌舞伎の師匠は、片桐さんだけになっていました。明治期から、片桐さんに至るまで、記録に残る人物だけで、8人の師匠が、大鹿歌舞伎にはいました。飯田の町に、長期間滞在している座があるときは、通い詰めて、玄人の芸人に指南し、中には、そのまま旅に付いて修行をしてきた人もいるとか。芸を究めた師匠のもと、大勢の名優や義太夫語りの名手が村人の間に存在し、生活し、山の仕事や野の仕事をしながら、長い歴史を積み重ねて来たのです。
アジア太平洋戦争を境に、日本固有の文化は、前近代的な遅れたものとして刈り取られて来ました。大鹿でも、それを境に、歌舞伎はどんどん下火になっていったのです。伝承芸能の保存というのは、どこでも直面している問題ですが、大鹿歌舞伎が、これだけ魅力的な、芸域の高い芸能として続いて来ているのは、陳列ケースに入れて保存するのではない、大鹿村の歴史を土台に、大鹿村の精神性を宿して、大鹿村の生活に根づいた方法で、保存継承が行なわれ、さらに、その真髄を外すことなく、積極的に外へ向けて発信しているからだと思います。
その方針を貫いた片桐さんの、面白い話は、まだまだたくさん続きます。それはいずれ、また、どこかで伝えて行きたい大切な物語です。

【Ngene掲載:2009年1月14日】 文:宮内俊宏、写真:駒村みどり
|(上)|(下)|

§ § §
アジア太平洋戦争後、少しずつ下火になり始めた大鹿歌舞伎に新しい目標を与え、時代に沿った新しい局面へと発展させてきた片桐さん。片桐さんが全国地芝居連絡協議会の会長を務めることでも伺えるように、いまや、大鹿歌舞伎は全国の地芝居の代表格です。2000年3月には、地芝居として初めて国立劇場で上演されました。
インタビュー後半は、村じゅうで賑やかに歌舞伎が上演されていた時代から、少し翳り始めた頃のこと。その精神性や流儀を守りながら、普及させるための保存会の設立に尽力した、昭和中期あたりのお話です。
ー大鹿の村には、一年じゅう歌舞伎があったわけですが、それぞれの神社で一年に2回ずつ定期公演があると、村全体では、一年間に18公演。……考えてみるとすごいことですね。
なぜできたかっちゅうのは、衣装を持っとったということですね。中峰で、自分たちで、かつらも衣装も持っとったんです。昔、大正天皇の即位記念に大芝居を打って、そのときに、寄付を募って衣装を作ったんです。そのおかげで、その衣装を方々に持ってって、いま話した九つあった神社どこでも持ってって、それで芝居をやっとったんです。
まあ、そういうふうにやっとるうちに、素人の作ったようなものばっかでもない、他所から買って来たものから、いろいろありましたけど、やっぱりその、いいものには目が利くようになるもんだから、そうすると、今度は、飯田にいろいろありまして。
鼎の上茶屋っつうとこに、綺羅屋(きらや・歌舞伎の衣装屋さん)がありましてな。上茶屋の綺羅屋は「秋山」っていう、「秋山綺羅屋」っていって、そこと、飯田駅から銀座へ通り抜ける中央通りの、あの下の四つ角のちょっと上がったとこに「河合」っちゅう写真屋さんがありますが、あそこが、元の年寄り衆は衣装屋さんだったんです。
そこのおじいさんが、どこの出の人だったか、ちょっとわしは知らんけども、その人が、男ながらなかなか裁縫の強い人で、自分でほとんど作ったって言っとったでな。で、その奥様が、松川の方から大鹿の方へずっと来たとこの生まれの人で、どういう関係だか知らんが、一緒になって衣装屋をやっとって、大鹿へもたまに衣装持っちゃあ来てくれたんです。
昭和22年かな、飯田が丸焼けになった時がありました。あのときに、みんな焼けたけえども、そのうちには地下があって、衣装だけ焼けなかった。カメラは上の方に置いてあったもんで、みんな焼けちゃったんだけど。それで、その火事になってっから、とてもへえ、こら飯田が立て直ったって歌舞伎なんかできんらで、衣装持っとったって商売にならんらで、買ってくれよって来たんな。ところがその、わしが頼んだ村長は、そんなもの村で買ったってどうしょうもねえって。そりゃあ、何百万ちゅうもんだもんで。
ー!何百万、なんですか。
そうな。……それで、細かい話するとおかしくなるで言わんけども、大鹿で買ってくれっちゅうことで来たんだが、そういうわけで、すぐに買えたわけじゃないもんで、そのあいだに、持って来た人の奥さんが具合悪くなっちゃって、どっかに売っちまうっちゅうことになって、冗談じゃねえじゃねえか、おれら買うって言ってるときに、そっちから持って来といてなんだって、トラブルみたいになりまして。結局、わしが農協から金借りて、保証人を、歌舞伎役者に幾人かなってもらって、買い取ったんな。それが、おかげで、今残っとる。
わしんとこの衣装の、一番高いのは、かつらが、ひとつ百五十万。それは、作ったのは「東京かつら」かどっかだけれども、取り扱ったのは「松竹衣装」で、京都の「長野かつら屋」っていうとこの人が、そのかつらを見たときに、「これはこういう人の作じゃないかな?」って言う。「やっぱりな!」。そのとおりで、今その人は亡くなって、このかつら作れる人は、もう日本にはおりません、というもので。
衣装は、今みんな公民館の2階にあるで、行って見てみれば、これがいくらのものかって、ちゃんとわかる。
恐れ入るのは、わしの方が恐れ入っちゃって、へえ、手が出なんだけど、六千両(「六千両後日之文章・重忠館の段」)の景清だとか、「日本太閤記十段目」の加藤っちゅう荒武者のような役が着る、金モールで刺繍したような「四天(よてん)」という衣装があるが、それは、使うようになってしばらくになるもんでね、まあ、おそらく、昭和のはじめか大正の頃からのもので、それが、襟が切れて、あちこちほつれて来たもんで、これを一枚なんとかしたいと思うけど、いくらかかるんな?っちゅったら、七百万だ。(驚!) ……一枚だに。……いやあああ、それでへえ、もうなん、その話はだめだっちゅって(笑)。
ーひとつがそんな値段ていうことは、大鹿歌舞伎は演目も多いし、衣装もかなりの量がありますよね?
そりゃもう、素晴らしい。NHKが来て見たときに「うちの衣装屋よりあるな」って。
ーそれ全部公民館なんですか?
置いとく所がないと困っちゃうで、絶対にきちっとしとかにゃ、盗まれたりするで、鹿塩の公民館の2階を、そういうふうに作ってもらって、衣装はそこにあるんです。
……あれ、せっかく作ってもらったのに、惜しいことをした。2階は、今になってみると、年をとったらかなわんのです(笑)。荷物は、手動式のエレベーターがあるんだに、衣装は、持って上がったり下がったり、まあず骨が折れるで(笑)。

§ § §
写真家・宮本辰雄さんが編纂した記録によると、この基礎的な衣装を整えたのは、片桐さんの一代先代の師匠である、古屋敷頼隆(ふるやしきよりたか)さんの父・古屋敷浅次郎さん。明治時代後期のことです。中峰綺羅(なかみねきら)と呼ばれ、前述(片桐登インタビュー・上)の、葦原神社の氏子たちが寄付を集め、女衆の手によって製作されたり、購入されたりしたものです。中峰は、大鹿の中でも特に歌舞伎が盛んで、片桐さんしかり、大勢の名優や師匠を輩出していますが、いろいろな面で、大鹿歌舞伎の中心地だったようです。
ーそのあたりから、片桐さんは、大鹿歌舞伎を率先してやっていたんですね。
ところが、そうしておったら今度は、公民館長が、歌舞伎の嫌いな人になって、なにかっちゅうと「歌舞伎なんかの話はうるせえわ!」って(笑)。
ーはあ、そんなときもあったんですか(笑)
あああ、それは、難儀な時がありました(笑)。
そうしとるうちに、今度は、わしが教育長になって。もう誰も、怒る人はおらんわけです(笑)。もう、どんどん、どんどん、村長と話をして、どんどん。
5千5百万円貰ってな、竹下登っちゅう総理大臣が、一億ばらまいたことがあって。……今度の、麻生さんも、いくらかくれるとか言っとるけど、給付金、一万だか二万だかもらっても、何の足しにもならん。(笑)……写真機も買えやしない。
1億くれた時の5千5百万を歌舞伎に……。歌舞伎にそれだけ貰うっちゅうことは、これもまた、難しいことだったんですが。村民が、何を、大鹿で大事にしなけりゃならないか、充実してかにゃならないか、というアンケートを取ったら、歌舞伎を充実しろっちゅうのが、六割の余(よ)もあって。
ーああ、それは素晴らしいですね。
それだもんで、へえ、村長も議会も、何も言わんの。5千5百万、どうしても用があるんで下さい、それ貰っといて、まだ、1千5百万、わしの後継者づくりの基金に積んでもらった。
その時の、5千5百万貰ったやつと、1千5百万の後継者基金に積んだのと、それから、信濃宮の建設や、いろいろなことがあって、歌舞伎が今日に繋がって来たっていうことなんです。
信濃宮は、あれは、さっき言ったように、地域の衆が作ったもんじゃないもんで。皇族を祀るために、県が、県社を建てるために作り始めたんだけど、一年くらいのことで戦争に負けちゃったもんで、それで、へえ、その計画が潰れちゃった。それだけど、もったいない、国有林から、もう、材料でも何でも、みんな伐ったったもんで、それで、奉賛会が中心になって、今の建物を建てた。もちろん、村の衆も一緒になってやったけど、もう、村の力じゃあ、とてもできなんだんです。
公民館で歌舞伎をやってったらどうか、という時があって。各自治会に分館長がおるもんで、その時分には部落っちゅったけど、部落の分館長に頼んで、その組織の中でやりゃあいいじゃねえかと、菅沼という村長の時に、そういう話になって。
それじゃあ、その話し合いをしますでって、会議を開いたら、えらい剣幕になっちゃって。歌舞伎のような厄介なもの、どれだけ手間がかかるんだか、歌舞伎なんていうのは。昔は昼間、弁当を持ってっちゃあ、練習を三ヶ月ぐらいやったんです。そういうことを知っとる衆がおるわけだもんで、公民館にそんなもの持って来たって誰がやるんだっちゅう。会議を一回やったら、どえれえ荒れて(笑)、村長も、へえ、もうだめだでこれは、公民館もだめだ、とにかく、保存会はおめえに任せるから、なんとしてもやってみろっちゅって。それから保存会を作り上げたんです。そのとき、一番初めは「大鹿村無形民俗文化財保存会」っちゅう名前だった。
ーそれが、昭和33年のことですね?その、国や県の文化財に指定されたのは、いつぐらいなんでしたっけ?
それは……、それより後だった。県がなん、昭和49年。国は、昭和52年。
ー当時は、そいうことが一切無い中で保存会が発足したんですね。で、それからずっと、片桐さんが中心になって進んで来ているんですね?
ええ、村では、そうしんとダメだと。「大鹿村の無形文化財という形にして、守ってかにゃあだめだ」ってわしが言い出したもんだから、村が、そういうことでやりましょうっちゅうわけで。
ーそのときは、片桐さんは師匠だったんですか?
師匠っちゅうよりも、とにかく、なんでもかんでも、わしが内容知っとるもんだから、わしが先に立ってやらなけりゃならんもんで。公民館の館長だっておったし、主事だって、その時分、二人おりました、鹿塩と大河原に。けれど、歌舞伎を先に立ってやるっちゅう力はないんで。これは、特殊な技術がいるもんだから、だから、村長から「片桐がやれ」という、これは特命だったんです。
§ § §
そのとき、大鹿歌舞伎の師匠は、片桐さんだけになっていました。明治期から、片桐さんに至るまで、記録に残る人物だけで、8人の師匠が、大鹿歌舞伎にはいました。飯田の町に、長期間滞在している座があるときは、通い詰めて、玄人の芸人に指南し、中には、そのまま旅に付いて修行をしてきた人もいるとか。芸を究めた師匠のもと、大勢の名優や義太夫語りの名手が村人の間に存在し、生活し、山の仕事や野の仕事をしながら、長い歴史を積み重ねて来たのです。
アジア太平洋戦争を境に、日本固有の文化は、前近代的な遅れたものとして刈り取られて来ました。大鹿でも、それを境に、歌舞伎はどんどん下火になっていったのです。伝承芸能の保存というのは、どこでも直面している問題ですが、大鹿歌舞伎が、これだけ魅力的な、芸域の高い芸能として続いて来ているのは、陳列ケースに入れて保存するのではない、大鹿村の歴史を土台に、大鹿村の精神性を宿して、大鹿村の生活に根づいた方法で、保存継承が行なわれ、さらに、その真髄を外すことなく、積極的に外へ向けて発信しているからだと思います。
その方針を貫いた片桐さんの、面白い話は、まだまだたくさん続きます。それはいずれ、また、どこかで伝えて行きたい大切な物語です。

【Ngene掲載:2009年1月14日】 文:宮内俊宏、写真:駒村みどり
|(上)|(下)|
大鹿歌舞伎・薫風新緑の野外劇
【Ngene掲載:2008年5月7日】

青空の下、新緑の天蓋に覆われた神社の境内で、ほのあまい薫風に吹かれながら、大鹿歌舞伎は上演されます。「鑑賞」というような類いの集まりではありません。お弁当を持って、野山を散策するような気分で集まって、みんな、思い思いの場所でのんびりと、思い思いの楽しみ方で、堪能するのです。あ、もちろん、前の方で観たい人は、朝7時半の開場と同時に、座布団を敷いて席取りをします。そんな座布団で広場はすぐいっぱいになってしまうのですが、ともかく、大鹿歌舞伎の定期公演は、のんびりゆったり過ごすものなのです。
役者が見得を切ったり、物語が盛り上がったりする度に、やんやの歓声や、おひねりが飛び交います。お弁当を広げるも自由、お酒を飲むも自由、真剣に観ている子供たちもいれば、物語に関係なくニコニコ楽しそうなおじさんたちもいるし、けれど、はじまりからおわりまで、公演は粛々と、ゆったりと、何にも乱されることなく進みます。ものすごく楽しい開放的な空気の中で、充実した一日が過ぎて行きます。

なぜ大鹿歌舞伎はこんなに楽しいのか、5月3日の春の定期公演の様子を辿ってみます。
5月3日、曇りときどき晴れ。汗ばむ陽気の中、今年も大勢の人々が集まりました。毎回1500人くらいの観衆が集まる大鹿歌舞伎の定期公演。前の日から泊まりがけで大鹿へ入る人も大勢います。泊まりがけで来る人は、みんな、朝7時半に座布団を持って神社へ集まり、客席にシートが敷きつめられるのを待って、すかさず席取りをします。けれど、別に、浅ましく舞台前に殺到するかんじでもありません。最前列で観ても、最後列で観ても、どこで観ても楽しいので、思い思いの場所に座布団を置きます。
別に前の方でなくても、平土間でなくてもいい人たちは、当日の朝から三々五々、高遠方面から、松川方面から、自家用車やバスで集まって来ます。大鹿村へ入るルートは主に2本。あまり殺到すると大渋滞が起きそうなのですが、そんな様子はまったくなく、みんなスムーズに村へ入り、大磧神社の坂の下、小渋川沿いの河川敷に用意された駐車スペースに、青いハッピを着た誘導係の人に従って、ゆったりと車を停めます。

春の定期公演が行なわれるのは、大河原地区にある大磧神社。
南アルプスの山岳地帯を南北に走る、中央構造線という地層帯の西端に沿った谷間に、大鹿村はあります。北部が鹿塩地区、南部が大河原地区。大河原地区は、赤石岳の麓に源流を発する小渋川沿いにあって、おそらく崩落を繰返して形成されたであろう、比較的広い南向きの段丘に、集落が発達しています。
河原に沿った地域から、一段上がった段丘の、南向きの斜面に大磧神社はあります。鳥居を見上げるように急な坂道を登った、丘の上の神社。急峻な斜面に、ぽっかりとできた平地にあって、境内の地形も、とても複雑な形をしているのですが、それが、歌舞伎を観るときに役に立ちます。
舞台は、境内の西の端に建てられているのですが、その背後と南側が急に落ち込んでいるため、舞台と花道の裏手に、荘厳な谷間の風景が借景となって広がります。そして、平土間となる境内の広場を挟んで、舞台の対面、北東側を半円形に囲む急な斜面は、舞台を手に取るように眺められる上等の桟敷席になるのです。
小さな神社の境内に溢れるほど人が集まるとなると、ネヤネヤなお祭り状態になるんじゃないかと思われますが、そんな地形的な利点のせいか、ぜんぜんそんなかんじではない、優雅な雰囲気があります。

歌舞伎といえば、お弁当です。神社の入口に、大鹿村のお母さん達の集まり「みどり会」の歌舞伎弁当がありました。地の食材だけでできた、お弁当だそうです。おいしそうです。完全予約制なので、事前に申し込まなければなりません。
大鹿村の家々には、たいてい「ろくべん」という行楽用の弁当箱があるそうです。江戸時代から使われてきた、行楽用の弁当箱で、持ち運び用の取っ手が付いた、六段重ねの弁当箱。歌舞伎を観るとき、みんな「ろくべん」にご馳走を入れて集まったのですね、きっと。最近は、一人前二段重ねにアレンジされた、紙箱の「ろくべん」が販売されるようになったのですが、これも、販売数量が限定されているので、なかなか手に入らないようです。
境内に入ってすぐの石灯籠に「おひねり用の紙はこちらです」の張り紙。大鹿歌舞伎の主役のひとつ「おひねり」を作るための和紙が、なんとも無造作なかんじで、石積の上においてあります。「中身は自分でご用意ください」。
大鹿村青年団の人たちが、入口でパンフレットを配布したり、お客さんの案内をしています。この豆冊子というのは、定期公演の度に毎回手作りされて、100円で販売されます。その日上演される外題の解説や、役者の紹介、黒子や裏方さんの紹介、おひねりの作り方や投げ方、掛け声のかけかたなど、大鹿歌舞伎を楽しむためのいろいろなことが、趣向を凝らして、手作りの冊子にまとめられています。とてもいいです。
青年団の人たちや、その世代の、大鹿へ移住してきた若い人たちと話すと、文化や社会のことに関する、認識水準の高さを感じます。みんな強い自信と愛着を持って、大鹿村を見ています。

開場してから4時間、弁当を食べたり酒を飲んだりしながら、賑やかに会場は暖まり、席取り用の座布団が見えていた客席も、ほぼ埋まった開演30分前、祝電披露から、前説が始まりました。いろいろな文化団体、国会議員や市町村長などのお歴々から、たくさん祝電が来ています。前説は、そのまま、今日上演される外題の説明、大鹿歌舞伎愛好会の説明と続いて、村長の挨拶が始まりました。
これが、なかなか見事なのです。ちゃんと裃を着込んだ、大鹿村村長の中川豊さんが、舞台の中央に独座して、太い眉毛も表情豊かに、ときに会場を笑わせ、沸かせながら、押しの強い発声で、歌舞伎の語り口さながらの口上を披露してくれました。こんな人が村長なのだから、大鹿村は楽しいはずです。

そして、この日は、襲名披露がありました。歌舞伎の舞台を司る大役「太夫」の襲名披露です。
今まで60年あまり、大鹿歌舞伎を牽引してきた片桐登さん、つまり竹本登太夫(たけもととだゆう)の後継者として、この10年、大鹿歌舞伎の発展に尽力してきた北村尚幸(ひさゆき)さんが、竹本登尚太夫(たけもととしょうだゆう)を襲名し、太夫幕が授与されたのです。とても重みのある襲名披露の場に居合わせることができました。こうやって、晴れやかに、誇らしく、後継者を生んで行くのですね。
同時に、芸を究めた浄瑠璃弾語りの名手として、永きに渡って大鹿歌舞伎の向上に努めた功績を讃え、片桐さん、竹本登太夫にも、新しい太夫幕が寄贈されました。太夫幕は、本番舞台のときに、浄瑠璃を弾語る「太夫座」の表に掲げられます。

今日ひとつめの外題は「鎌倉三代記・三浦別れの段」。
大鹿村青年団の豆本によると、大阪夏の陣、政略結婚をさせられた千姫を巡る、徳川と豊臣の謀略を、鎌倉時代に置き換えて描いた物語です。真田幸村転じて、佐々木高綱が策士として大活躍する物語です。今日襲名披露したばかりの竹本登尚太夫の弾語り。早くも、おひねりが飛び交います。
大鹿歌舞伎の芸域は、「素人の村芝居」というような域のものではありません。「練習不足が否めない」と、口上では述べられていましたが、それにしても、とても伝わって来る舞台表現が、出来上がっています。素晴らしい。
後半は「御所桜堀川夜討・弁慶上使の段」。
こちらは、師匠・竹本登太夫が浄瑠璃を弾語ります。やはり、すごいです。声の飛んで来る速さ、三味線の表情、節回し。歌舞伎の語りについて云々できるほどの素養は、もとよりありませんが、意味はわからずとも、魅力を感じることは、誰でもできるものですね。お師匠さん、普段の話し振りも、面白くて惹きつけられるのですが、舞台での浄瑠璃弾語りは、やはり見事。
この演目が上演されるのは、だいぶ久しぶりのようです。青年団の人たちも「この段は見たことがない」と言っていましたが、大鹿歌舞伎のレパートリーは、とても豊富で、主な演目だけでも20くらい、全部で40近い演目があるようです。

ふたつの外題が、ゆったりした幕間を挟んで、3時間ほどで上演されました。時間は、とても緩やかに流れました。詰めかけた人々はみんな、とても満足げに、楽しそうな表情をしています。
口うるさい注意事項は、一切ありません。ご飯を食べていてもいいし、お酒を飲んで、陽気になっていてもいいし、おひねりはどれだけ投げてもいいし、いつ投げてもいいし、写真を撮るのも、ビデオを撮るのも、一切の禁止事項はありません。けれど、誰も、芝居の流れや会場の雰囲気を乱しません。1500人あまりの観衆みんなが、緩やかに舞台に集中していて、観ていても、観ていなくても、会場全体が、芝居の流れをわかっているかんじなのです。前の方で、小学生くらいの子供達が、目を輝かせて真剣に見入ってたりもします。とてもいいかんじです。
最後は「千秋楽・お手打ちの儀」です。
この日の出演者、裏方さんたちが、全員舞台上に並び、代表として、竹本登太夫がお礼の口上を述べます。今日の公演が成功したことへの感謝を述べ、再会を祈り、出演者も、観衆も、神社にいる全員で、「シャシャンがシャン!おシャシャのシャン!」と手を打って終わります。とても堂々とした終わり方です。

大鹿歌舞伎の魅力は、とても良いかたちで外に流れ出しているように思います。300年という長い歴史は、もちろん素晴らしいものですが、それだけではないのだと思います。近代の社会の変質に同調せず、大鹿村の流儀を変えず、けれど、自分たちを守るために閉鎖するのではなく、外から来る人々を寛容に受入れ、国立劇場で上演したこともあれば、オーストラリアやドイツへ遠征もする、積極的に他の地域へ出かけていく姿勢が大鹿歌舞伎にはあります。たぶんそれらのことは、高い認識に裏付けられた、自分たちへの誇りと自信がなければ、できないことだったりします。
終演後、境内はテキパキと片付けられて、あっというまに元の神社に戻ります。ゴミはひとつも落ちていません。
雑貨店「さくら組」、神社の坂の下で開いていた露店も、店じまい。さくら組は、地元の女性達による手拭、雑貨屋さん。自分たちでデザインした手拭や、手拭で作った様々な生活雑貨を売っています。とてもセンスのいい、個性的な品が並んでいます。
大鹿村の山中でコーヒー豆を商っている「カフェマヤ」も、今日はお店を開いてて、一日じゅう、境内にコーヒーの良い香りが漂いました。隣りのたこ焼き屋さんも、五平餅屋さんも、ほかの屋台も、すべて大鹿の人たちがやっています。
とても面白い一日でした。面白いだけではない、いろいろな人やものごとに出会って、いろいろなことを知った、有意義な祭でした。この雰囲気が好きで毎回来る、という人の気持ちがわかります。ただの一日の娯楽、行楽ではない、大きな自然と人間のアイディアの循環が、その魅力を生んでいるのだと思いました。
次は秋の定期公演。……また行こ。

【Ngene掲載:2008年5月7日】 文、写真:宮内俊宏
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「早春の大鹿村・大河原地区」
「花盛りの大鹿村 〜美しい景観をつくる基礎的な要因〜」
「大鹿村ホームページ」

青空の下、新緑の天蓋に覆われた神社の境内で、ほのあまい薫風に吹かれながら、大鹿歌舞伎は上演されます。「鑑賞」というような類いの集まりではありません。お弁当を持って、野山を散策するような気分で集まって、みんな、思い思いの場所でのんびりと、思い思いの楽しみ方で、堪能するのです。あ、もちろん、前の方で観たい人は、朝7時半の開場と同時に、座布団を敷いて席取りをします。そんな座布団で広場はすぐいっぱいになってしまうのですが、ともかく、大鹿歌舞伎の定期公演は、のんびりゆったり過ごすものなのです。
役者が見得を切ったり、物語が盛り上がったりする度に、やんやの歓声や、おひねりが飛び交います。お弁当を広げるも自由、お酒を飲むも自由、真剣に観ている子供たちもいれば、物語に関係なくニコニコ楽しそうなおじさんたちもいるし、けれど、はじまりからおわりまで、公演は粛々と、ゆったりと、何にも乱されることなく進みます。ものすごく楽しい開放的な空気の中で、充実した一日が過ぎて行きます。

なぜ大鹿歌舞伎はこんなに楽しいのか、5月3日の春の定期公演の様子を辿ってみます。
5月3日、曇りときどき晴れ。汗ばむ陽気の中、今年も大勢の人々が集まりました。毎回1500人くらいの観衆が集まる大鹿歌舞伎の定期公演。前の日から泊まりがけで大鹿へ入る人も大勢います。泊まりがけで来る人は、みんな、朝7時半に座布団を持って神社へ集まり、客席にシートが敷きつめられるのを待って、すかさず席取りをします。けれど、別に、浅ましく舞台前に殺到するかんじでもありません。最前列で観ても、最後列で観ても、どこで観ても楽しいので、思い思いの場所に座布団を置きます。
別に前の方でなくても、平土間でなくてもいい人たちは、当日の朝から三々五々、高遠方面から、松川方面から、自家用車やバスで集まって来ます。大鹿村へ入るルートは主に2本。あまり殺到すると大渋滞が起きそうなのですが、そんな様子はまったくなく、みんなスムーズに村へ入り、大磧神社の坂の下、小渋川沿いの河川敷に用意された駐車スペースに、青いハッピを着た誘導係の人に従って、ゆったりと車を停めます。

春の定期公演が行なわれるのは、大河原地区にある大磧神社。
南アルプスの山岳地帯を南北に走る、中央構造線という地層帯の西端に沿った谷間に、大鹿村はあります。北部が鹿塩地区、南部が大河原地区。大河原地区は、赤石岳の麓に源流を発する小渋川沿いにあって、おそらく崩落を繰返して形成されたであろう、比較的広い南向きの段丘に、集落が発達しています。
河原に沿った地域から、一段上がった段丘の、南向きの斜面に大磧神社はあります。鳥居を見上げるように急な坂道を登った、丘の上の神社。急峻な斜面に、ぽっかりとできた平地にあって、境内の地形も、とても複雑な形をしているのですが、それが、歌舞伎を観るときに役に立ちます。
舞台は、境内の西の端に建てられているのですが、その背後と南側が急に落ち込んでいるため、舞台と花道の裏手に、荘厳な谷間の風景が借景となって広がります。そして、平土間となる境内の広場を挟んで、舞台の対面、北東側を半円形に囲む急な斜面は、舞台を手に取るように眺められる上等の桟敷席になるのです。
小さな神社の境内に溢れるほど人が集まるとなると、ネヤネヤなお祭り状態になるんじゃないかと思われますが、そんな地形的な利点のせいか、ぜんぜんそんなかんじではない、優雅な雰囲気があります。

歌舞伎といえば、お弁当です。神社の入口に、大鹿村のお母さん達の集まり「みどり会」の歌舞伎弁当がありました。地の食材だけでできた、お弁当だそうです。おいしそうです。完全予約制なので、事前に申し込まなければなりません。
大鹿村の家々には、たいてい「ろくべん」という行楽用の弁当箱があるそうです。江戸時代から使われてきた、行楽用の弁当箱で、持ち運び用の取っ手が付いた、六段重ねの弁当箱。歌舞伎を観るとき、みんな「ろくべん」にご馳走を入れて集まったのですね、きっと。最近は、一人前二段重ねにアレンジされた、紙箱の「ろくべん」が販売されるようになったのですが、これも、販売数量が限定されているので、なかなか手に入らないようです。
境内に入ってすぐの石灯籠に「おひねり用の紙はこちらです」の張り紙。大鹿歌舞伎の主役のひとつ「おひねり」を作るための和紙が、なんとも無造作なかんじで、石積の上においてあります。「中身は自分でご用意ください」。
大鹿村青年団の人たちが、入口でパンフレットを配布したり、お客さんの案内をしています。この豆冊子というのは、定期公演の度に毎回手作りされて、100円で販売されます。その日上演される外題の解説や、役者の紹介、黒子や裏方さんの紹介、おひねりの作り方や投げ方、掛け声のかけかたなど、大鹿歌舞伎を楽しむためのいろいろなことが、趣向を凝らして、手作りの冊子にまとめられています。とてもいいです。
青年団の人たちや、その世代の、大鹿へ移住してきた若い人たちと話すと、文化や社会のことに関する、認識水準の高さを感じます。みんな強い自信と愛着を持って、大鹿村を見ています。

開場してから4時間、弁当を食べたり酒を飲んだりしながら、賑やかに会場は暖まり、席取り用の座布団が見えていた客席も、ほぼ埋まった開演30分前、祝電披露から、前説が始まりました。いろいろな文化団体、国会議員や市町村長などのお歴々から、たくさん祝電が来ています。前説は、そのまま、今日上演される外題の説明、大鹿歌舞伎愛好会の説明と続いて、村長の挨拶が始まりました。
これが、なかなか見事なのです。ちゃんと裃を着込んだ、大鹿村村長の中川豊さんが、舞台の中央に独座して、太い眉毛も表情豊かに、ときに会場を笑わせ、沸かせながら、押しの強い発声で、歌舞伎の語り口さながらの口上を披露してくれました。こんな人が村長なのだから、大鹿村は楽しいはずです。

そして、この日は、襲名披露がありました。歌舞伎の舞台を司る大役「太夫」の襲名披露です。
今まで60年あまり、大鹿歌舞伎を牽引してきた片桐登さん、つまり竹本登太夫(たけもととだゆう)の後継者として、この10年、大鹿歌舞伎の発展に尽力してきた北村尚幸(ひさゆき)さんが、竹本登尚太夫(たけもととしょうだゆう)を襲名し、太夫幕が授与されたのです。とても重みのある襲名披露の場に居合わせることができました。こうやって、晴れやかに、誇らしく、後継者を生んで行くのですね。
同時に、芸を究めた浄瑠璃弾語りの名手として、永きに渡って大鹿歌舞伎の向上に努めた功績を讃え、片桐さん、竹本登太夫にも、新しい太夫幕が寄贈されました。太夫幕は、本番舞台のときに、浄瑠璃を弾語る「太夫座」の表に掲げられます。

今日ひとつめの外題は「鎌倉三代記・三浦別れの段」。
大鹿村青年団の豆本によると、大阪夏の陣、政略結婚をさせられた千姫を巡る、徳川と豊臣の謀略を、鎌倉時代に置き換えて描いた物語です。真田幸村転じて、佐々木高綱が策士として大活躍する物語です。今日襲名披露したばかりの竹本登尚太夫の弾語り。早くも、おひねりが飛び交います。
大鹿歌舞伎の芸域は、「素人の村芝居」というような域のものではありません。「練習不足が否めない」と、口上では述べられていましたが、それにしても、とても伝わって来る舞台表現が、出来上がっています。素晴らしい。
後半は「御所桜堀川夜討・弁慶上使の段」。
こちらは、師匠・竹本登太夫が浄瑠璃を弾語ります。やはり、すごいです。声の飛んで来る速さ、三味線の表情、節回し。歌舞伎の語りについて云々できるほどの素養は、もとよりありませんが、意味はわからずとも、魅力を感じることは、誰でもできるものですね。お師匠さん、普段の話し振りも、面白くて惹きつけられるのですが、舞台での浄瑠璃弾語りは、やはり見事。
この演目が上演されるのは、だいぶ久しぶりのようです。青年団の人たちも「この段は見たことがない」と言っていましたが、大鹿歌舞伎のレパートリーは、とても豊富で、主な演目だけでも20くらい、全部で40近い演目があるようです。

ふたつの外題が、ゆったりした幕間を挟んで、3時間ほどで上演されました。時間は、とても緩やかに流れました。詰めかけた人々はみんな、とても満足げに、楽しそうな表情をしています。
口うるさい注意事項は、一切ありません。ご飯を食べていてもいいし、お酒を飲んで、陽気になっていてもいいし、おひねりはどれだけ投げてもいいし、いつ投げてもいいし、写真を撮るのも、ビデオを撮るのも、一切の禁止事項はありません。けれど、誰も、芝居の流れや会場の雰囲気を乱しません。1500人あまりの観衆みんなが、緩やかに舞台に集中していて、観ていても、観ていなくても、会場全体が、芝居の流れをわかっているかんじなのです。前の方で、小学生くらいの子供達が、目を輝かせて真剣に見入ってたりもします。とてもいいかんじです。
最後は「千秋楽・お手打ちの儀」です。
この日の出演者、裏方さんたちが、全員舞台上に並び、代表として、竹本登太夫がお礼の口上を述べます。今日の公演が成功したことへの感謝を述べ、再会を祈り、出演者も、観衆も、神社にいる全員で、「シャシャンがシャン!おシャシャのシャン!」と手を打って終わります。とても堂々とした終わり方です。

大鹿歌舞伎の魅力は、とても良いかたちで外に流れ出しているように思います。300年という長い歴史は、もちろん素晴らしいものですが、それだけではないのだと思います。近代の社会の変質に同調せず、大鹿村の流儀を変えず、けれど、自分たちを守るために閉鎖するのではなく、外から来る人々を寛容に受入れ、国立劇場で上演したこともあれば、オーストラリアやドイツへ遠征もする、積極的に他の地域へ出かけていく姿勢が大鹿歌舞伎にはあります。たぶんそれらのことは、高い認識に裏付けられた、自分たちへの誇りと自信がなければ、できないことだったりします。
終演後、境内はテキパキと片付けられて、あっというまに元の神社に戻ります。ゴミはひとつも落ちていません。
雑貨店「さくら組」、神社の坂の下で開いていた露店も、店じまい。さくら組は、地元の女性達による手拭、雑貨屋さん。自分たちでデザインした手拭や、手拭で作った様々な生活雑貨を売っています。とてもセンスのいい、個性的な品が並んでいます。
大鹿村の山中でコーヒー豆を商っている「カフェマヤ」も、今日はお店を開いてて、一日じゅう、境内にコーヒーの良い香りが漂いました。隣りのたこ焼き屋さんも、五平餅屋さんも、ほかの屋台も、すべて大鹿の人たちがやっています。
とても面白い一日でした。面白いだけではない、いろいろな人やものごとに出会って、いろいろなことを知った、有意義な祭でした。この雰囲気が好きで毎回来る、という人の気持ちがわかります。ただの一日の娯楽、行楽ではない、大きな自然と人間のアイディアの循環が、その魅力を生んでいるのだと思いました。
次は秋の定期公演。……また行こ。

【Ngene掲載:2008年5月7日】 文、写真:宮内俊宏
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